4話 「夜更けの茶談義」

茶処 円相

茶処「円相」の夜は、最後の客が帰ってからもしばらく終わらない。

「ごちそうさま。」

山から来た老人が、空になった湯呑みを置いた。

「はい。お気をつけて。」

真壁円が戸口まで見送る。

老人は店の奥へ向かって一礼した。

炉に据えられた古い茶釜が、

……カン。

と蓋を鳴らした。

老人が笑う。

「また来る。」

暖簾の向こうへ姿が消えた。

円は外を見る。

白い湯気の筋が、夜の石畳から少しずつ薄れていく。

「今日はこれで終わりですね。」

……カン。

「では、片づけます。」

円は残った湯呑みを盆へ載せた。

水場へ運ぶ。

茶殻を捨てる。

布巾を洗う。

帳場を確かめる。

明日の釣銭も足りている。

冷蔵庫の温度も問題ない。

「店主さん。」

円は風呂敷を肩へ掛けた。

「明日は朝から来られません。」

茶釜は静かだった。

「午後には寄ります。」

……カン。

「はい。」

裏口を閉める。

足音が遠ざかる。

やがて聞こえなくなった。

店の中には、誰もいなくなった。

しばらくして。

古い柱時計が十二時を打った。

ぼん。

一つ。

ぼん。

二つ。

十二の音がすべて消える。

静寂。

その中で。

──コト。

棚の上から、小さな音がした。

「やれやれ。」

声を上げたのは急須だった。

「今日は百三十七杯。」

その隣で茶杓が身じろぎする。

「数えていたのか。」

「当然です。」

「暇じゃのう。」

「あなたに言われたくありません。」

「わしは忙しい。」

「昼間ずっと寝ていたでしょう。」

「寝とらん。置かれておった。」

「同じです。」

下の棚から、くすくすと笑い声がした。

湯呑みたちだった。

「また始まった。」

「毎晩だねえ。」

「仲がいいんだよ。」

「どこがですか。」

急須と茶杓の声が重なった。

店の奥。

炉の茶釜が、

──カン。

と一度鳴った。

途端に皆が静かになる。

「騒ぐなとは言わん。」

低い声がした。

「じゃが、少し声を落とせ。」

急須が不満そうに答える。

「誰もいませんよ。」

「鼠がおる。」

一同が黙った。

棚の下から、小さな鼠が一匹、顔を出した。

こちらを見ている。

「……聞かれましたかね。」

茶筅が小声で尋ねる。

「聞かれたところで、鼠じゃ。」

鉄瓶が答えた。

「それもそうですね。」

鼠は何事もなかったように床を走り、壁の穴へ消えた。

再び店がざわつき始める。

「それより。」

急須が言った。

「今日の最後のお客さん。」

「ああ、山の。」

「三煎目まで飲みました。」

「珍しいのう。」

「一煎目より三煎目の方が、顔がよかったです。」

湯呑みの一つが口を挟む。

「あの人、最初は手が冷たかったよ。」

「山なのに?」

「山だからでしょう。」

「今日は暑かったぞ。」

「上は違うんじゃない?」

「知らない。」

皆が好き勝手に言う。

鉄瓶だけがしばらく黙っていた。

「上の水は、まだ冷たい。」

「分かるのですか。」

「分かる。」

「どうして。」

「水じゃからな。」

急須が少し呆れた。

「説明になっていません。」

「おぬしも茶葉の香りなら分かるじゃろ。」

「それは分かります。」

「同じじゃ。」

急須は黙った。

納得したらしい。

茶釜は皆の話を聞きながら、静かに湯をたぎらせている。

「今日の茶葉ですが。」

急須が言った。

「少し開きが早かったです。」

「湿気じゃな。」

茶杓が答える。

「明日はもっと来る。」

茶筅が棚の上で細い身体を震わせた。

「では、少し軽く点てた方がよさそうですね。」

「朝はな。」

鉄瓶が言う。

「昼から風が変わる。」

「またですか。」

「東から来る。」

「雨?」

「そこまでは知らん。」

「水なのに。」

「水だから雨まで分かると思うな。」

湯呑みたちが笑った。

一つだけ、小さな湯呑みが黙っていた。

昼間、子どもが使っていたものだった。

茶釜が尋ねる。

「どうした。」

「今日ね。」

小さな湯呑みが言った。

「泣いてた子がいたでしょう。」

「ああ。」

「最初、ずっと両手で僕を握ってた。」

「熱くなかったか。」

「少し冷ましてもらったから。」

「そうか。」

「帰るときは、片手だったよ。」

急須が笑った。

「元気になったのですね。」

「たぶん。」

「なら、よかった。」

茶筅が言う。

「うん。」

小さな湯呑みも嬉しそうだった。

茶杓が話を戻した。

「明日の茶はどうする。」

「朝は今日と同じでよい。」

茶釜が答える。

「昼から少し軽くする。」

「茶葉を減らしますか。」

「ほんの少し。」

「湯は。」

鉄瓶が尋ねる。

「朝のうちに汲んでおけ。」

「承知した。」

「茶筅。」

「はい。」

「午後は柔らかく。」

「分かりました。」

「急須。」

「はい。」

「最初の香りを逃すな。」

急須が胸を張る。

「それはいつもです。」

「そうじゃったな。」

湯呑みたちがまた笑った。

そのとき。

店の外から、かすかな音がした。

から。

ころ。

何かが石畳を転がっている。

道具たちが一斉に黙る。

ころ。

から。

ころ。

音は店の前で止まった。

急須が小声で言う。

「お客さんでしょうか。」

茶釜は答えない。

白い湯気が一本、炉から伸びる。

戸口へ向かう。

格子戸の隙間を抜け、外へ出た。

しばらくして。

ころ。

小さなものが戸の隙間から入ってきた。

丸い石だった。

川原にいくらでもありそうな、灰色の石。

ころころと床を転がり、店の真ん中で止まる。

「石?」

茶筅が言った。

「石じゃな。」

鉄瓶が答える。

「見れば分かります。」

急須が言う。

「でも、どうして石が勝手に。」

石が、

ころ。

と一度だけ動いた。

皆が黙る。

茶釜から湯気が伸びた。

棚から一番小さな湯呑みが、ふわりと持ち上がる。

「え。」

「わ、私ですか?」

湯呑みが慌てる。

そのまま石の前へ置かれた。

続いて急須が持ち上がる。

「ちょ、ちょっと、ご主人さま。」

「頼む。」

「石ですよ。」

「見れば分かる。」

「さっき私が言った台詞です。」

「そうじゃったか。」

急須はぶつぶつ言いながら、湯呑みへ茶を注いだ。

石は動かない。

湯呑みの前にあるだけだった。

一分。

二分。

「飲みませんね。」

「石じゃからな。」

「ではなぜ出したのです。」

「来たからじゃ。」

茶釜はそれだけ言った。

しばらくすると。

石の表面に、小さな水滴が浮かんだ。

一滴。

二滴。

やがて灰色だった石が、雨に濡れたように黒くなっていく。

鉄瓶が低く言った。

「川の匂いがする。」

「川から来たのですか。」

「たぶんな。」

「何者でしょう。」

誰も答えなかった。

石は茶を飲まない。

動きもしない。

ただ、湯呑みの前にいる。

それでも茶釜は何も言わなかった。

追い返しもしなかった。

やがて東の空が、ほんの少し白み始めた。

ころ。

石が動いた。

来たときと同じように、ゆっくり床を転がる。

戸口へ向かう。

格子戸の隙間を抜ける。

最後に一度だけ止まった。

ころ。

まるで頭を下げたようだった。

そして夜明け前の通りへ消えていった。

急須が呟く。

「結局、何だったのでしょう。」

茶杓が言う。

「川のものだろう。」

鉄瓶が言う。

「石じゃ。」

茶筅が言う。

「それは見れば分かります。」

湯呑みが言う。

「でも、来たんだよね。」

皆が黙った。

茶釜が静かに答えた。

「そうじゃな。」

それ以上、誰も尋ねなかった。

東の空が明るくなる。

道具たちは一つずつ元の場所へ戻っていった。

急須は棚へ。

茶杓は筒へ。

茶筅はいつもの場所へ。

湯呑みたちは重ねられ。

鉄瓶も口を閉ざした。

最後に茶釜が蓋を閉じる。

──コト。

しばらくして、裏口が開いた。

「おはよう。」

婆さんの声がする。

「今日は暑いかねえ。」

もう一人が入ってくる。

「昨日もそれ言っとったよ。」

「今日の話だよ。」

「毎日暑いんだから一緒だろ。」

朝から賑やかだった。

一人が棚の急須を取る。

「ん?」

首をかしげる。

「どうしたの。」

「なんでもない。」

急須を鼻へ近づける。

「昨日より、なんかいい匂いするねえ。」

棚の上で、急須は何も答えない。

婆さんは次に、小さな湯呑みを手に取った。

底に一滴だけ、水が残っている。

「洗い残しかね。」

指で拭う。

匂いを嗅ぐ。

「川の匂いがする。」

「朝から何言っとるの。」

「そうかねえ。」

婆さんは笑って湯呑みを洗った。

店の奥では、古い茶釜がいつものように湯を沸かしている。

昨夜、誰が何を話していたのか。

何が店を訪れたのか。

人間は誰も知らない。

それで困ることはなかった。

暖簾が出る。

最初の客がやってくる。

「いらっしゃい。」

婆さんの声が響く。

奥で。

……カン。

今日もまた、道具たちは何食わぬ顔で、それぞれの仕事を始めた。

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