12話「昔から」

境界の食卓

真壁円は、虹蛇が梅干し以外のものを食べるのか知らなかった。

そもそも、何を食べて生きているのかも知らない。

泉の脇に置いた梅干しは食べる。

去年は三粒。
今年はまだ一粒。

それだけだった。

「魚とか食べるのかな」

『知らん。』

夕食のあとだった。

鏡の向こうで、カイギデルがコーヒー豆を挽いている。

ショリ、ショリ。

「知らないの?」

『知らん。』

「昔からいるんでしょ」

『いる。』

「知り合いじゃないの」

カイギデルの手が止まった。

『知ってはいる。』

円はインスタントコーヒーを一口飲んだ。

「友達?」

『違う。』

「仲悪い?」

『別に。』

「じゃあ何」

『知っている。』

円にはよく分からなかった。

同じ町に何十年も住んでいる人同士なら、顔くらい知っていることはある。

でも、たぶん、そういう話ではない。

「いつから?」

『昔から。』

「どのくらい昔?」

カイギデルは考えた。

『山が、もう少し低かった頃だ。』

「分からない」

『なら聞くな。』

ショリ、ショリ。

また豆を挽き始める。

円は鏡を見ながら、ふと思った。

「カイギデルと虹蛇って、同じ種類なの?」

手が止まった。

今度は、すぐに返事が来た。

『違う。』

「でも似てるよ」

『似ていない。』

「どっちも長いじゃん」

カイギデルが円を見る。

『お前はカラスと同じ種類なのか。二本脚だ。』

「違うよ」

『同じことだ。』

円は少し考えた。

「……そうかな」

『そうだ。』

カイギデルは豆を挽く。

少しだけ、いつもより音が強かった。

翌朝。

縁側へ出ると、泉の方から水の音がした。

円はサンダルを履いた。

赤嘴のボタンインコが、網戸の向こうからこちらを見ている。
青い方は朝ご飯を食べていた。

泉まで行く。

虹蛇がいた。

珍しく、水の中ではなかった。

朽木の苔の上に、長い身体を置いている。

黒い鱗の上を朝の光が動く。

青。
緑。
紫。

見る角度を変えると消える。

円はしゃがんだ。

「おはよう」

虹蛇は何も言わない。

「カイギデルのこと知ってる?」

虹蛇の頭が、ほんの少し動いた。

「知ってるんだ」

返事はない。

円は少し考える。

「友達?」

動かない。

「仲悪い?」

動かない。

「同じ種類?」

虹蛇が円を見た。

しばらく見ていた。

それから泉へ入った。

音はほとんどしなかった。

「……違うんだ」

水面に波紋が一つ広がった。

たぶん、そういう意味だろう。

その日の夕方。

円は資料室から帰って、庭へ水を撒いていた。

ナスの葉の裏を見る。

またテントウムシダマシがいる。

「もう」

一匹取る。

そのとき、床下で何かが動いた。

長いものが擦れる音。

泉を見る。

水面が揺れている。

円はホースを止めた。

虹蛇が頭を出した。

いつもより少し大きい。

「今日は大きいね」

返事はない。

そのときだった。

背後で、何かが鳴った。

チン。

家の中だった。

円は縁側から上がった。

洗面所の鏡が、藍色になっている。

向こうにカイギデルがいた。

今日はコーヒーを飲んでいない。

鏡のすぐ近くに立っている。

『来ているな。』

「分かるの?」

『分かる。』

円は庭を見る。

虹蛇はまだ泉にいる。

「出てくる?」

『なぜだ。』

「知ってるんでしょ」

『知っている。』

「だったら挨拶くらい」

カイギデルは少し黙った。

『昨日もいた。』

「昨日は会ってないでしょ」

『そういう意味ではない。』

また分からない。

円は鏡と泉を交互に見る。

「久しぶりなんじゃないの?」

『そうでもない。』

「最後に会ったのいつ?」

カイギデルは考えた。

『川が、あちらを流れていた頃だ。』

指を差す。

円には壁しか見えない。

「いつ」

『だから、あちらを流れていた頃だ。』

「分からないって」

結局、カイギデルは庭へ来た。

円の横を通り、そのまま縁側へ出る。

泉の虹蛇が頭を上げた。

カイギデルが見る。

虹蛇も見る。

円は少し離れたところに立った。

何か起こるのかと思った。

何も起こらない。

風が吹いた。

庭木の葉が揺れる。

カイギデルが言った。

『まだいたか。』

虹蛇は動かない。

しばらくして、頭を少し下げた。

カイギデルも、それ以上何も言わなかった。

円は待った。

もう少し待った。

「……終わり?」

『何がだ。』

「久しぶりに会ったんでしょ」

『会った。』

「もっと何かないの」

『ない。』

虹蛇はもう泉へ戻り始めている。

円は訊いた。

「カイギデル。あれ、何なの」

『あれは、あれだ。』

「神様?」

『人間は、そう呼んだこともある。』

「蛇神?」

『そう呼んだこともある。』

「水神?」

『それもあった。』

虹蛇の尾が水へ消える。

「じゃあ何?」

カイギデルは泉を見た。

『昔からいる。』

「それだけ?」

『他に何がいる。』

円は少し考えた。

分からないので、別のことを訊いた。

「じゃあカイギデルは悪魔じゃないの?」

『お前たちは、そう呼ぶ。』

「違うの?」

『困らないから、そのままにしている。』

「適当だな」

『そうか。』

「そうだよ」

夜。

円は庭に来たカラスへ煮干しを三本やった。

黒い羽。

二本の脚。

カラスが一度だけ鳴く。

円はしばらく見ていた。

「……似てないな」

鏡の向こうから声がする。

『何がだ。』

「何でもない」

『そうか。』

ショリ、ショリ。

コーヒーミルの音がする。

床下では、水が流れていた。

円には、それがどこから来て、どこへ行くのか分からない。

カラスが煮干しを一本くわえた。

家の中で、鳥が鳴いた。

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