11話「値上がりした橘」

境界の食卓

分館を出たあと、真壁円は海沿いの商店街を少し歩いた。

返却は終わった。

昼食には、まだ少し早い。

車へ戻ってもよかったが、分館の職員に、

「この先にクレープ屋があるよ。」

と言われていた。

円は歩いた。

『甘いものか。』

カイギデルが言う。

「たぶん。」

『食うのか。』

「見てから。」

『値段を。』

「うん。」

海から風が吹いていた。

潮の匂い。

干物屋。

小さな薬局。

古い文具店。

その間に、白い外壁のコンビニがあった。

円は何となく中へ入る。

飲み物の冷蔵棚。

菓子。

雑誌。

レジ横には肉まんの機械と、小さな籠。

籠の中に、透明な袋が並んでいた。

《橘葉 二枚入》

百六十円。

円は足を止める。

袋の中には、細長く乾燥した葉が二枚。

細い水引も入っている。

「去年より高い。」

『知っているのか。』

「うちの町でも売ってる。」

『そうか。』

円は一袋だけ取った。

『買うのか。』

「切らしてた。」

『使うのか。』

「時期だから。」

それ以上は言わなかった。

会計を済ませる。

店員も何も聞かない。

「百六十円です。」

「はい。」

それだけだった。

外へ出る。

通りの向こうから、若い二人が歩いてきた。

十代後半くらい。

一人は色の落ちた太いデニムに、丈の短い黒い上着。

足元は厚底のスニーカー。

もう一人は薄い灰色のスウェットパンツに、白いシャツを羽織っている。

二人とも片手にクレープを持っていた。

歩きながら話している。

「次どこ行く?」

「海の方。」

「風強くない?」

「髪終わるね。」

笑う。

円とすれ違う。

そのとき、円は片方の手元を見た。

右手。

小指と薬指の間に、乾燥した橘の葉。

細い水引で軽く留められている。

葉はよく乾いていて、縁が少し反っていた。

爪には淡い色のネイル。

クレープの包み紙を持つ指だけが、少し開きにくそうだった。

「ゴワゴワする。」

本人が言う。

「あと二日でしょ。」

「長い。」

「去年よりマシじゃない?」

「去年の、葉っぱ固すぎた。」

二人はそのまま通り過ぎていった。

円は振り返らない。

『あれも使っているな。』

「うん。」

『今は葉か。』

円は少しだけ足を止めた。

「昔は違ったの。」

カイギデルはすぐには答えなかった。

『もっと直接だった。』

「何を。」

『境を作った。』

「指で?」

沈黙。

海風が吹く。

円は歩き出した。

クレープ屋は角を曲がった先にあった。

小さな店だった。

店先に三人並んでいる。

円はメニューを見る。

いちご。

バナナ。

抹茶。

キャラメル。

それから値段。

「高い。」

『帰るか。』

「でも来たし。」

『高いものは高い。』

「一個だけ。」

『好きにしろ。』

円はいちごを頼んだ。

受け取る。

生地は温かい。

中のクリームは冷たい。

少し歩いて、道端のベンチへ座る。

海が見えた。

遠くで船が動いている。

円はクレープを一口食べた。

「甘い。」

『当然だ。』

「おいしい。」

『そうか。』

しばらく食べる。

海風で包み紙が鳴る。

「橘の葉。」

『なんだ。』

「昔、本当に折ってた?」

少し間があった。

『そういうやり方もあった。』

「指を。」

『境を作るには、分かりやすい。』

円は自分の右手を見る。

小指。

薬指。

少し離して。

戻す。

「痛いね。」

『痛いだろうな。』

「じゃあ葉でいいじゃん。」

『今はな。』

「昔も。」

『昔は、葉で代わると分からなかった。』

円はクレープをもう一口食べる。

「誰かが試したんだ。」

『たぶんな。』

「勇気あるね。」

『困っていたのだろう。』

「そっちか。」

カイギデルは答えない。

円は残りを食べる。

クレープの紙を小さく畳む。

ベンチから立ち上がった。

そのとき。

向こうから、一人の男が歩いてきた。

四十代くらい。

紺色の作業着。

左手にコンビニの袋。

右手は胸の前へ、少しかばうように上げている。

小指と薬指が、白い包帯で一緒に固定されていた。

中には添え木らしいものも見える。

男は円の前を通る。

誰も振り返らない。

近くの店員も。

通りを歩く人も。

円も何も言わない。

男はただ歩いていく。

少し先で、知り合いらしい老人に声をかけられた。

「おう。」

「どうも。」

「大丈夫か。」

「まあ。」

それだけだった。

円は歩きながら、少しだけ後ろを見る。

男はもう角を曲がっていた。

『気になるか。』

カイギデルが言う。

「別に。」

『そうか。』

「骨折かもしれないし。」

『そうだな。』

「仕事で。」

『かもしれん。』

「転んだとか。」

『あるだろう。』

円は少し黙る。

「昔のやり方かもしれない。」

カイギデルは答えなかった。

円も、それ以上言わなかった。

通りの先に、小さな神社があった。

鳥居の横に、橘の木。

緑の葉が風に揺れている。

一本の枝に、白い紙垂。

根元には、落ちた葉。

そのうち何枚かは、拾われた跡があった。

円は立ち止まる。

『取るな。』

「取らないよ。」

『ならいい。』

「コンビニで買ったし。」

『百六十円。』

円は少しだけ笑った。

「覚えてたんだ。」

『高いと言っていた。』

「去年は百五十円。」

『十円か。』

「十円だよ。」

『そうか。』

神社の前を通り過ぎる。

駐車場へ戻る途中。

さっきの若い二人が、またいた。

今度は海を背にして、スマートフォンで写真を撮っている。

橘の葉は、まだ指の間に挟まっていた。

一人がクレープの包み紙を丸めながら言う。

「これ、明日まで?」

「明後日の朝じゃない?」

「学校で邪魔なんだけど。」

「先生もやってるじゃん。」

「先生の葉、めっちゃでかいよね。」

二人で笑う。

「保健室に予備あるって。」

「コンビニの方がマシ。」

「百六十円するよ。」

「高。」

また笑う。

二人はスマートフォンの画面を覗き込む。

「これ盛れてる。」

「風で髪やばい。」

怪異の話はしない。

儀式の話もしない。

葉が邪魔だとか。

写真がうまく撮れたとか。

そんな話だけだった。

円はその横を通り過ぎる。

『残るものは、変わるな。』

カイギデルが言った。

「何が。」

『やり方だ。』

円は自分の鞄を見る。

中には、百六十円の橘葉。

「変わった方がいいよ。」

『そうか。』

「痛くない方に。」

少し間があった。

『それでも残る。』

「葉っぱでね。」

『ああ。』

円は車へ戻った。

助手席へ鞄を置く。

クレープの紙は駐車場のゴミ箱へ捨てた。

橘の葉は、鞄の内ポケットへ入れる。

エンジンをかける。

海沿いの道へ出た。

しばらく走る。

『円。』

「うん。」

『あの男。』

円は前を見る。

「包帯?」

『ああ。』

「何。」

『気にしないのか。』

円は少し考える。

「本人が困ってたら、気にする。」

『困っているようには見えなかった。』

「じゃあいい。」

『本当に折ったかもしれん。』

「かもしれない。」

『昔のやり方で。』

「そうかもね。」

『怖くないのか。』

円は少しだけ首を傾ける。

「痛そうとは思った。」

『それだけか。』

「それ以上、分からないし。」

カイギデルは黙った。

車は走る。

海。

空。

ガードレール。

乾いた風。

コンビニで買った橘の葉が、鞄の中で、

かさ。

と鳴った。

途中。

小さなスーパーの前を通る。

店頭の籠に、

《橘葉 今季入荷》

と書かれていた。

円は速度を落とさなかった。

もう買ったからだった。

昼食には、さっき見つけた食堂へ寄るつもりだった。

鯖があると、店先の黒板に書いてあった。

帰宅したのは夕方だった。

ボタンインコたちは、いつものように肩へ飛んできた。

赤嘴。

少し遅れて青い方。

円は蕎麦の実を一粒ずつ渡す。

「今日は海だった。」

二羽は関係なく食べる。

赤嘴が、もう一粒寄こせという顔をする。

「一個ずつ。」

青い方にも渡す。

ベランダにはカラス。

煮干しを三本。

「はい。」

カラスは一度だけ円を見た。

煮干しをくわえ、飛んでいった。

夕飯は、帰りに買った鯵の干物。

豆腐。

味噌汁。

麦ご飯。

その前に。

仏壇へ線香を供える。

鈴を鳴らす。

読経。

いつものように終える。

円は台所へ戻った。

それから、コンビニで買った橘の葉を取り出す。

透明な袋を開ける。

乾いた匂い。

少し青い。

二枚。

細い水引。

円は一枚を、小指と薬指の間に挟む。

「痛くない。」

『当たり前だ。』

洗面所の鏡が、ゆっくり藍色へ沈んでいく。

向こうでカイギデルがコーヒー豆を取り出す。

ショリ。

ショリ。

円は水引を軽く結ぶ。

強く締めすぎない。

葉が落ちない程度。

指を動かしてみる。

少し邪魔だった。

「昔の人、本当にこれ思いつかなかったのかな。」

ショリ。

一度、音が止まる。

『思いついたから、今がある。』

「そっか。」

円は手を見る。

葉は指の間で少し反っている。

「明日、仕事しづらい。」

『外せばいい。』

「駄目でしょ。」

『なぜ。』

「時期だから。」

『面倒だな。』

円は指をもう一度動かした。

「昔よりは。」

向こうで、コーヒーミルを回す手が少し止まった。

『そうだな。』

ショリ。

ショリ。

また音が続く。

円は食卓へ座った。

橘の葉を挟んだまま、箸を持つ。

少し持ちにくい。

でも持てる。

鯵の身をほぐす。

口へ運ぶ。

「おいしい。」

『そうか。』

外では、商店街の明かりが少しずつ消えていく。

円はもう一口、鯵を食べる。

指の間で、乾いた葉が小さく擦れた。

かさ。

かさ。

それだけだった。

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました