5話 「席を外れる者」

茶処 円相

その男が初めて茶処「円相」へ来たのは、よく晴れた午後だった。

三十代半ば。

薄い色のジャケット。

革靴。

肩には大きな鞄。

店へ入るなり、壁や梁を見上げた。

「いいですねえ。」

婆さんが茶を出す。

「何が?」

「この雰囲気ですよ。」

「古いだけだよ。」

「そこがいいんです。」

男はスマートフォンを取り出した。

格子戸。

古い柱。

茶缶の並んだ棚。

店の奥の炉。

一枚ずつ写真を撮る。

「店の写真、撮っていいの?」

婆さんが尋ねた。

「あ、すみません。」

男は慌てて頭を下げた。

「仕事柄、つい。」

「何の仕事?」

「企画です。」

「何を企画するの。」

「いろいろです。」

「便利な仕事だねえ。」

「そうですね。」

何が便利なのか分からないまま、婆さんは納得した。

男は出された茶を一口飲んだ。

「美味しい。」

「そりゃよかった。」

「このお店、ネットはあまりやってないですよね。」

「ねっと?」

「宣伝。」

「ああ。」

「してないねえ。」

「もったいないですよ。」

「そう?」

「絶対に受けます。」

男は店内を見回した。

「古民家。昔ながらのお茶。地元のお婆ちゃん。それに……。」

視線が店の奥で止まる。

古い茶釜が湯を沸かしている。

「この釜。」

「店主さん。」

婆さんが言った。

「え?」

「店主さんだよ。」

男は一瞬黙った。

それから笑った。

「そういう設定なんですね。」

婆さんは首をかしげた。

「設定?」

「いえ、いいです。すごくいい。」

男は茶釜へスマートフォンを向けた。

その瞬間。

……カン。

蓋が鳴った。

男が画面を見る。

「お。」

もう一枚。

……カン。

「動いた。」

さらに近づこうとする。

婆さんが言った。

「あんまり近づくと熱いよ。」

「大丈夫です。」

男はしゃがみ込んだ。

煤けた鉄肌。

古びた蓋。

炉の火。

湯気。

何枚も撮る。

「これ、かなり古いですよね。」

「古いねえ。」

「年代、分かります?」

「知らない。」

「由来とか。」

「知らない。」

「誰が作ったとか。」

「知らない。」

「名前は?」

「店主さん。」

「いや、そうじゃなくて。」

婆さんは考えた。

「じゃあ知らない。」

男は笑った。

「徹底してますね。」

「何が?」

「いやいや。」

その日、男は名刺を一枚置いて帰った。

二度目に来たのは、一週間ほど後だった。

今度は一人ではなかった。

若い女を連れていた。

女は店へ入ると、辺りを見回した。

「ここ?」

「そう。」

男が小声で答える。

「夕方から面白いんだよ。」

婆さんが茶を持ってくる。

「今日は二人?」

「はい。」

男は愛想よく笑った。

「ちょっと見学を。」

「何を?」

「お店を。」

「店なら見えてるよ。」

「ですよね。」

また笑う。

日が傾く。

昼間の客が少しずつ帰っていく。

入れ替わるように、別の客が現れ始めた。

山の匂いをまとった老人。

髪の間から小さな角を出した若者。

袖から細い蔓を覗かせた女。

人の姿を借りた狸。

男の隣で、若い女が息を呑んだ。

「本当にいる。」

男が得意そうに頷いた。

「言っただろ。」

「撮っていいの?」

「まだ。」

「まだ?」

「もう少し待つ。」

男は声を潜めた。

「もっと分かりやすいのが来るから。」

店の奥で。

……カン。

茶釜の蓋が鳴った。

男は気づかなかった。

やがて川の女が入ってきた。

長い髪が濡れている。

歩いた床に、薄い水の跡が残る。

若い女が男の袖を引いた。

「すごい。」

男の目が輝いた。

「これだ。」

スマートフォンを持ち上げる。

円相の婆さんが、その手を押さえた。

「何するの。」

「写真です。」

「聞いた?」

「え?」

「あの人に。」

男が川の女を見る。

川の女もこちらを見ている。

「でも、人じゃないですよね。」

店の中が静かになった。

婆さんの手が止まる。

角の若者が顔を上げる。

狸が湯呑みを置く。

男だけが気づかない。

「いや、もちろん失礼な意味じゃなくて。」

男は笑った。

「むしろ逆です。こういうの、ちゃんと世の中に紹介した方がいいと思うんですよ。」

川の女は何も言わない。

「知られてないじゃないですか。」

男は続ける。

「もったいないですよ。」

婆さんが眉を寄せた。

「さっきから、もったいないもったいないって。」

「価値があるって意味です。」

「この人に?」

「はい。」

「値段が?」

「そうじゃなくて。」

男は少し困った顔をした。

「コンテンツとして。」

「こんてんつ。」

婆さんには分からなかった。

だが、その言葉が川の女を指していることだけは分かった。

店の奥で。

湯が鳴った。

しゅう。

それまで柔らかく店内を巡っていた白い湯気が、すっと引いた。

誰も触れていないのに、男の前の茶が冷め始めた。

男が湯呑みを持つ。

「ん?」

一口。

顔をしかめる。

「冷たい。」

婆さんが触る。

「ほんとだねえ。」

隣の若い女の茶は温かい。

川の女の茶も。

狸の茶も。

男の茶だけが冷えていた。

「淹れ直すよ。」

婆さんが急須を取る。

湯を注ぐ。

新しい茶を男の前へ置く。

しばらくして。

また冷えた。

「何これ。」

男が笑う。

「演出?」

婆さんは笑わなかった。

三度目の茶を淹れようとしたとき。

茶釜の蓋が動かなかった。

婆さんが柄杓を持つ。

湯は確かに沸いている。

なのに、男の湯呑みへ注ごうとすると、湯気が細く逃げていく。

「店主さん。」

婆さんが困った声を出した。

返事はない。

川の女が立ち上がった。

「帰ります。」

「まだ飲んでないだろ。」

狸が言う。

「今日は、もう。」

川の女は男を見なかった。

暖簾へ向かう。

角の若者も立った。

山の老人も。

一人。

また一人。

怪異たちが席を離れていく。

男が慌てた。

「ちょっと待ってください。」

誰も止まらない。

「撮らないから。」

川の女の足が止まる。

「本当に。」

男はスマートフォンを下げた。

「見るだけです。」

川の女は振り返らなかった。

そのまま外へ消えた。

その日の円相は、いつもより早く静かになった。

夜。

真壁円がやってきた。

「こんばんは。」

婆さんが待っていた。

「ああ、円ちゃん。」

「どうしました?」

「店主さんが怒っとる。」

円は店の奥を見る。

古い茶釜が、いつもと同じように炉に据えられている。

「何があったんです?」

婆さんが昼間の出来事を話した。

円は男の名刺を見た。

それから茶釜の前へ行く。

「店主さん。」

返事はない。

「怒ってます?」

沈黙。

「怒ってますね。」

……カン。

いつもより低い音だった。

円は茶釜の前へ座った。

「川の方に失礼なことをしたからですか。」

……カン。

「写真を撮ろうとしたから。」

……カン。

「見世物みたいに扱ったから。」

少し間があって。

……カン。

円は頷いた。

「そうですか。」

それからしばらく黙った。

「でも。」

茶釜の湯が鳴る。

「店主さんも、あの人を客から外しましたよね。」

湯の音が止まったように思えた。

「来た人に茶を出さなかった。」

返事はない。

「怒るのは分かります。」

円は静かに言う。

「わたしも、あれは嫌です。」

炉の火が揺れる。

「でも。」

円は名刺を畳の上へ置いた。

「戻しませんか。」

……カン。

鋭い音だった。

円は少し驚いた。

「嫌ですか。」

……カン。

「そうですか。」

円は笑わなかった。

しばらく、二人とも何も言わなかった。

「じゃあ。」

円が言った。

「僕からお願いしておきます。」

茶釜は答えない。

「あの人がもう一回来たら。」

円は茶釜を見る。

「一杯だけ。」

沈黙。

「その一杯をどうするかは、飲んでから考えませんか。」

長い間。

炉の中で炭が崩れた。

ぱち。

やがて。

……カン。

今度は小さな音だった。

「ありがとうございます。」

円は頭を下げた。

男が三度目に円相へ来たのは、それから十日ほど後だった。

一人だった。

肩に大きな鞄はない。

スマートフォンも手に持っていない。

暖簾の前で立ち止まる。

婆さんが気づく。

「あ。」

男は頭を下げた。

「この前は、すみませんでした。」

婆さんは何も言わない。

「入ってもいいですか。」

「店だからね。」

それだけ答えた。

男は前と同じ席へ座った。

しばらくして。

婆さんが茶を持ってくる。

男が湯呑みに触れる。

温かい。

少し驚いた顔をする。

一口飲む。

「……美味しい。」

店の奥で。

……カン。

男が顔を上げる。

茶釜を見る。

「前は、すみませんでした。」

茶釜は答えない。

男はしばらく茶を飲んでいた。

夕暮れが近づく。

いつものように、昼の客が帰り始める。

代わりに、別の客がやってくる。

山の老人。

角のある若者。

人の姿をした狸。

そして。

川の女が暖簾の前に現れた。

男の手が止まる。

川の女も男を見る。

店の中が少しだけ静かになる。

男は立ち上がった。

川の女が身構える。

男は頭を下げた。

「この前は、すみませんでした。」

川の女は何も言わない。

男も、それ以上言わない。

しばらくして。

「そこ。」

川の女が言った。

男が顔を上げる。

「座ってください。」

男は自分の席を見る。

「あ、はい。」

座る。

川の女は少し離れた席へ腰を下ろした。

婆さんが茶を持ってくる。

「今日は冷たいの?」

「温かいのを。」

「はいよ。」

茶が置かれる。

男はスマートフォンを出さない。

川の女も男を見ない。

それぞれが、それぞれの茶を飲む。

それだけだった。

店の奥で、古い茶釜が静かに湯を沸かしている。

夜になって。

男は会計を済ませた。

「ごちそうさまでした。」

婆さんが答える。

「はいよ。」

男は戸口まで行く。

そこで一度、店の奥を振り返った。

「また来てもいいですか。」

婆さんが笑う。

「店なんだから、来ればいいよ。」

男も少し笑った。

「そうですね。」

暖簾をくぐる。

姿が見えなくなる。

円は店の隅からその様子を見ていた。

「店主さん。」

……カン。

「よかったですね。」

返事はない。

円は少し考える。

「まだ怒ってます?」

沈黙。

……カン。

円が笑った。

「少しだけですか。」

茶釜はそれ以上答えなかった。

円は空いた湯呑みを下げる。

男が使っていたもの。

川の女が使っていたもの。

二つを同じ盆へ載せる。

「洗ってきます。」

……カン。

水場から器を洗う音が聞こえる。

怪異たちは静かに茶を飲んでいる。

誰も男を許したとは言わなかった。

誰も、もう問題はないとも言わなかった。

ただ。

一度外れた席に、もう一度座る場所があった。

それだけだった。

店の奥で。

古い茶釜が湯を沸かしていた。

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