その男が初めて茶処「円相」へ来たのは、よく晴れた午後だった。
三十代半ば。
薄い色のジャケット。
革靴。
肩には大きな鞄。
店へ入るなり、壁や梁を見上げた。
「いいですねえ。」
婆さんが茶を出す。
「何が?」
「この雰囲気ですよ。」
「古いだけだよ。」
「そこがいいんです。」
男はスマートフォンを取り出した。
格子戸。
古い柱。
茶缶の並んだ棚。
店の奥の炉。
一枚ずつ写真を撮る。
「店の写真、撮っていいの?」
婆さんが尋ねた。
「あ、すみません。」
男は慌てて頭を下げた。
「仕事柄、つい。」
「何の仕事?」
「企画です。」
「何を企画するの。」
「いろいろです。」
「便利な仕事だねえ。」
「そうですね。」
何が便利なのか分からないまま、婆さんは納得した。
男は出された茶を一口飲んだ。
「美味しい。」
「そりゃよかった。」
「このお店、ネットはあまりやってないですよね。」
「ねっと?」
「宣伝。」
「ああ。」
「してないねえ。」
「もったいないですよ。」
「そう?」
「絶対に受けます。」
男は店内を見回した。
「古民家。昔ながらのお茶。地元のお婆ちゃん。それに……。」
視線が店の奥で止まる。
古い茶釜が湯を沸かしている。
「この釜。」
「店主さん。」
婆さんが言った。
「え?」
「店主さんだよ。」
男は一瞬黙った。
それから笑った。
「そういう設定なんですね。」
婆さんは首をかしげた。
「設定?」
「いえ、いいです。すごくいい。」
男は茶釜へスマートフォンを向けた。
その瞬間。
……カン。
蓋が鳴った。
男が画面を見る。
「お。」
もう一枚。
……カン。
「動いた。」
さらに近づこうとする。
婆さんが言った。
「あんまり近づくと熱いよ。」
「大丈夫です。」
男はしゃがみ込んだ。
煤けた鉄肌。
古びた蓋。
炉の火。
湯気。
何枚も撮る。
「これ、かなり古いですよね。」
「古いねえ。」
「年代、分かります?」
「知らない。」
「由来とか。」
「知らない。」
「誰が作ったとか。」
「知らない。」
「名前は?」
「店主さん。」
「いや、そうじゃなくて。」
婆さんは考えた。
「じゃあ知らない。」
男は笑った。
「徹底してますね。」
「何が?」
「いやいや。」
その日、男は名刺を一枚置いて帰った。
二度目に来たのは、一週間ほど後だった。
今度は一人ではなかった。
若い女を連れていた。
女は店へ入ると、辺りを見回した。
「ここ?」
「そう。」
男が小声で答える。
「夕方から面白いんだよ。」
婆さんが茶を持ってくる。
「今日は二人?」
「はい。」
男は愛想よく笑った。
「ちょっと見学を。」
「何を?」
「お店を。」
「店なら見えてるよ。」
「ですよね。」
また笑う。
日が傾く。
昼間の客が少しずつ帰っていく。
入れ替わるように、別の客が現れ始めた。
山の匂いをまとった老人。
髪の間から小さな角を出した若者。
袖から細い蔓を覗かせた女。
人の姿を借りた狸。
男の隣で、若い女が息を呑んだ。
「本当にいる。」
男が得意そうに頷いた。
「言っただろ。」
「撮っていいの?」
「まだ。」
「まだ?」
「もう少し待つ。」
男は声を潜めた。
「もっと分かりやすいのが来るから。」
店の奥で。
……カン。
茶釜の蓋が鳴った。
男は気づかなかった。
やがて川の女が入ってきた。
長い髪が濡れている。
歩いた床に、薄い水の跡が残る。
若い女が男の袖を引いた。
「すごい。」
男の目が輝いた。
「これだ。」
スマートフォンを持ち上げる。
円相の婆さんが、その手を押さえた。
「何するの。」
「写真です。」
「聞いた?」
「え?」
「あの人に。」
男が川の女を見る。
川の女もこちらを見ている。
「でも、人じゃないですよね。」
店の中が静かになった。
婆さんの手が止まる。
角の若者が顔を上げる。
狸が湯呑みを置く。
男だけが気づかない。
「いや、もちろん失礼な意味じゃなくて。」
男は笑った。
「むしろ逆です。こういうの、ちゃんと世の中に紹介した方がいいと思うんですよ。」
川の女は何も言わない。
「知られてないじゃないですか。」
男は続ける。
「もったいないですよ。」
婆さんが眉を寄せた。
「さっきから、もったいないもったいないって。」
「価値があるって意味です。」
「この人に?」
「はい。」
「値段が?」
「そうじゃなくて。」
男は少し困った顔をした。
「コンテンツとして。」
「こんてんつ。」
婆さんには分からなかった。
だが、その言葉が川の女を指していることだけは分かった。
店の奥で。
湯が鳴った。
しゅう。
それまで柔らかく店内を巡っていた白い湯気が、すっと引いた。
誰も触れていないのに、男の前の茶が冷め始めた。
男が湯呑みを持つ。
「ん?」
一口。
顔をしかめる。
「冷たい。」
婆さんが触る。
「ほんとだねえ。」
隣の若い女の茶は温かい。
川の女の茶も。
狸の茶も。
男の茶だけが冷えていた。
「淹れ直すよ。」
婆さんが急須を取る。
湯を注ぐ。
新しい茶を男の前へ置く。
しばらくして。
また冷えた。
「何これ。」
男が笑う。
「演出?」
婆さんは笑わなかった。
三度目の茶を淹れようとしたとき。
茶釜の蓋が動かなかった。
婆さんが柄杓を持つ。
湯は確かに沸いている。
なのに、男の湯呑みへ注ごうとすると、湯気が細く逃げていく。
「店主さん。」
婆さんが困った声を出した。
返事はない。
川の女が立ち上がった。
「帰ります。」
「まだ飲んでないだろ。」
狸が言う。
「今日は、もう。」
川の女は男を見なかった。
暖簾へ向かう。
角の若者も立った。
山の老人も。
一人。
また一人。
怪異たちが席を離れていく。
男が慌てた。
「ちょっと待ってください。」
誰も止まらない。
「撮らないから。」
川の女の足が止まる。
「本当に。」
男はスマートフォンを下げた。
「見るだけです。」
川の女は振り返らなかった。
そのまま外へ消えた。
その日の円相は、いつもより早く静かになった。
夜。
真壁円がやってきた。
「こんばんは。」
婆さんが待っていた。
「ああ、円ちゃん。」
「どうしました?」
「店主さんが怒っとる。」
円は店の奥を見る。
古い茶釜が、いつもと同じように炉に据えられている。
「何があったんです?」
婆さんが昼間の出来事を話した。
円は男の名刺を見た。
それから茶釜の前へ行く。
「店主さん。」
返事はない。
「怒ってます?」
沈黙。
「怒ってますね。」
……カン。
いつもより低い音だった。
円は茶釜の前へ座った。
「川の方に失礼なことをしたからですか。」
……カン。
「写真を撮ろうとしたから。」
……カン。
「見世物みたいに扱ったから。」
少し間があって。
……カン。
円は頷いた。
「そうですか。」
それからしばらく黙った。
「でも。」
茶釜の湯が鳴る。
「店主さんも、あの人を客から外しましたよね。」
湯の音が止まったように思えた。
「来た人に茶を出さなかった。」
返事はない。
「怒るのは分かります。」
円は静かに言う。
「わたしも、あれは嫌です。」
炉の火が揺れる。
「でも。」
円は名刺を畳の上へ置いた。
「戻しませんか。」
……カン。
鋭い音だった。
円は少し驚いた。
「嫌ですか。」
……カン。
「そうですか。」
円は笑わなかった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「じゃあ。」
円が言った。
「僕からお願いしておきます。」
茶釜は答えない。
「あの人がもう一回来たら。」
円は茶釜を見る。
「一杯だけ。」
沈黙。
「その一杯をどうするかは、飲んでから考えませんか。」
長い間。
炉の中で炭が崩れた。
ぱち。
やがて。
……カン。
今度は小さな音だった。
「ありがとうございます。」
円は頭を下げた。
男が三度目に円相へ来たのは、それから十日ほど後だった。
一人だった。
肩に大きな鞄はない。
スマートフォンも手に持っていない。
暖簾の前で立ち止まる。
婆さんが気づく。
「あ。」
男は頭を下げた。
「この前は、すみませんでした。」
婆さんは何も言わない。
「入ってもいいですか。」
「店だからね。」
それだけ答えた。
男は前と同じ席へ座った。
しばらくして。
婆さんが茶を持ってくる。
男が湯呑みに触れる。
温かい。
少し驚いた顔をする。
一口飲む。
「……美味しい。」
店の奥で。
……カン。
男が顔を上げる。
茶釜を見る。
「前は、すみませんでした。」
茶釜は答えない。
男はしばらく茶を飲んでいた。
夕暮れが近づく。
いつものように、昼の客が帰り始める。
代わりに、別の客がやってくる。
山の老人。
角のある若者。
人の姿をした狸。
そして。
川の女が暖簾の前に現れた。
男の手が止まる。
川の女も男を見る。
店の中が少しだけ静かになる。
男は立ち上がった。
川の女が身構える。
男は頭を下げた。
「この前は、すみませんでした。」
川の女は何も言わない。
男も、それ以上言わない。
しばらくして。
「そこ。」
川の女が言った。
男が顔を上げる。
「座ってください。」
男は自分の席を見る。
「あ、はい。」
座る。
川の女は少し離れた席へ腰を下ろした。
婆さんが茶を持ってくる。
「今日は冷たいの?」
「温かいのを。」
「はいよ。」
茶が置かれる。
男はスマートフォンを出さない。
川の女も男を見ない。
それぞれが、それぞれの茶を飲む。
それだけだった。
店の奥で、古い茶釜が静かに湯を沸かしている。
夜になって。
男は会計を済ませた。
「ごちそうさまでした。」
婆さんが答える。
「はいよ。」
男は戸口まで行く。
そこで一度、店の奥を振り返った。
「また来てもいいですか。」
婆さんが笑う。
「店なんだから、来ればいいよ。」
男も少し笑った。
「そうですね。」
暖簾をくぐる。
姿が見えなくなる。
円は店の隅からその様子を見ていた。
「店主さん。」
……カン。
「よかったですね。」
返事はない。
円は少し考える。
「まだ怒ってます?」
沈黙。
……カン。
円が笑った。
「少しだけですか。」
茶釜はそれ以上答えなかった。
円は空いた湯呑みを下げる。
男が使っていたもの。
川の女が使っていたもの。
二つを同じ盆へ載せる。
「洗ってきます。」
……カン。
水場から器を洗う音が聞こえる。
怪異たちは静かに茶を飲んでいる。
誰も男を許したとは言わなかった。
誰も、もう問題はないとも言わなかった。
ただ。
一度外れた席に、もう一度座る場所があった。
それだけだった。
店の奥で。
古い茶釜が湯を沸かしていた。