真壁円は、虹蛇が梅干し以外のものを食べるのか知らなかった。
そもそも、何を食べて生きているのかも知らない。
泉の脇に置いた梅干しは食べる。
去年は三粒。
今年はまだ一粒。
それだけだった。
「魚とか食べるのかな」
『知らん。』
夕食のあとだった。
鏡の向こうで、カイギデルがコーヒー豆を挽いている。
ショリ、ショリ。
「知らないの?」
『知らん。』
「昔からいるんでしょ」
『いる。』
「知り合いじゃないの」
カイギデルの手が止まった。
『知ってはいる。』
円はインスタントコーヒーを一口飲んだ。
「友達?」
『違う。』
「仲悪い?」
『別に。』
「じゃあ何」
『知っている。』
円にはよく分からなかった。
同じ町に何十年も住んでいる人同士なら、顔くらい知っていることはある。
でも、たぶん、そういう話ではない。
「いつから?」
『昔から。』
「どのくらい昔?」
カイギデルは考えた。
『山が、もう少し低かった頃だ。』
「分からない」
『なら聞くな。』
ショリ、ショリ。
また豆を挽き始める。
円は鏡を見ながら、ふと思った。
「カイギデルと虹蛇って、同じ種類なの?」
手が止まった。
今度は、すぐに返事が来た。
『違う。』
「でも似てるよ」
『似ていない。』
「どっちも長いじゃん」
カイギデルが円を見る。
『お前はカラスと同じ種類なのか。二本脚だ。』
「違うよ」
『同じことだ。』
円は少し考えた。
「……そうかな」
『そうだ。』
カイギデルは豆を挽く。
少しだけ、いつもより音が強かった。
翌朝。
縁側へ出ると、泉の方から水の音がした。
円はサンダルを履いた。
赤嘴のボタンインコが、網戸の向こうからこちらを見ている。
青い方は朝ご飯を食べていた。
泉まで行く。
虹蛇がいた。
珍しく、水の中ではなかった。
朽木の苔の上に、長い身体を置いている。
黒い鱗の上を朝の光が動く。
青。
緑。
紫。
見る角度を変えると消える。
円はしゃがんだ。
「おはよう」
虹蛇は何も言わない。
「カイギデルのこと知ってる?」
虹蛇の頭が、ほんの少し動いた。
「知ってるんだ」
返事はない。
円は少し考える。
「友達?」
動かない。
「仲悪い?」
動かない。
「同じ種類?」
虹蛇が円を見た。
しばらく見ていた。
それから泉へ入った。
音はほとんどしなかった。
「……違うんだ」
水面に波紋が一つ広がった。
たぶん、そういう意味だろう。
その日の夕方。
円は資料室から帰って、庭へ水を撒いていた。
ナスの葉の裏を見る。
またテントウムシダマシがいる。
「もう」
一匹取る。
そのとき、床下で何かが動いた。
長いものが擦れる音。
泉を見る。
水面が揺れている。
円はホースを止めた。
虹蛇が頭を出した。
いつもより少し大きい。
「今日は大きいね」
返事はない。
そのときだった。
背後で、何かが鳴った。
チン。
家の中だった。
円は縁側から上がった。
洗面所の鏡が、藍色になっている。
向こうにカイギデルがいた。
今日はコーヒーを飲んでいない。
鏡のすぐ近くに立っている。
『来ているな。』
「分かるの?」
『分かる。』
円は庭を見る。
虹蛇はまだ泉にいる。
「出てくる?」
『なぜだ。』
「知ってるんでしょ」
『知っている。』
「だったら挨拶くらい」
カイギデルは少し黙った。
『昨日もいた。』
「昨日は会ってないでしょ」
『そういう意味ではない。』
また分からない。
円は鏡と泉を交互に見る。
「久しぶりなんじゃないの?」
『そうでもない。』
「最後に会ったのいつ?」
カイギデルは考えた。
『川が、あちらを流れていた頃だ。』
指を差す。
円には壁しか見えない。
「いつ」
『だから、あちらを流れていた頃だ。』
「分からないって」
結局、カイギデルは庭へ来た。
円の横を通り、そのまま縁側へ出る。
泉の虹蛇が頭を上げた。
カイギデルが見る。
虹蛇も見る。
円は少し離れたところに立った。
何か起こるのかと思った。
何も起こらない。
風が吹いた。
庭木の葉が揺れる。
カイギデルが言った。
『まだいたか。』
虹蛇は動かない。
しばらくして、頭を少し下げた。
カイギデルも、それ以上何も言わなかった。
円は待った。
もう少し待った。
「……終わり?」
『何がだ。』
「久しぶりに会ったんでしょ」
『会った。』
「もっと何かないの」
『ない。』
虹蛇はもう泉へ戻り始めている。
円は訊いた。
「カイギデル。あれ、何なの」
『あれは、あれだ。』
「神様?」
『人間は、そう呼んだこともある。』
「蛇神?」
『そう呼んだこともある。』
「水神?」
『それもあった。』
虹蛇の尾が水へ消える。
「じゃあ何?」
カイギデルは泉を見た。
『昔からいる。』
「それだけ?」
『他に何がいる。』
円は少し考えた。
分からないので、別のことを訊いた。
「じゃあカイギデルは悪魔じゃないの?」
『お前たちは、そう呼ぶ。』
「違うの?」
『困らないから、そのままにしている。』
「適当だな」
『そうか。』
「そうだよ」
夜。
円は庭に来たカラスへ煮干しを三本やった。
黒い羽。
二本の脚。
カラスが一度だけ鳴く。
円はしばらく見ていた。
「……似てないな」
鏡の向こうから声がする。
『何がだ。』
「何でもない」
『そうか。』
ショリ、ショリ。
コーヒーミルの音がする。
床下では、水が流れていた。
円には、それがどこから来て、どこへ行くのか分からない。
カラスが煮干しを一本くわえた。
家の中で、鳥が鳴いた。

