9話「膝裏」

境界の食卓

温泉街へ着いたのは、昼を少し回った頃だった。

駅前のロータリーには、宿の送迎車が三台並んでいた。

真壁円は、そのうち一番古そうな銀色のワゴンへ乗り込む。

「資料館の研修旅行なんて、珍しいですね。」

運転席の後ろから言うと、館長は窓の外を見たまま答えた。

「研修ではないよ。」

「じゃあ慰安旅行ですか。」

「それでもない。」

「経費ですか。」

「一部だけ。」

「一番曖昧ですね。」

館長は返事をしなかった。

助手席には、資料館で使う封筒や箱をまとめた紙袋が置いてある。

今回の目的は、近隣の資料館との情報交換と、古い温泉街に残る民俗資料を見ることだった。

それとは別に、館長は宿の温泉にも入りたいらしい。

円には、そちらの方が本当の目的に見えた。

山道へ入る。

窓の外に杉林が続く。

やがて、道路沿いの側溝から白い湯気が立ち始めた。

硫黄の匂いが濃くなる。

卵が腐ったような。

湿った石のような。

鼻の奥へ残る、重い匂い。

円は少し窓を開けた。

『閉めろ。』

頭の奥で、カイギデルが言った。

「なんで。」

『臭い。』

「温泉だよ。」

『知っている。』

「じゃあいいでしょ。」

『嫌いだ。』

「悪魔なのに。」

『悪魔だから硫黄が好きだと思うな。』

円は窓を少しだけ閉めた。

館長が前を向いたまま言う。

「車酔いかい。」

「いえ。」

「ならいい。」

それだけだった。

温泉街は、山の斜面に沿って広がっていた。

古い木造旅館。

新しいホテル。

土産物屋。

射的場。

足湯。

コンビニ。

観光案内所。

ところどころで、地面の隙間から湯気が上がっている。

外国人観光客が写真を撮っていた。

宿の浴衣姿で歩く若者もいる。

円たちは宿へ荷物を置いた。

午後は自由行動になった。

館長は、

「五時までに戻ってくれればいい。」

と言って、一人で坂の上へ消えた。

円も町へ出る。

紺色のシャツ。

薄いパンツ。

歩き慣れた靴。

肩には小さな布の鞄。

外へ出た途端、カイギデルの気配が近くなる。

外出中だけ、彼は円を依代にする。

円の目で見て。

円の耳で聞いて。

円の影の中にいる。

『右へ行け。』

「何があるの。」

『湯気が少ない。』

「硫黄が嫌なだけでしょ。」

『そうだ。』

円は左へ曲がった。

『円。』

「観光だから。」

『関係ない。』

「あるよ。」

坂道を下りる。

道の両側に、小さな店が続いている。

温泉饅頭。

地酒。

木工品。

硫黄の匂いを売り物にした入浴剤。

店頭の蒸し器から、白い湯気が上がっていた。

円は一軒の店の前で立ち止まる。

温泉卵が籠に入っている。

六個入り。

値段を見る。

「高い。」

『買うな。』

「旅先だから。」

『高いものは高い。』

「悪魔なのに。」

『金は大事だ。』

円は少し黙った。

「前にも聞いた。」

『大事なことは何度でも言う。』

結局、二個入りの小さな袋を買った。

店を出る。

少し先を、若い女性二人が歩いていた。

二人とも宿の浴衣姿だった。

片方は、浴衣の上から黒いナイロンのリュックを背負っている。

肩紐はかなり長く伸ばされていた。

鞄本体が腰より下まで落ちている。

背面には、たくさんの飾りが付いていた。

アクリルキーホルダー。

小さなぬいぐるみ。

缶バッジ。

鈴。

キャラクターの顔が印刷された札。

歩くたびに、

じゃら。

じゃら。

と音がする。

「いっぱい付けるんだね。」

円が小さく言う。

『何を。』

「鞄に。」

『邪魔だろう。』

「本人が好きならいいんじゃない。」

『重そうだ。』

「カイギデルより軽いよ。」

返事がなかった。

円は少し笑った。

そのとき。

湯気が流れてきた。

一瞬だけ、硫黄の匂いが濃くなる。

ただ濃くなっただけだった。

観光客の何人かが鼻を押さえる。

「今日、結構匂うね。」

「温泉来たって感じする。」

前を歩く女性たちが笑う。

黒いリュックが揺れる。

じゃら。

じゃら。

その中に。

ひとつだけ。

音のしないものがあった。

円は足を止める。

細長い。

黒い。

濡れた角の先のようなものが、飾りの隙間から伸びている。

女性が一歩進む。

コツン。

膝の裏へ当たる。

もう一歩。

コツン。

また当たる。

女性は気にしない。

スマートフォンを見ながら歩いている。

コツン。

コツン。

右足だけ。

同じところを叩いている。

飾りが多いから紛れたのか。

それとも、最初からそこにいたのか。

円には分からなかった。

『見るな。』

カイギデルが言った。

「見える。」

『そうではない。』

「じゃあ何。」

『気づかせるな。』

円は口を閉じる。

前の女性はまだ歩いている。

コツン。

コツン。

右足。

膝の裏。

少しずつ、歩幅が狭くなっている。

本人は気づいていない。

「足、変じゃない?」

一緒に歩いている友人が言った。

「え?」

「なんか歩き方。」

「浴衣だからじゃない?」

「そうかな。」

「さっきお風呂入ったから、ちょっと力抜けてるかも。」

二人は笑う。

そのまま歩く。

円は後ろをついていく。

『円。』

「声はかけない。」

『ならいい。』

「でも。」

少し先に、急な下り坂が見えた。

石畳。

ところどころ濡れている。

脇に手すりがある。

女性の膝裏を、また、

コツン。

「転ぶかも。」

カイギデルが黙る。

円は少し歩調を速めた。

そのとき。

道端の土産物屋から、年配の女性が顔を出した。

「お姉ちゃんたち。」

若い二人が振り向く。

「そこから下、滑るよ。」

「はーい。」

「手すり使って。歩幅ちっちゃくね。」

「ありがとうございます。」

二人は素直に速度を落とした。

黒いリュックの女性も手すりを持つ。

一歩。

コツン。

もう一歩。

コツン。

それでも、歩幅が小さい。

膝は崩れない。

二人はゆっくり坂を下りていった。

土産物屋の女性は、それを見届ける。

それから店の奥へ戻った。

円は店先で立ち止まる。

吊り下げられた木札に、

《温泉まんじゅう 十個入》

と書いてある。

店の女性が円に気づいた。

「お土産?」

「いえ。」

「見るだけでもいいよ。」

円は少し迷う。

「さっきの。」

「ん?」

「歩幅。」

女性は一瞬だけ円を見る。

それから、なんでもない顔で言った。

「この辺、湯上がりの人がよく膝抜けるからね。」

「膝が。」

「そう。」

「硫黄が濃い日とか?」

女性は少しだけ笑った。

「よく知ってるね。」

円は知らなかった。

「そうなんですか。」

「昔から。」

店の奥で、蒸し器が鳴る。

しゅう。

しゅう。

白い湯気が上がる。

「坂では歩幅小さくしなって、子どもの頃から言われるよ。」

「転ぶから。」

「転ぶから。」

それだけだった。

円は頭を下げる。

「ありがとうございます。」

「饅頭買ってかない?」

「さっき温泉卵買いました。」

「別腹だよ。」

「高いので。」

「温泉地で値段気にしちゃだめ。」

『正しい。』

頭の中でカイギデルが言った。

円は少し黙る。

「じゃあ二個だけ。」

店の女性は笑った。

紙袋へ温泉饅頭を二つ入れる。

「二百八十円。」

円は小銭を出した。

店を離れる。

『なぜ買った。』

「カイギデルが正しいって言ったから。」

『俺は買えとは言っていない。』

「聞こえ方の問題。」

『違う。』

坂を下りる。

さっきの女性二人は、もう見えない。

ただ、硫黄の匂いだけが残っている。

「知ってるの?」

円が訊く。

『何を。』

「膝の裏を叩くやつ。」

『似たものはいる。』

「名前は。」

『ない。』

「地元では?」

『知らん。』

「悪魔?」

少し間があった。

『昔は、そう呼んだ者もいた。』

「今は?」

『膝を叩く。』

「それだけ?」

『それだけだ。』

円は歩く。

「悪いことする?」

『転べば怪我をする。』

「それはそう。」

『なら悪い。』

「でも、叩くだけなんでしょ。」

『そうだ。』

円は少し考えた。

「虫みたい。」

『何が。』

「そこにいるから、人間側が歩き方を変える。」

カイギデルは返事をしない。

坂を下りたところに、小さな共同浴場があった。

軒先にベンチがある。

浴衣姿の老人が三人座っている。

足元には牛乳瓶。

一人が円を見る。

「観光?」

「はい。」

「上から来たなら、滑らなかったか。」

「大丈夫です。」

「今日は匂い濃いからな。」

別の老人が笑う。

「若いのは歩幅でかいから危ない。」

「昔から言うだろ。」

「硫黄が濃い日は、膝裏空けるなって。」

「そんな言い方だったか?」

「違ったか?」

三人で笑う。

誰も詳しく説明しない。

円は少し頭を下げ、その場を離れた。

『残っているな。』

カイギデルが言う。

「何が。」

『言い方だけ。』

「十分じゃない。」

『何が。』

「転ばなければ。」

しばらく返事がなかった。

『そうだな。』

夕方。

円は宿へ戻った。

館長はすでにロビーにいた。

浴衣姿だった。

「早かったですね。」

「温泉に入っていた。」

「資料は。」

「見た。」

「いつ。」

「入る前に。」

本当かどうかは分からない。

館長は卓上の観光案内をめくっている。

円は向かいへ座った。

「この町、硫黄が濃い日は歩幅を小さくするんですね。」

館長の指が止まった。

「そうらしいね。」

「知ってたんですか。」

「知っていたよ。」

「それも民俗資料ですか。」

館長は少し考えた。

「資料になる前から、民俗ではあるね。」

円は黙る。

館長は観光案内を閉じた。

「だから来た。」

「これを見に?」

「それもある。」

「それも。」

「温泉もある。」

やっぱりそちらも目的だった。

夕食まで少し時間がある。

円も風呂へ行った。

露天風呂は、山へ向かって開けている。

岩の隙間から湯が流れ込む。

湯気。

硫黄。

遠くで鳥が鳴く。

湯の中へ入る。

熱い。

ゆっくり肩まで浸かる。

隣では若い女性客が二人、写真を撮れないことを残念がっていた。

「スマホ持ってこれないのきつい。」

「絶対映えるのに。」

「ね。」

円は目を閉じる。

『熱い。』

カイギデルが言った。

「入ってないでしょ。」

『お前を通して分かる。』

「じゃあ出れば。」

『外出中だ。』

「宿の中も外出?」

『家ではない。』

「面倒だね。」

『お前が言うな。』

風呂から上がる。

脱衣所。

円は髪を乾かす。

隣で若い女性が、膝裏をさすっていた。

「なんかここ痛い。」

友人が見る。

「ぶつけた?」

「覚えてない。」

「温泉で力抜けたんじゃない?」

「かな。」

円は鏡越しに見る。

昼間の二人だった。

黒いリュックはない。

当然だった。

ただ、右の膝裏に小さな赤い跡がある。

丸い。

指先で軽く押したような形。

円は何も言わなかった。

部屋へ戻る。

夕食は広間だった。

刺身。

山菜。

川魚。

小さな鍋。

温泉蒸しの野菜。

白いご飯。

館長は黙って食べる。

円も食べる。

「この魚、おいしいですね。」

「山女魚だ。」

「塩が強い。」

「川魚はそれくらいでいい。」

『俺もそう思う。』

カイギデルが言う。

「二対一。」

館長が箸を止める。

「何が。」

「いえ。」

館長は一度だけ円を見た。

それ以上は訊かなかった。

食後。

部屋へ戻る。

窓を開けると、夜の温泉街が見えた。

提灯。

湯気。

坂道。

宿の明かり。

遠くで下駄の音がする。

からん。

ころん。

からん。

ころん。

その中に。

コツン。

という音が一度だけ混じった。

円は窓の外を見る。

誰もいない。

硫黄の匂いが、少し濃くなる。

「いるね。」

『いる。』

「宿の中にも?」

『境目が曖昧だ。』

「温泉だから?」

『湯気がある。』

「それだけ?」

『それだけで十分なこともある。』

円は窓を少し閉める。

「地元の人、慣れてるね。」

『長く住めばそうなる。』

「名前も知らないのに。」

『名前は必要ない。』

「でも、歩き方は知ってる。」

『それで足りる。』

円は少し笑った。

テーブルの上に、昼に買った温泉饅頭が一つ残っている。

紙袋を開ける。

半分に割る。

まだ少し柔らかい。

円は一口食べた。

「あんこ。」

『見れば分かる。』

「甘い。」

『それも分かる。』

「食べたい?」

『いらん。』

「硫黄臭いから?」

『関係ない。』

円はもう一口食べる。

夜の温泉街では、観光客がまだ歩いている。

浴衣。

サンダル。

下駄。

スマートフォン。

低い位置までずらしたリュック。

たくさんのキーホルダー。

坂の上から、若い二人連れが下りてくる。

坂へ差しかかると、一人が手すりを持った。

もう一人も真似をする。

歩幅が少し小さくなる。

その後ろから来た老人は、最初からゆっくり歩いている。

からん。

ころん。

じゃら。

じゃら。

その奥で、ごく小さく、

コツン。

と鳴った。

誰も振り返らない。

円も振り返らなかった。

最後の饅頭を食べる。

窓の外で、白い湯気が一度だけ大きく揺れた。

その向こうに何かいたようにも見えた。

けれど、次の瞬間にはもう何もいない。

円は窓を閉める。

「明日の朝も温泉入ろうかな。」

『やめろ。』

「なんで。」

『臭い。』

「慣れるよ。」

『慣れたくない。』

円は布団へ入った。

遠くで湯が流れている。

その音に混じって、

コツン。

と、一度だけ。

誰かの膝の裏を叩くような音がした。

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