10話「海だよ」

境界の食卓

朝から、よく晴れていた。

真壁円は車の鍵を回した。

古い軽自動車のエンジンが、少し遅れて震え始める。

助手席には布の鞄。

後部座席には、資料館から預かった段ボール箱が二つ。

中身は、郊外の分館へ返却する展示用パネルと、借りていた古写真の複製だった。

館長は、

「急がなくていい。」

と言った。

期限は今日だった。

円は、

「急いだ方がいいんじゃないですか。」

と返した。

館長は、

「事故を起こさない方が大事だ。」

と言った。

それもそうだった。

円はシートベルトを締める。

エアコンを入れる。

カーナビの目的地を確認する。

「一時間四十分。」

『遠いな。』

カイギデルが言った。

「そうでもないよ。」

『徒歩では遠い。』

「車だから。」

『車は信用していない。』

「前も言ってたね。」

『速すぎる。』

「電車より遅いよ。」

『あれはもっと信用していない。』

円は車を出した。

商店街を抜ける。

朝の魚屋では、氷を砕く音がしていた。

八百屋の前には、段ボール箱が積んである。

茶屋の軒先では、奥さんが簾を直していた。

円が窓越しに軽く手を上げる。

向こうも気づいて、手を振った。

信号を曲がる。

町が少しずつ離れていく。

『今日はどこへ行く。』

「海の方。」

『海。』

「返却。」

『何を。』

「古写真。」

『海の写真か。』

「違う。昔の製材所。」

『なぜ海へ。』

「分館が海の方にあるから。」

『そうか。』

会話は終わった。

円は運転する。

県道へ出る。

道路沿いに住宅が続く。

コンビニ。

ガソリンスタンド。

ホームセンター。

中古車店。

少しずつ建物が減る。

田んぼが増える。

刈り取り前の稲が、風で一方向へ傾いている。

カイギデルは何も言わない。

外出中は、円の身体を依代にしている。

だから窓の外も見えているはずだった。

どこまで同じように見えているのかは、円にも分からない。

一度、訊いたことがある。

「私と同じ色に見えるの。」

『知らん。』

「比べられないか。」

『お前になったことがない。』

「今、なってるんじゃないの。」

『借りているだけだ。』

その話も、それで終わった。

交差点を右へ曲がる。

道が山へ入る。

杉林。

法面。

ガードレール。

ところどころに、小さな祠がある。

円は前を見たまま、

「祠。」

と言った。

『見えている。』

「そう。」

また黙る。

少し先で、道路脇の電線に大きな鳥が止まっていた。

「トビ。」

『あれは知っている。』

「そうなんだ。」

『何度も見た。』

「うちのカラスとは違うよ。」

『それも知っている。』

円は少し笑った。

道が下り始める。

山の向こうが明るい。

エンジンの音。

タイヤが道路を擦る音。

カーブへ入るたび、円の手がハンドルを少し動かす。

やがて。

景色が急に開けた。

青い面が見えた。

遠くまで。

陽を受けて光っている。

円は言った。

「海だよ。」

『そうか。』

カイギデルが答えた。

円は、それ以上何も言わなかった。

車はそのまま走る。

左側に山。

右側に海。

道路と海の間には、防風林と古い民家がところどころ挟まっている。

遠くに船。

白い波。

防波堤。

カイギデルは海を見ていた。

見えていた。

円の目を借りているのだから、海が現れたことは分かっている。

それでも円は、

海だよ。

と言った。

なぜ教えた。

カイギデルは考える。

見えていないと思ったわけではない。

円は、自分が外を見ていることを知っている。

何かを説明したわけでもない。

綺麗だとも。

広いとも。

懐かしいとも言わなかった。

ただ、

海だよ。

それだけだった。

車は一定の速度で走っている。

白線が流れる。

時々、対向車が過ぎる。

円が方向指示器を出す。

かち。

かち。

かち。

昔なら。

答えの出ない問いは、不快だった。

分からないものは分ける必要があった。

形。

名前。

内側。

外側。

どこに属するのか。

それが分からなければ、足場がなくなる。

今は。

かち。

方向指示器が止まる。

円は何も言わない。

海はまだ右側にある。

答えは出ない。

それでも、別に困らなかった。

「コンビニ寄る。」

円が言った。

『なぜ。』

「コーヒー。」

『あるだろう。』

「水筒のは飲んだ。」

『早い。』

「朝から飲んでるから。」

海沿いのコンビニへ入る。

駐車場には、釣り道具を積んだ車が何台か止まっていた。

円は店へ入る。

カイギデルも一緒に入る。

もちろん姿はない。

円の視界の中で、棚が流れていく。

飲み物。

弁当。

菓子。

雑誌。

円は冷蔵棚からペットボトルの無糖コーヒーを取った。

『それか。』

「運転中だから。」

『薄い。』

「家で淹れて。」

『俺の豆を。』

「境界を越えたら私の。」

『まだ言うか。』

「言うよ。」

会計を済ませる。

車へ戻る。

円はペットボトルを開け、一口飲んだ。

「苦い。」

『当然だ。』

「おいしい。」

『矛盾している。』

「そう?」

『苦いのに、なぜ飲む。』

「好きだから。」

『なぜ好きだ。』

円は蓋を閉める。

少し考えた。

「知らない。」

車を出す。

カイギデルは黙る。

知らない。

それで話は終わった。

円は、それで困っていない。

車は海沿いを走る。

道路脇に、小さな漁港が見えた。

「船。」

『見えている。』

「うん。」

しばらくして。

「灯台。」

『ああ。』

さらに走る。

電線の上に、白い鳥が何羽も並んでいる。

「カモメ。」

『多いな。』

「ほんとだ。」

また、会話がなくなる。

波が防波堤へ当たっている。

白い船が一隻、ゆっくり沖へ出ていく。

円は前を見ている。

カイギデルは海を見る。

船。

灯台。

鳥。

どれも見えている。

それでも円は、ときどき名前を置く。

カイギデルには、まだその理由が分からなかった。

分館へ着いたのは、十一時を少し過ぎた頃だった。

小さな建物だった。

白い壁。

青い屋根。

駐車場の向こうに防波堤が見える。

円は段ボール箱を二つ運んだ。

受付の女性が出てくる。

「ああ、虹蛇のところの。」

「はい。返却です。」

「遠かったでしょう。」

「海が見えました。」

「そうね。今日は晴れてるから綺麗でしょう。」

「はい。」

円はそう答えた。

それだけだった。

返却確認の紙へ署名する。

女性が、

「せっかくだから展示見ていく?」

と訊いた。

「見ます。」

円は館内を歩く。

漁具。

昔の海岸線の写真。

海藻を干す道具。

古い浮き。

小さな船の模型。

一角に、津波の記録があった。

写真。

避難路。

石碑の拓本。

円は立ち止まる。

海水が町へ入り込んでいる古い写真。

倒れた家。

流された木材。

高台へ続く道。

『海は、こうもなるのか。』

カイギデルが言った。

「なるね。」

『怖くないのか。』

「怖いよ。」

『さっきは教えただけだった。』

「海だったから。」

『同じものか。』

円は写真を見る。

「同じ海でしょ。」

『そうか。』

「うん。」

カイギデルは、写真の中の海を見る。

それから、窓の向こうを見る。

防波堤の向こうで、今日の海が光っていた。

帰り。

昼食に、小さな食堂へ寄った。

円は焼き魚定食を頼んだ。

鯖。

味噌汁。

漬物。

冷奴。

白いご飯。

「海まで来て鯖。」

『昨日も魚だった。』

「昨日は鱈。」

『魚だ。』

「でも鯖じゃない。」

『分類が細かい。』

「食べるものだからね。」

カイギデルは少し考える。

円は、怪異を細かく分類しない。

境界についても。

虹蛇についても。

自分についても。

しかし食べ物は分ける。

鱈と鯖は違う。

赤玉ねぎとレッドオニオンは同じだが、呼び方には意地を張る。

トマトの値段は覚えている。

鳥の餌の種類も。

『分からんな。』

「何が。」

『お前の分類だ。』

円は鯖を一口食べる。

「おいしい。」

『聞いているか。』

「聞いてる。」

「家でも焼こうかな。」

『煙が出る。』

「換気する。」

『鳥が嫌がる。』

「じゃあやめる。」

『早いな。』

「嫌がるなら仕方ない。」

円はまた鯖を食べた。

カイギデルは、それ以上訊かなかった。

食後。

帰り道。

午後の海は、朝より白く光っていた。

円は運転する。

眠くならないよう、窓を少し開ける。

潮の匂いが入る。

風が円の髪を少し揺らす。

カイギデルは何も言わない。

硫黄の匂いは嫌がるのに、潮は平気らしい。

円は訊かなかった。

しばらくして。

道路脇に、干物の直売所が見えた。

円は速度を落とす。

「寄る?」

『俺に訊くな。』

「買うか迷ってる。」

『なら寄れ。』

「高かったら?」

『帰れ。』

円は駐車場へ入った。

鯵の干物。

鯖。

金目鯛。

いか。

値札を見ていく。

円は鯵を二枚買った。

「明日の夕飯。」

『また魚か。』

「海だったから。」

『それは理由になるのか。』

「なるよ。」

『そうか。』

車へ戻る。

また海沿いの道。

帰る方向。

円は運転している。

カイギデルは海を見る。

なぜ海だと教えたのか。

まだ分からない。

訊けば、円はたぶん、

海が見えたから。

と言う。

それ以上は出てこないだろう。

カイギデルは訊かなかった。

車の中には、一人しか見えない。

円の手がハンドルを握っている。

助手席には布の鞄。

後部座席には、空になった場所が二つ。

返却した箱の跡だけが残っている。

エンジンの音。

風の音。

時々、波。

しばらく何も話さない。

それでも。

「船。」

円が言った。

『見えている。』

「うん。」

また静かになる。

それでよかった。

山道へ入る前。

最後にもう一度、海が大きく見えた。

夕方の光で、水平線が少し橙色になっている。

円が言った。

「夕焼け。」

『ああ。』

少しして。

「きれい。」

カイギデルは海を見る。

円はもう次のカーブを見ている。

『円。』

「うん。」

『なぜ教える。』

「何を。」

『海も。船も。夕焼けも。』

円は少し考えた。

カイギデルは待つ。

車が一台、向こうから来る。

円は少し左へ寄る。

すれ違う。

「見えたから。」

『それだけか。』

「うん。」

円は前を見たまま言う。

「見えたから、言った。」

少しして。

「嫌だった?」

『いや。』

「じゃあいいね。」

会話は終わった。

円は前を見る。

カイギデルは、もう一度だけ海を見る。

海はカーブの向こうへ消えた。

それでも、しばらく青い残像が残っていた。

見えたから。

それだけ。

カイギデルは、その言葉を分けなかった。

車は山へ入る。

円はラジオをつけた。

天気予報が流れる。

明日も晴れ。

降水確率二十パーセント。

「洗濯しよう。」

『鳥の敷紙も替えろ。』

「覚えてたんだ。」

『昨日言っていた。』

「そうだっけ。」

『言った。』

円は笑った。

車は町へ戻っていった。

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