8話「デパ地下」

境界の食卓

夕方の百貨店は、冷房が少し強かった。

真壁円は一階の自動ドアをくぐると、肩から提げた布の鞄を持ち直した。

外はまだ暑い。
駅からここまで歩いただけで、首筋へうっすら汗が浮いていた。
館内へ入った途端、それが急に冷やされる。

化粧品売場の甘い香り。
磨かれた床。
規則正しく並んだ照明。

正面では、白い手袋をした案内係が客へ頭を下げている。

円はエスカレーターへ向かった。

今日は資料館の仕事ではない。

ボタンインコたちの粒々ごはんが、もう少しでなくなる。
いつものものは注文してある。
届くのは明後日だった。

二日分なら残っている。
困るほどではない。

それでも、餌の袋の底が見えているのは少し落ち着かなかった。

ついでに夕飯も買って帰るつもりだった。

地下へ降りる。

一階。

地下一階。

エスカレーターの先から、揚げ物の匂いが流れてきた。

夕方のデパ地下は混んでいた。

仕事帰りの人。
買い物袋を下げた老人。
制服姿の学生。
小さな子どもの手を引く母親。

洋菓子売場では、ガラスケースの中に果物の乗ったケーキが整然と並んでいる。

少し離れたところでは、焼き鳥が炭火の上で脂を落としていた。

ぱち、と小さな火が上がる。

円は足を止める。

「鶏もいいな。」

『昨日も食った。』

頭の奥で、カイギデルが言った。

「昨日は鯵。」

『その前だ。』

「三日前。」

『最近だ。』

円は少し考える。

「じゃあ魚にする。」

『魚も昨日だ。』

「何ならいいの。」

返事はなかった。

外出中、カイギデルは円を依代にしている。

鏡の向こうに身体を残したまま、影だけを円へ重ねている、と本人は言う。

円にはよく分からない。

ただ、家の外ではカイギデルの声が近くなる。

耳元でもない。
胸の中でもない。

頭蓋骨の内側から話しかけられているような、不思議な聞こえ方をする。

最初の頃は落ち着かなかった。

今はもう慣れた。

円は鮮魚売場へ向かう。

鯛。
鰹。
いさき。
鮎。

氷の上に魚が並んでいる。

半額になるには、まだ少し早い。

「今日は高いな。」

『鮎にしろ。』

「二尾で九百八十円。」

『高いな。』

「でしょ。」

二人とも黙った。

円は結局、切り身の鱈を籠へ入れた。

そのときだった。

天井から、柔らかな電子音が鳴った。

ぽーん。

館内放送の前に流れる、ごく普通の音だった。

円は何となく顔を上げる。

『――――』

女の声が流れた。

明るく、聞き取りやすい声だった。

百貨店の案内放送らしい、よく通る発声。

けれど、意味が分からない。

『――な、ぁえ、ろ……うぇ、た……』

円は立ち止まった。

日本語に聞こえる。

少なくとも、音の並びは日本語に近い。

なのに、言葉にならない。

『……ま、だ……ぇ……』

店員が氷を足している。

隣では老夫婦が刺身の盛り合わせを選んでいる。

若い会社員が弁当を手に取り、裏側の原材料表示を見ていた。

誰も上を見ない。

放送は続く。

『……あ……た……た……』

円は少し眉を寄せた。

音が悪い。

そう思った。

スピーカーの故障かもしれない。

それにしては、声そのものは妙にはっきりしている。

『あれが聞こえるのか。』

カイギデルが言った。

円は返事をしなかった。

視線だけを天井へ向ける。

埋め込み型の白いスピーカー。

何の変哲もない。

『円。』

「聞こえてる。」

小さく呟いた。

近くを通った女性が、少しだけ円を見る。

円は咳払いをして、鱈のパックへ視線を戻した。

『どこまで。』

「どこまでって。」

『言葉だ。』

円は少し考える。

「言葉にはなってない。」

『そうか。』

カイギデルが黙る。

それが、円には少し珍しかった。

「何なの。」

返事はない。

円は籠を持ち直す。

放送はまだ続いている。

『……ひ、と……』

今度は、少しだけ分かった気がした。

ひと。

人。

それとも、

ひとつ。

円は聞こうとする。

すると、かえって音が崩れた。

『……ぁ、え……う……た……』

遠くでトングが落ちた。

からん、と金属の音がする。

惣菜売場から、

「ただいま揚げたてでーす」

という明るい声が響く。

レジスターが鳴る。

紙袋が擦れる。

包丁がまな板へ当たる。

冷蔵ケースの低い唸り。

客の話し声。

子どもの笑い声。

食べ物を買うための音が、地下いっぱいに重なっている。

その下を縫うように、意味になれない声だけが流れていた。

円は歩き出す。

『気にしないのか。』

「気にはしてる。」

『そうは見えん。』

「晩ご飯も決めないといけないから。」

『……そうか。』

「それに。」

円は焼き物売場の前で足を止める。

「誰も困ってない。」

店員は働いている。

客は買い物をしている。

照明も消えていない。

避難誘導もない。

何かが出てきているわけでもない。

だったら、今すぐ円がすることは特にない。

放送の声だけが変だった。

それだけだった。

円は惣菜売場へ入る。

茄子の揚げ浸し。

南瓜の煮物。

ひじき。

白和え。

一つずつ見ていく。

「茄子。」

『買えばいい。』

「今年一本しか採れてないから、ちょっと悔しい。」

『野菜に意地を張るな。』

「来年は採る。」

『今年の飯を食え。』

円は茄子の揚げ浸しを籠へ入れた。

少し歩いたところで、放送が途切れた。

何の前触れもなかった。

いつもの館内音楽が戻る。

ピアノで演奏された、聞き覚えのある曲。

円は振り返る。

誰も気にしていない。

「終わった。」

『ああ。』

「知ってるの。」

少し間があった。

『似たものは。』

「何だった?」

『飢えだ。』

円は歩みを止めなかった。

「お腹が空いてるの。」

『違う。』

「じゃあ何。」

『空いていた。』

円は少しだけ黙った。

カイギデルは、それ以上説明しなかった。

地下二階へ下りる。

食品売場の端に、小さなペット用品店が入っている。

鳥用の棚は狭い。

犬と猫の餌がほとんどで、その隅へ粟穂やボレー粉、小袋のシードが並んでいる。

円は裏側の表示を確認した。

いつものものとは違う。

けれど、二日分なら問題なさそうだった。

小さな袋を一つ籠へ入れる。

「これでいいかな。」

『俺に訊くな。』

「一緒にいるから。」

『鳥の飯は知らん。』

「コーヒー豆なら知ってるのに。」

『当然だ。』

円は会計を済ませた。

エスカレーターで地下一階へ戻る。

先ほどの放送は、もう聞こえない。

閉店前の値引きが始まっていた。

惣菜売場の店員が、透明な蓋へ黄色いシールを貼っていく。

円は少し待った。

鱈はそのままだった。

茄子の揚げ浸しは二割引きになった。

少し嬉しい。

「得した。」

『待った甲斐があったな。』

「こういうのは分かるんだ。」

『金は大事だ。』

「悪魔なのに。」

『悪魔だからだ。』

意味は分からなかった。

帰ろうとして、円はパン売場の前で足を止める。

閉店まで一時間。

棚の上に、まだ食パンが何斤も残っていた。

惣菜パン。

菓子パン。

サンドイッチ。

クロワッサン。

夕方にはもっとあったのだろう。

それでも、まだ余っている。

円はしばらく棚を見た。

それから、小さな塩パンを一袋取った。

四個入り。

何となくだった。

『食うのか。』

「朝ご飯。」

『四つも。』

「冷凍する。」

『そうか。』

会計を済ませ、紙袋へ入れる。

地上へ出る。

自動ドアが開くと、ぬるい夜気が身体へまとわりついた。

夕方より少しだけ風がある。

百貨店のガラスには、地下とは違う街の明かりが映っている。

円は駅へ向かって歩いた。

しばらくして、尋ねる。

「さっきの。」

『ああ。』

「昔のもの?」

『古い。』

「いつから?」

『知らん。』

「カイギデルでも?」

『何でも知っていると思うな。』

「思ってないよ。」

『そうか。』

少し不満そうだった。

途中、地下道の入口で円は一度だけ振り返った。

百貨店は明るかった。

地下では今も、人が食べ物を選んでいる。

何百種類もの料理。

果物。

肉。

魚。

菓子。

パン。

空腹になれば、金を払って買える。

少なくとも今夜の円は、そうだった。

「飢えって。」

『なんだ。』

円は百貨店の明かりを見る。

「……こんなところにも来るんだね。」

カイギデルは、すぐには答えなかった。

信号が青になる。

人の流れに交じって、円は横断歩道を渡る。

『あるから来る。』

それだけだった。

円は前を向く。

家へ着くころには、空はすっかり暗くなっていた。

玄関の鍵を開ける。

靴を脱ぐ。

二階へ上がる。

放鳥部屋の戸を開けると、赤嘴のボタンインコが真っ先に飛んできた。

肩へ着地する。

青い方も少し遅れて飛んでくる。

「ただいま。」

二羽へ蕎麦の実を一粒ずつ渡す。

赤嘴はすぐに割る。

青い方は指の上で少し転がしてから、嘴へ運んだ。

円は買ってきたシードの袋を開ける。

匂いを確かめる。

いつものものより、少し粟が多い。

「二日だけね。」

小皿へ入れる。

二羽が寄ってくる。

殻を割る乾いた音が、部屋へ小さく響いた。

ベランダにはカラスが待っていた。

「今日は遅くなった。」

煮干しを三本。

カラスは二本を一度に咥えようとして、一本落とした。

円が拾う。

「欲張るから。」

もう一度差し出す。

今度は一本ずつ咥えた。

羽を広げ、夜へ飛んでいく。

夕飯は鱈を焼いた。

茄子の揚げ浸し。

豆腐の味噌汁。

麦ご飯。

神棚へ小さな皿を置く。

読経を終える。

洗面所へ行く。

鏡がゆっくり藍色へ沈んでいった。

向こうの部屋では、カイギデルがベッドへ腰掛けている。

しばらくすると立ち上がり、棚の壺からコーヒー豆を取り出した。

ショリ。

ショリ。

いつもの音だった。

円は台所へ戻り、鱈を皿へ移す。

「ねえ。」

『なんだ。』

「デパ地下の放送。」

豆を挽く音が止まった。

「私に聞こえるの、変なの?」

少し間があった。

『変だ。』

円は味噌汁をよそう。

「そう。」

『普通は聞こえん。』

「カイギデルには聞こえる。」

『俺は普通ではない。』

「私も?」

返事はなかった。

円は食卓へ座る。

箸を取る。

鏡の向こうで、カイギデルはまだミルへ手を置いていた。

いつもなら、とっくに続きを挽いている。

円は鱈の身をほぐす。

やがて。

ショリ。

一度だけ音がした。

そこで、また止まる。

『円。』

「うん。」

『今まで聞こえなかったのか。』

円は箸を止めた。

少し考える。

「今日が初めて。」

『そうか。』

カイギデルはミルへ目を落とした。

しばらく動かなかった。

「何。」

『別に。』

「気になる。」

『飯を食え。』

「カイギデルから言ったんでしょ。」

返事はない。

少しして。

ショリ。

ショリ。

いつもの速さで、豆を挽く音が戻った。

やがて、湯を注ぐ音がする。

深く焙煎したコーヒーの香りが、藍色の鏡を越えて部屋へ流れてきた。

円は茄子を一つ口へ入れる。

出汁がよく染みている。

「これ、おいしい。」

『そうか。』

「来年は自分で作る。」

『まず虫だ。』

「分かってる。」

食後。

円は買ってきた塩パンを一つだけ袋から取り出した。

残りは一つずつ包み、冷凍庫へ入れる。

塩パンを半分に割る。

柔らかな生地が少し潰れた。

円は片方を手にしたまま、しばらく考える。

それから神棚の小皿へ置いた。

「これは虹蛇のじゃないよ。」

誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

床下から返事はない。

鏡の向こうでは、カイギデルがコーヒーを飲んでいる。

円は残った半分を口へ運んだ。

少し塩気がある。

柔らかい。

地下の明るい売場を思い出す。

山のように積まれていたパン。

魚。

肉。

果物。

菓子。

惣菜。

あれだけの食べ物の上から流れていた、意味になれない声。

円は二口目を食べる。

今夜、腹は空いていない。

冷蔵庫には明日の分もある。

鳥の餌もある。

梅干しの瓶もある。

神棚には、半分のパンがある。

それでも。

遠いところで一度だけ、

『……まだ……』

と聞こえた気がした。

円は振り返る。

鏡は藍色のままだった。

カイギデルはコーヒーカップを持ったまま、何も言わない。

外では、商店街の店が一軒ずつ明かりを落としている。

円は残ったパンを食べた。

皿の上には、細かなパン屑が少しだけ残った。

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