真壁円が、その女を初めて見たのは、玄関だった。
午後三時を少し過ぎていた。
インターホンが鳴ったので出ると、若い女が立っていた。
白いシャツ。
黒いパンツ。
肩に小さな鞄。
テレビで見たことがある。
歌手だった。
「真壁さん?」
「はい」
「井森君に、ここへ行けって言われました」
「井森さんに?」
「はい」
女は少し考えた。
「たぶん、嫌がらせです」
円はもっともだと思った。
「どうぞ」
「いいんですか」
「井森さんの嫌がらせなら、入れた方が早いので」
女は笑った。
「富子です」
「知ってます」
「歌?」
「ラジオで」
「よかった。変な方じゃなくて」
「変な方もあるんですか」
「あります」
富子は靴を脱いだ。
冷たい麦茶を出した。
富子は半分ほど一気に飲んだ。
「おいしい」
「普通の麦茶です」
「普通のがおいしいのよ」
円はスマートフォンを見る。
井森からメッセージが来ていた。
――富子さん行くと思います。
――裏の泉見せてください。
――説明しなくて大丈夫です。
最後の一文が気になった。
「井森さん、何も説明してないんですか」
「何を?」
「泉」
富子が麦茶を置いた。
「泉があるの?」
「あります」
「見たい」
すぐに立った。
裏庭は暑かった。
古い石祠の横を通る。
草の間を抜けた先に、小さな泉がある。
見た目だけなら、大きな水溜まりにも見える。
富子は手前で止まった。
「どうしました?」
返事がない。
水面を見ている。
さっきまで普通に喋っていた顔から、表情が消えていた。
「富子さん?」
「ここ」
「はい」
「昔からある?」
「たぶん」
「どのくらい昔?」
「分かりません」
富子は近づいた。
水面を覗く。
「深い?」
「見た目よりは」
「どのくらい?」
「それ、あまり意味がないらしいです」
富子が振り返った。
「誰が言ったの」
「カイギデル」
富子の目が止まった。
ほんの一瞬だった。
「……誰?」
「カイギデルです」
「だから誰」
「地下に住んでます」
「地下?」
「鏡の向こうです」
富子は少し考えた。
「地下なのに鏡?」
「私もよく分かりません」
「そう」
それ以上は訊かなかった。
そのとき、水面が揺れた。
黒いものが浮かんだ。
長い頭。
濡れた鱗。
黒い鱗の上を、午後の光が当たる。
赤。
青。
緑。
紫。
色が流れていく。
虹蛇だった。
今日は少し大きい。
「こんにちは」
円が言った。
虹蛇は答えない。
いつものことだった。
円を見る。
それから、
富子を見る。
動かなくなった。
富子も動かなかった。
長い沈黙だった。
「……何、これ」
「虹蛇です」
「名前?」
「そう呼んでます」
「蛇なの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「本人が言わないので」
富子は虹蛇を見たままだった。
虹蛇も富子を見ている。
「知ってる気がする」
富子が言った。
円は黙った。
「でも」
富子は眉を寄せる。
「知らない」
虹蛇が、ほんの少しだけ頭を傾けた。
富子も同じ方向へ首を傾けた。
二人とも、それに気づかなかった。
富子が手を伸ばした。
虹蛇は逃げない。
指先が黒い額へ近づく。
そのとき、家の方から声がした。
『触るな。』
円が振り返った。
「カイギデル?」
富子も振り返る。
「今の誰?」
「カイギデルです」
「どこにいるの」
「たぶん鏡の向こう」
『今は触るな。』
今度は富子にも聞こえた。
富子の顔が変わった。
声を聞いたからではない。
その声を、知っていたからだった。
「……あなた」
返事はない。
「どこにいるの」
『中だ。』
「中ってどこよ」
『家だ。』
富子は円を見る。
「会わせて」
居間の鏡は普通だった。
円が前に立つ。
「カイギデル」
銀色の面が沈んだ。
藍色になる。
向こうに部屋が現れる。
長い黒髪の男がいた。
椅子に座って本を読んでいる。
富子が止まった。
カイギデルも顔を上げた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
富子が先に言った。
「知ってる」
『そうだろうな。』
「でも、その顔じゃない」
『そうだろうな。』
「その声は知ってる」
『ああ。』
富子が眉を寄せる。
「昔、翼があった?」
少し間があった。
『ある。』
「あった、じゃなくて?」
『ある。』
円が振り返る。
「翼あるんですか」
『ある。』
「見たことない」
『出していない。』
「しまってるんですか」
『そういうことではない。』
円には分からなかった。
富子は少し笑った。
「そういうところは変わらないのね」
カイギデルが鏡を越えてきた。
黒い服。
長い髪。
翼はない。
富子は彼を見上げた。
「イザナギ」
カイギデルは否定しなかった。
円が二人を見る。
「伊邪那岐?」
『そう呼ばれた。』
「カイギデルなのに?」
『それも俺だ。』
富子が言った。
「面倒な答え方」
『お前は変わった。』
富子の笑みが少し消えた。
「そう?」
『ああ。』
「そりゃ変わるわよ」
それだけ言った。
三人で泉へ戻った。
虹蛇はまだいた。
富子を見る。
カイギデルを見る。
カイギデルも虹蛇を見る。
その目だけが、円の知っているものと少し違った。
円は、二人はずいぶん昔から知っているのだと思った。
どのくらい昔なのかは分からない。
たぶん聞いても、よく分からない答えが返ってくる。
だから聞かなかった。
富子が水際へしゃがんだ。
「これ」
虹蛇を見る。
「私?」
『違う。』
カイギデルはすぐ答えた。
富子が振り返る。
「じゃあ何」
『虹蛇だ。』
「それは名前でしょう」
『今は、それでいい。』
「よくない」
富子は立ち上がった。
「私、伊邪那美だったのよ」
『ああ。』
「だったら、これと何の関係があるの」
カイギデルはしばらく黙った。
そして、『昔は、お前だった。』と言った。
富子が動かなくなった。
風が吹いた。
泉の上を葉が一枚流れた。
「昔って」
『人間がいなかったころだ。』
「もっとちゃんと説明して」
『今の海もなかった。』
「もっと」
カイギデルは虹蛇を見る。
『世界が一度、なくなった。』
富子の目が細くなる。
『俺たちは、別々に逃げた。』
「どこへ」
『俺は上へ。』
その言葉を聞いた瞬間、
富子の中に何かが浮かんだ。
空。
三つの影。
白い構造物。
黒い羽根。
知らない海。
富子が額を押さえる。
カイギデルは虹蛇を見る。
『こいつは下へ。』
「地下?」
『深いところへ。』
虹蛇の鱗を光が流れる。
『その身体になって。』
富子は虹蛇を見た。
「蛇になったの?」
『生きるためにな。』
「私が?」
『そのころは。』
「そのころは?」
カイギデルは少し黙った。
『長く生きた。』
「誰が」
『こいつが。』
虹蛇を見る。
『最初は覚えていた。俺を。あの場所を。自分が何だったかも。』
「それで?」
『時間が長すぎた。』
地下の水。
岩。
熱。
冷たさ。
暗闇。
富子には、その時間は見えなかった。
『そのうち、虹蛇になった。』
「忘れたから?」
『それだけではない。』
「じゃあ何」
カイギデルは答えた。
『生き残った。』
富子は黙った。
『長く生きた。』
富子は虹蛇を見る。
その言葉なら、少し分かった。
忘れたから別人になるのではない。
生きたから変わる。
「じゃあ私は?」
『お前も生きた。』
「人間として?」
『ああ。』
「何度も」
『ああ。』
富子には、
覚えている人生がある。
覚えていない人生もある。
女だった。
男だった。
母だった。
父だった。
子だった。
妻だった。
夫だった。
誰かを愛した。
嫌った。
看取った。
看取られた。
都が焼けた。
国が変わった。
言葉が変わった。
日野富子になった。
そして今は、
二十三歳だった。
歌を書いている。
ライブをする。
取材を受ける。
夜更かしする。
朝は弱い。
『お前も、長く生きた。』
カイギデルが言った。
『だから富子になった。』
「じゃあ」
富子が言った。
「どっちが伊邪那美なの?」
『どちらでもない。』
「じゃあ、伊邪那美は?」
『もういない。』
静かだった。
泉から水の音がする。
「死んだの?」
『違う。』
「じゃあ何よ」
カイギデルは虹蛇を見る。
それから富子を見る。
『生きすぎた。』
富子は、しばらく何も言わなかった。
それから小さく笑った。
「それ、私らしいわね」
円はまだ少し分からなかった。
「二人に分かれたんですか」
『違う。』
「違うの?」
『二人になった。』
「同じじゃないですか」
『違う。』
円は富子を見る。
「分かります?」
「ちょっと」
富子は虹蛇を見る。
「昔は同じだった」
「はい」
「でも、この子はこの子で、ものすごく長く生きた」
「はい」
「私も私で、ものすごく長く生きた」
「はい」
「だから、今は二人」
円は考えた。
「同級生みたいなものですか」
富子が笑った。
「だいぶ違うけど、今日はそれでいいんじゃない?」
カイギデルは何も言わなかった。
富子はもう一度、
虹蛇へ手を伸ばした。
カイギデルを見る。
今度は止めなかった。
指が、黒い額へ触れる。
一瞬だった。
黒い翼。
白い髪。
床に落ちた水。
「濡れてる」
「拭く」
「あなたが」
「なぜ俺が」
「あなたの翼でしょう」
知らない果物。
大きい方を取る黒い手。
「そっち大きい」
「同じだ」
「大きい」
「そう見えるだけだ」
海。
三つの影。
壊れる空。
つかんだ手が離れる。
響く声。
『残れ。』
富子が手を離した。
虹蛇も動かない。
二人は見つめ合った。
そこまでは、同じだった。
その先には、何もなかった。
富子には、地下の長い時間がない。
虹蛇には、富子が生きた時間がない。
応仁の乱も。
マリーとのお茶も。
ライブハウスも。
ギターも。
二十三歳の身体で朝まで録音した夜も。
同じ記憶は、遥か遠いところで終わっていた。
「こんにちは」
富子が言った。
円が富子を見る。
虹蛇も見る。
「たぶん」
富子は少し笑う。
「初めましてでいいと思う」
虹蛇は長い間、富子を見ていた。
やがて、少しだけ頭を下げた。
富子も頭を下げた。
しばらくして、富子がカイギデルを見た。
「あなたは?」
『何だ。』
「私を神に戻そうとしてたでしょう」
『ああ。』
「ずっと」
『ああ。』
「今も?」
カイギデルは答えなかった。
富子は待った。
少しして、『分からん。』と言った。
富子が笑った。
「成長したわね」
『お前に言われたくない。』
「私は成長したわよ」
『そうだな。』
富子は少し意外そうな顔をした。
「そこは否定しないのね」
『長く生きたんだろう。』
富子は虹蛇を見る。
「そうね」
今度は、その言葉が嫌ではなかった。
夕方になった。
富子は帰ることになった。
泉の前で、もう一度虹蛇を見る。
「また来てもいい?」
虹蛇は答えない。
「嫌なら来ないけど」
虹蛇が水へ沈み始めた。
富子が言う。
「どっち?」
円が答えた。
「たぶん来ていいと思います」
「真壁さんが決めるの?」
「うちなので」
「そうだった」
虹蛇の頭が水面から消える直前、富子が言った。
「今度、何か持ってくる」
虹蛇が止まった。
円が言う。
「梅干し食べます」
「梅干し?」
「好きみたいです」
「私、酸っぱいの好きよ」
富子は少し笑った。
「そこは同じなんだ」
水の中で、虹色が一度だけ揺れた。
玄関まで見送った。
富子は靴を履く。
「今日はありがとう」
「いえ」
「麦茶もおいしかった」
「普通のです」
「だからいいのよ」
扉を開ける。
外はまだ明るかった。
富子が一歩出て、振り返った。
「真壁さん」
「はい」
「あれ見ても、あんまり驚かないのね」
円は考えた。
「虹蛇ですか?」
「それも。私も。カイギデルも」
「怪しいとは思ってます」
富子が笑った。
「そうよね」
「でも、今のところ誰も困ってないので」
「そう」
富子は少し考えた。
「それ、いいわね」
「そうですか?」
「うん」
富子は帰っていった。
翌朝。
円は裏庭へ出た。
泉には虹蛇がいた。
昨日より小さい。
石祠の前にしゃがむ。
「おはよう」
返事はない。
「富子さん、また来るって」
虹蛇は動かない。
「何か持ってくるって言ってました」
水面が静かに揺れる。
円は少し考えた。
「梅干しかな」
虹蛇が顔を上げた。
「好きなんだ」
円は笑った。
泉の向こうで、朝の光が鱗に当たった。
赤。
青。
緑。
紫。
色がゆっくり流れていく。
円はしばらく見ていた。
それから、朝ごはんを食べに家へ戻った。
