朝から、よく晴れていた。
真壁円は車の鍵を回した。
古い軽自動車のエンジンが、少し遅れて震え始める。
助手席には布の鞄。
後部座席には、資料館から預かった段ボール箱が二つ。
中身は、郊外の分館へ返却する展示用パネルと、借りていた古写真の複製だった。
館長は、
「急がなくていい。」
と言った。
期限は今日だった。
円は、
「急いだ方がいいんじゃないですか。」
と返した。
館長は、
「事故を起こさない方が大事だ。」
と言った。
それもそうだった。
円はシートベルトを締める。
エアコンを入れる。
カーナビの目的地を確認する。
「一時間四十分。」
『遠いな。』
カイギデルが言った。
「そうでもないよ。」
『徒歩では遠い。』
「車だから。」
『車は信用していない。』
「前も言ってたね。」
『速すぎる。』
「電車より遅いよ。」
『あれはもっと信用していない。』
円は車を出した。
商店街を抜ける。
朝の魚屋では、氷を砕く音がしていた。
八百屋の前には、段ボール箱が積んである。
茶屋の軒先では、奥さんが簾を直していた。
円が窓越しに軽く手を上げる。
向こうも気づいて、手を振った。
信号を曲がる。
町が少しずつ離れていく。
『今日はどこへ行く。』
「海の方。」
『海。』
「返却。」
『何を。』
「古写真。」
『海の写真か。』
「違う。昔の製材所。」
『なぜ海へ。』
「分館が海の方にあるから。」
『そうか。』
会話は終わった。
円は運転する。
県道へ出る。
道路沿いに住宅が続く。
コンビニ。
ガソリンスタンド。
ホームセンター。
中古車店。
少しずつ建物が減る。
田んぼが増える。
刈り取り前の稲が、風で一方向へ傾いている。
カイギデルは何も言わない。
外出中は、円の身体を依代にしている。
だから窓の外も見えているはずだった。
どこまで同じように見えているのかは、円にも分からない。
一度、訊いたことがある。
「私と同じ色に見えるの。」
『知らん。』
「比べられないか。」
『お前になったことがない。』
「今、なってるんじゃないの。」
『借りているだけだ。』
その話も、それで終わった。
交差点を右へ曲がる。
道が山へ入る。
杉林。
法面。
ガードレール。
ところどころに、小さな祠がある。
円は前を見たまま、
「祠。」
と言った。
『見えている。』
「そう。」
また黙る。
少し先で、道路脇の電線に大きな鳥が止まっていた。
「トビ。」
『あれは知っている。』
「そうなんだ。」
『何度も見た。』
「うちのカラスとは違うよ。」
『それも知っている。』
円は少し笑った。
道が下り始める。
山の向こうが明るい。
エンジンの音。
タイヤが道路を擦る音。
カーブへ入るたび、円の手がハンドルを少し動かす。
やがて。
景色が急に開けた。
青い面が見えた。
遠くまで。
陽を受けて光っている。
円は言った。
「海だよ。」
『そうか。』
カイギデルが答えた。
円は、それ以上何も言わなかった。
車はそのまま走る。
左側に山。
右側に海。
道路と海の間には、防風林と古い民家がところどころ挟まっている。
遠くに船。
白い波。
防波堤。
カイギデルは海を見ていた。
見えていた。
円の目を借りているのだから、海が現れたことは分かっている。
それでも円は、
海だよ。
と言った。
なぜ教えた。
カイギデルは考える。
見えていないと思ったわけではない。
円は、自分が外を見ていることを知っている。
何かを説明したわけでもない。
綺麗だとも。
広いとも。
懐かしいとも言わなかった。
ただ、
海だよ。
それだけだった。
車は一定の速度で走っている。
白線が流れる。
時々、対向車が過ぎる。
円が方向指示器を出す。
かち。
かち。
かち。
昔なら。
答えの出ない問いは、不快だった。
分からないものは分ける必要があった。
形。
名前。
内側。
外側。
どこに属するのか。
それが分からなければ、足場がなくなる。
今は。
かち。
方向指示器が止まる。
円は何も言わない。
海はまだ右側にある。
答えは出ない。
それでも、別に困らなかった。
「コンビニ寄る。」
円が言った。
『なぜ。』
「コーヒー。」
『あるだろう。』
「水筒のは飲んだ。」
『早い。』
「朝から飲んでるから。」
海沿いのコンビニへ入る。
駐車場には、釣り道具を積んだ車が何台か止まっていた。
円は店へ入る。
カイギデルも一緒に入る。
もちろん姿はない。
円の視界の中で、棚が流れていく。
飲み物。
弁当。
菓子。
雑誌。
円は冷蔵棚からペットボトルの無糖コーヒーを取った。
『それか。』
「運転中だから。」
『薄い。』
「家で淹れて。」
『俺の豆を。』
「境界を越えたら私の。」
『まだ言うか。』
「言うよ。」
会計を済ませる。
車へ戻る。
円はペットボトルを開け、一口飲んだ。
「苦い。」
『当然だ。』
「おいしい。」
『矛盾している。』
「そう?」
『苦いのに、なぜ飲む。』
「好きだから。」
『なぜ好きだ。』
円は蓋を閉める。
少し考えた。
「知らない。」
車を出す。
カイギデルは黙る。
知らない。
それで話は終わった。
円は、それで困っていない。
車は海沿いを走る。
道路脇に、小さな漁港が見えた。
「船。」
『見えている。』
「うん。」
しばらくして。
「灯台。」
『ああ。』
さらに走る。
電線の上に、白い鳥が何羽も並んでいる。
「カモメ。」
『多いな。』
「ほんとだ。」
また、会話がなくなる。
波が防波堤へ当たっている。
白い船が一隻、ゆっくり沖へ出ていく。
円は前を見ている。
カイギデルは海を見る。
船。
灯台。
鳥。
どれも見えている。
それでも円は、ときどき名前を置く。
カイギデルには、まだその理由が分からなかった。
分館へ着いたのは、十一時を少し過ぎた頃だった。
小さな建物だった。
白い壁。
青い屋根。
駐車場の向こうに防波堤が見える。
円は段ボール箱を二つ運んだ。
受付の女性が出てくる。
「ああ、虹蛇のところの。」
「はい。返却です。」
「遠かったでしょう。」
「海が見えました。」
「そうね。今日は晴れてるから綺麗でしょう。」
「はい。」
円はそう答えた。
それだけだった。
返却確認の紙へ署名する。
女性が、
「せっかくだから展示見ていく?」
と訊いた。
「見ます。」
円は館内を歩く。
漁具。
昔の海岸線の写真。
海藻を干す道具。
古い浮き。
小さな船の模型。
一角に、津波の記録があった。
写真。
避難路。
石碑の拓本。
円は立ち止まる。
海水が町へ入り込んでいる古い写真。
倒れた家。
流された木材。
高台へ続く道。
『海は、こうもなるのか。』
カイギデルが言った。
「なるね。」
『怖くないのか。』
「怖いよ。」
『さっきは教えただけだった。』
「海だったから。」
『同じものか。』
円は写真を見る。
「同じ海でしょ。」
『そうか。』
「うん。」
カイギデルは、写真の中の海を見る。
それから、窓の向こうを見る。
防波堤の向こうで、今日の海が光っていた。
帰り。
昼食に、小さな食堂へ寄った。
円は焼き魚定食を頼んだ。
鯖。
味噌汁。
漬物。
冷奴。
白いご飯。
「海まで来て鯖。」
『昨日も魚だった。』
「昨日は鱈。」
『魚だ。』
「でも鯖じゃない。」
『分類が細かい。』
「食べるものだからね。」
カイギデルは少し考える。
円は、怪異を細かく分類しない。
境界についても。
虹蛇についても。
自分についても。
しかし食べ物は分ける。
鱈と鯖は違う。
赤玉ねぎとレッドオニオンは同じだが、呼び方には意地を張る。
トマトの値段は覚えている。
鳥の餌の種類も。
『分からんな。』
「何が。」
『お前の分類だ。』
円は鯖を一口食べる。
「おいしい。」
『聞いているか。』
「聞いてる。」
「家でも焼こうかな。」
『煙が出る。』
「換気する。」
『鳥が嫌がる。』
「じゃあやめる。」
『早いな。』
「嫌がるなら仕方ない。」
円はまた鯖を食べた。
カイギデルは、それ以上訊かなかった。
食後。
帰り道。
午後の海は、朝より白く光っていた。
円は運転する。
眠くならないよう、窓を少し開ける。
潮の匂いが入る。
風が円の髪を少し揺らす。
カイギデルは何も言わない。
硫黄の匂いは嫌がるのに、潮は平気らしい。
円は訊かなかった。
しばらくして。
道路脇に、干物の直売所が見えた。
円は速度を落とす。
「寄る?」
『俺に訊くな。』
「買うか迷ってる。」
『なら寄れ。』
「高かったら?」
『帰れ。』
円は駐車場へ入った。
鯵の干物。
鯖。
金目鯛。
いか。
値札を見ていく。
円は鯵を二枚買った。
「明日の夕飯。」
『また魚か。』
「海だったから。」
『それは理由になるのか。』
「なるよ。」
『そうか。』
車へ戻る。
また海沿いの道。
帰る方向。
円は運転している。
カイギデルは海を見る。
なぜ海だと教えたのか。
まだ分からない。
訊けば、円はたぶん、
海が見えたから。
と言う。
それ以上は出てこないだろう。
カイギデルは訊かなかった。
車の中には、一人しか見えない。
円の手がハンドルを握っている。
助手席には布の鞄。
後部座席には、空になった場所が二つ。
返却した箱の跡だけが残っている。
エンジンの音。
風の音。
時々、波。
しばらく何も話さない。
それでも。
「船。」
円が言った。
『見えている。』
「うん。」
また静かになる。
それでよかった。
山道へ入る前。
最後にもう一度、海が大きく見えた。
夕方の光で、水平線が少し橙色になっている。
円が言った。
「夕焼け。」
『ああ。』
少しして。
「きれい。」
カイギデルは海を見る。
円はもう次のカーブを見ている。
『円。』
「うん。」
『なぜ教える。』
「何を。」
『海も。船も。夕焼けも。』
円は少し考えた。
カイギデルは待つ。
車が一台、向こうから来る。
円は少し左へ寄る。
すれ違う。
「見えたから。」
『それだけか。』
「うん。」
円は前を見たまま言う。
「見えたから、言った。」
少しして。
「嫌だった?」
『いや。』
「じゃあいいね。」
会話は終わった。
円は前を見る。
カイギデルは、もう一度だけ海を見る。
海はカーブの向こうへ消えた。
それでも、しばらく青い残像が残っていた。
見えたから。
それだけ。
カイギデルは、その言葉を分けなかった。
車は山へ入る。
円はラジオをつけた。
天気予報が流れる。
明日も晴れ。
降水確率二十パーセント。
「洗濯しよう。」
『鳥の敷紙も替えろ。』
「覚えてたんだ。」
『昨日言っていた。』
「そうだっけ。」
『言った。』
円は笑った。
車は町へ戻っていった。
