6話 「もてなしの形」

茶処 円相

その夜、茶処「円相」には客が来なかった。

珍しいことだった。

人の客が帰り。

山から来るものもなく。

川から来るものもなく。

夜道を歩く影さえ、暖簾の前を通らない。

雨だけが降っていた。

細い雨だった。

格子戸の向こうで、石畳が黒く濡れている。

真壁円は最後の湯呑みを片づけると、店の奥を見た。

古い茶釜が、いつものように湯を沸かしている。

「今日は静かですね。」

……カン。

「こういう日もありますか。」

少し間があって。

……カン。

円は笑った。

「ありますよね。」

帳場を確認する。

戸締まり。

冷蔵庫。

火の具合。

一通り見てから、風呂敷を肩へ掛けた。

「それでは、店主さん。」

茶釜を見る。

「おやすみなさい。」

……カン。

裏口が閉まる。

円の足音が遠ざかっていく。

雨の音だけが残った。

やがて。

古い柱時計が十二時を打つ。

ぼん。

ぼん。

最後の音が消える。

棚の上で、急須が小さく身じろぎした。

「今日は暇でしたね。」

茶杓が答える。

「そういう日もある。」

「一杯も出ませんでした。」

「昼は出たじゃろ。」

「夜の話です。」

「なら、そう言え。」

「分かるでしょう。」

「分からん。」

「あなたはいつもそうですね。」

茶筅が笑う。

湯呑みたちも、棚の中でくすくす笑った。

鉄瓶だけは雨の音を聞いていた。

「いい雨じゃ。」

「分かるのですか。」

急須が尋ねる。

「分かる。」

「どうして。」

「水じゃからな。」

「またそれですか。」

「ほかに何と答えろというのじゃ。」

「もう少し説明を。」

「雨は雨じゃ。」

「話になりません。」

皆が笑った。

店の奥で。

茶釜が、

──カン。

と鳴った。

「静かな夜くらい、静かにせんか。」

「ご主人さまが一番うるさいですよ。」

急須が言った。

皆が黙る。

一瞬の静寂。

それから湯呑みの一つが吹き出した。

茶筅も笑う。

茶杓まで笑った。

鉄瓶が低く、

「言うたな。」

と呟いた。

茶釜はしばらく黙っていた。

やがて。

「……まあ、よい。」

と言った。

また笑い声が上がった。

雨は降り続いている。

客の来ない夜。

道具たちは、取り留めのない話をした。

今日の茶葉。

婆さんが持ってきた饅頭。

円が買い替えた水出しの容器。

昼間の子どもが一つだけ残した金平糖。

明日の天気。

どうでもいい話ばかりだった。

やがて話が途切れる。

雨音。

しゅう。

茶釜の湯気。

そのとき、急須が言った。

「ご主人さま。」

「なんじゃ。」

「一つ、聞いてもよろしいですか。」

「内容による。」

「では、聞いてから決めてください。」

「勝手なことを言う。」

急須は少し間を置いた。

「ご主人さまは、昔から今のお姿だったのですか。」

店の中が静かになった。

茶杓も。

茶筅も。

湯呑みたちも。

鉄瓶も。

誰も口を挟まない。

炉の中で、炭が一つ崩れた。

ぱち。

茶釜は答えなかった。

急須が慌てる。

「いえ、答えたくなければ。」

「……いや。」

低い声がした。

「そうではない。」

雨の音が少し強くなる。

茶釜はゆっくりと言った。

「わしは、ただの釜じゃった。」

誰も動かなかった。

「ただの?」

急須が尋ねる。

「そうじゃ。」

茶釜の鉄肌を、炉の火が赤く照らしている。

「土から掘られたものがあり。」

「鉄になり。」

「火に入れられ。」

「打たれ。」

「形を与えられた。」

茶釜は少し黙った。

「それだけの釜じゃ。」

急須が尋ねる。

「声は?」

「ない。」

「お心は?」

「ない。」

「では、お名前は。」

「ない。」

「何も?」

「何も。」

茶釜は静かに湯を沸かしている。

「湯を沸かすだけの釜じゃった。」

ずっと昔。

まだ円相という名もなかった頃。

そこには、小さな茶屋があった。

今より道は細かった。

舗装などされていない。

雨が降れば泥になり。

晴れれば土埃が舞った。

朝。

男が火を起こす。

釜へ水を入れる。

火に掛ける。

湯が沸く。

それだけだった。

最初の客は、旅人だった。

草鞋を泥で汚し。

大きな荷を背負い。

疲れ切った顔で腰を下ろした。

「一杯、もらえるか。」

茶屋の男が茶を淹れた。

旅人は両手で茶碗を持つ。

一口。

「生き返るなあ。」

そう言って笑った。

釜には分からなかった。

生き返るとは何か。

笑うとは何か。

ただ、湯が減った。

男が水を足した。

また沸かした。

次に来たのは農夫だった。

その次は木こり。

荷を運ぶ男。

子どもを背負った女。

雨宿りの老人。

腹を空かせた若者。

皆、茶を飲んだ。

暑い日は、少し冷ました茶。

寒い日は、熱い茶。

疲れている者には濃い茶。

喉が渇いている者には軽い茶。

釜が決めたわけではない。

茶屋の人間が客を見て決めた。

釜はただ、そのための湯を沸かした。

年が過ぎた。

茶屋の男が年を取った。

その息子が湯を汲むようになった。

やがて孫が火を起こした。

道が少し広くなった。

客の服が変わった。

履物が変わった。

言葉も少し変わった。

けれど。

「一杯ください。」

その言葉だけは、あまり変わらなかった。

ある雨の夜。

一人の女が茶屋へ来た。

全身が濡れていた。

女は何も言わず、軒下に立っている。

店の女主人が声をかけた。

「そんなところにいないで、入りなさい。」

女は動かない。

「濡れるよ。」

もう濡れている。

それでも女主人は手招きした。

「お茶くらい飲んでいきな。」

女が店へ入った。

座る。

茶が出る。

両手で茶碗を持つ。

飲む。

女の袖から、水が流れ続けていた。

床に水溜まりができた。

飲み終える。

女は頭を下げた。

立ち上がる。

店を出る。

翌朝。

床は乾いていた。

女が座っていた場所に、小さな川石が一つ置かれていた。

「忘れ物かねえ。」

女主人はそう言って、石を店先へ置いた。

釜には、まだ何も分からなかった。

別の日。

狐が来た。

人の姿をしていた。

だが尾を隠すのが下手だった。

茶屋の老人は気づいた。

何も言わなかった。

茶を出した。

狐も何も言わなかった。

飲んだ。

帰った。

その次には、山のものが来た。

その次には、死んだはずの男が来た。

昔この道を通っていた旅人だった。

茶屋の婆さんは、男の顔を見て言った。

「あんた、久しぶりだねえ。」

男は笑った。

「覚えていたか。」

「忘れるもんかね。」

茶が出た。

男は一杯飲んだ。

「うまい。」

それだけ言って帰った。

翌朝、婆さんは仏壇へ手を合わせた。

釜には、死ぬということも分からなかった。

ただ。

その男が飲んだ一杯の湯も、自分が沸かしたものだった。

さらに年が過ぎた。

人間が来た。

狐が来た。

川のものが来た。

山のものが来た。

幽霊が来た。

神と呼ばれるものも来た。

誰も名を尋ねなかった。

何者なのか。

どこから来たのか。

なぜ来たのか。

聞くこともあった。

聞かないこともあった。

けれど。

座れば、茶が出た。

嬉しい者がいた。

悲しい者がいた。

腹を立てている者がいた。

疲れ切った者がいた。

何も話さない者もいた。

泣く者もいた。

笑う者もいた。

久しぶりに会った者同士が、手を取り合うこともあった。

同じ席に座りながら、一言も交わさない者もいた。

釜はそのすべてのそばで、湯を沸かした。

しゅう。

しゅう。

ただ。

湯を沸かした。

いつからだったのか。

茶釜自身にも分からない。

客が戸口へ立つと。

次に必要な湯の熱さが分かるようになった。

寒そうだ。

熱くしよう。

疲れている。

少し柔らかい方がいい。

この客は急いでいる。

早く沸かそう。

この客は。

今日は、ゆっくりしたいらしい。

最初は、それだけだった。

心ではない。

言葉でもない。

ただ、長く使われた道具の癖のようなものだった。

ある冬の日。

ひどい雪が降った。

茶屋には誰も来なかった。

朝から。

昼まで。

夕方まで。

一人も。

火だけが燃えていた。

茶屋の婆さんが言った。

「今日は誰も来ないねえ。」

釜の湯が、ぐらぐらと沸いていた。

「こんな日に来る物好きもおらんか。」

婆さんは笑った。

店じまいをしようとした。

そのとき。

戸が開いた。

雪まみれの若者が立っていた。

人間なのか。

そうでないのか。

もう分からないほど白かった。

「……すみません。」

声が震えている。

「まだ、いいですか。」

婆さんは言った。

「いいよ。」

戸を開ける。

「入りな。」

若者が座る。

婆さんは茶碗を出した。

だが。

湯が少し冷めていた。

婆さんが釜を見る。

「もう一度、沸かそうかね。」

そのときだった。

──カン。

蓋が鳴った。

婆さんの手が止まった。

釜自身も驚いた。

誰も触れていない。

風もない。

それでも蓋が鳴った。

婆さんが釜を見る。

「なんだい。」

返事などできない。

まだ声はなかった。

けれど。

火が強くなった。

湯が動いた。

しゅう。

白い湯気が立つ。

婆さんが目を丸くする。

「まだ働く気かい。」

──カン。

また鳴った。

婆さんはしばらく釜を見ていた。

やがて笑った。

「そうかい。」

湯を取る。

茶を淹れる。

雪まみれの若者へ差し出した。

「ほら。」

若者は茶碗を両手で包んだ。

一口飲む。

長い息を吐いた。

「あったかい。」

その言葉が。

釜の中へ落ちた。

音ではなかった。

湯でもなかった。

何かが。

鉄の奥へ沈んだ。

それまでにも。

「うまい。」

「助かった。」

「生き返る。」

「ありがとう。」

何百。

何千。

数えきれない言葉があった。

笑い声。

泣き声。

ため息。

沈黙。

それらが、ずっと鉄の中へ積もっていた。

一つ一つは小さかった。

あまりにも小さくて。

釜自身さえ気づかなかった。

けれど。

その冬の日。

積もったものが、形になった。

婆さんが若者へ尋ねた。

「もう一杯いるかい。」

若者が頷く。

「お願いします。」

釜の中で。

何かが思った。

──もう一杯。

それが最初だった。

願いではなかった。

名前でもなかった。

人になりたいわけでもない。

妖怪になりたいわけでもない。

長生きしたいわけでもない。

ただ。

もう一杯。

その客に。

もう一杯。

湯を。

それが。

茶釜の最初の心だった。

「……それからですか。」

急須の声で、円相の夜へ戻った。

雨はまだ降っている。

茶釜は静かに湯を沸かしていた。

「何がじゃ。」

「お話しできるようになったのは。」

「いや。」

茶釜は答えた。

「まだ先じゃ。」

「まだ?」

「長かったぞ。」

「どのくらいです?」

「忘れた。」

「そこまで話しておいて。」

「忘れたものは仕方なかろう。」

湯呑みたちが笑った。

茶筅が尋ねる。

「では、最初に何とお話しになったのですか。」

茶釜が黙った。

「覚えていらっしゃいます?」

「それは覚えておる。」

皆が待つ。

雨の音。

炉の火。

やがて茶釜が言った。

「ある夜にな。」

「はい。」

「茶を出した婆さんが、客と話し込んでおった。」

「はい。」

「話が長くてな。」

「はい。」

「湯が冷めた。」

急須が嫌な予感を覚えたように黙った。

茶釜は続けた。

「それで。」

──カン。

「『……湯が、冷めるのう』」

沈黙。

急須が言った。

「それが最初のお言葉ですか。」

「そうじゃ。」

「もっとこう……。」

「なんじゃ。」

「ありませんでした?」

「何が。」

「長い年月を経て、初めて心を持たれたのですよね。」

「そうらしいな。」

「でしたら、もう少し。」

「湯が冷めておったのじゃ。」

鉄瓶が低く笑った。

茶杓も笑う。

茶筅も。

湯呑みたちも。

とうとう急須まで笑い始めた。

「ご主人さまらしいです。」

「何がおかしい。」

「いえ。」

「なら笑うな。」

「無理です。」

しばらく店の中に、道具たちの笑い声が響いた。

笑いが収まってから。

小さな湯呑みが尋ねた。

「ねえ、ご主人さま。」

「なんじゃ。」

「心を持ったとき、何か欲しくならなかったの?」

「欲しいもの?」

「うん。」

「たとえば?」

「もっと大きなお店とか。」

「いらん。」

「有名になるとか。」

「いらん。」

「もっとたくさんお客さんが来るとか。」

茶釜は少し考えた。

「それも、どちらでもよい。」

「じゃあ、何が欲しかったの?」

茶釜は答えなかった。

急須も。

茶杓も。

茶筅も。

鉄瓶も。

黙って待った。

やがて。

茶釜が言った。

「来た客に。」

白い湯気が一本、立ち上る。

「その客に合う一服を出す。」

雨音が続いている。

「それだけじゃ。」

誰も何も言わなかった。

店の外。

雨の向こうに、小さな影が立っていた。

ずぶ濡れの子どものような姿だった。

人ではない。

頭から細い枝が二本伸びている。

裸足。

泥だらけ。

影は閉じた格子戸の前で、しばらく中を覗いていた。

鉄瓶が最初に気づいた。

「客じゃ。」

急須が外を見る。

「こんな時間に?」

茶杓が言う。

「雨宿りかもしれん。」

茶筅が言う。

「お茶、飲みますかね。」

茶釜は何も答えない。

ただ。

湯が少し強く沸いた。

しゅう。

白い湯気が戸口へ伸びる。

格子戸が。

からり。

少しだけ開いた。

外の影が驚く。

中を覗く。

誰もいない。

人間は。

誰も。

影が恐る恐る入ってくる。

「……いいの?」

店の奥で。

──カン。

影はしばらく立っていた。

それから。

小さく頭を下げた。

「お邪魔します。」

急須が動く。

茶杓が茶葉を量る。

鉄瓶が水を整える。

茶筅が棚の上から様子を見る。

小さな湯呑みが一つ、客の前へ出る。

そして。

茶釜から湯が注がれた。

影は両手で湯呑みを包んだ。

一口。

目を閉じる。

「あったかい。」

茶釜は何も言わなかった。

雨が降っている。

昔と同じように。

外は暗く。

客は濡れている。

湯は温かい。

それでよかった。

翌朝。

雨は上がっていた。

最初の婆さんが裏口を開ける。

「おはよう、店主さん。」

……カン。

「雨、上がったねえ。」

二人目が入ってくる。

「あら。」

床を見る。

小さな泥の足跡が残っていた。

「誰か来た?」

一人目の婆さんも見る。

「夜中に?」

「円ちゃんじゃないねえ。」

「円ちゃん、こんな小さい足じゃないよ。」

二人で足跡を追う。

客席まで続いている。

そこから戸口へ戻っている。

「子どもかね。」

「こんな時間に?」

「さあ。」

三人目の婆さんが入ってきた。

「何しとるの。」

「夜中に子どもが来たみたい。」

「ふうん。」

「ふうんって。」

「お茶は出したの?」

二人が店の奥を見る。

古い茶釜が、いつもの場所にいる。

……カン。

三人目の婆さんが頷いた。

「ならいいじゃない。」

「そうかねえ。」

「いいんだよ。」

婆さんは箒を持ってくる。

泥の足跡を掃く。

別の婆さんが湯呑みを並べる。

もう一人が暖簾を持って外へ出る。

いつもの朝が始まる。

「今日は何のお茶にする?」

「昨日と同じでいいんじゃない。」

「昨日、雨だったよ。」

「じゃあ今日は少し軽くする?」

「店主さん、どう?」

奥で。

……カン。

「はいはい。」

婆さんが笑う。

暖簾が出る。

通りを人が歩き始める。

魚屋が店を開ける。

自転車が通る。

学校へ向かう子どもたちの声がする。

やがて。

最初の客が暖簾をくぐった。

「おはよう。」

「はい、いらっしゃい。」

茶碗が一つ置かれる。

茶葉が入る。

湯が注がれる。

昔。

ただの釜だったものは。

今日も同じ場所で、湯を沸かしている。

人のために。

怪異のために。

ではなく。

来た客に。

その客に合う一服を。

「お待たせ。」

婆さんが茶を差し出す。

客が受け取る。

「ありがとう。」

店の奥で。

……カン。

「ようこそ」と湯を差し出す。

その一つの動作だけが。

長い年月を経て。

静かな命になったのである。

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