分館を出たあと、真壁円は海沿いの商店街を少し歩いた。
返却は終わった。
昼食には、まだ少し早い。
車へ戻ってもよかったが、分館の職員に、
「この先にクレープ屋があるよ。」
と言われていた。
円は歩いた。
『甘いものか。』
カイギデルが言う。
「たぶん。」
『食うのか。』
「見てから。」
『値段を。』
「うん。」
海から風が吹いていた。
潮の匂い。
干物屋。
小さな薬局。
古い文具店。
その間に、白い外壁のコンビニがあった。
円は何となく中へ入る。
飲み物の冷蔵棚。
菓子。
雑誌。
レジ横には肉まんの機械と、小さな籠。
籠の中に、透明な袋が並んでいた。
《橘葉 二枚入》
百六十円。
円は足を止める。
袋の中には、細長く乾燥した葉が二枚。
細い水引も入っている。
「去年より高い。」
『知っているのか。』
「うちの町でも売ってる。」
『そうか。』
円は一袋だけ取った。
『買うのか。』
「切らしてた。」
『使うのか。』
「時期だから。」
それ以上は言わなかった。
会計を済ませる。
店員も何も聞かない。
「百六十円です。」
「はい。」
それだけだった。
外へ出る。
通りの向こうから、若い二人が歩いてきた。
十代後半くらい。
一人は色の落ちた太いデニムに、丈の短い黒い上着。
足元は厚底のスニーカー。
もう一人は薄い灰色のスウェットパンツに、白いシャツを羽織っている。
二人とも片手にクレープを持っていた。
歩きながら話している。
「次どこ行く?」
「海の方。」
「風強くない?」
「髪終わるね。」
笑う。
円とすれ違う。
そのとき、円は片方の手元を見た。
右手。
小指と薬指の間に、乾燥した橘の葉。
細い水引で軽く留められている。
葉はよく乾いていて、縁が少し反っていた。
爪には淡い色のネイル。
クレープの包み紙を持つ指だけが、少し開きにくそうだった。
「ゴワゴワする。」
本人が言う。
「あと二日でしょ。」
「長い。」
「去年よりマシじゃない?」
「去年の、葉っぱ固すぎた。」
二人はそのまま通り過ぎていった。
円は振り返らない。
『あれも使っているな。』
「うん。」
『今は葉か。』
円は少しだけ足を止めた。
「昔は違ったの。」
カイギデルはすぐには答えなかった。
『もっと直接だった。』
「何を。」
『境を作った。』
「指で?」
沈黙。
海風が吹く。
円は歩き出した。
クレープ屋は角を曲がった先にあった。
小さな店だった。
店先に三人並んでいる。
円はメニューを見る。
いちご。
バナナ。
抹茶。
キャラメル。
それから値段。
「高い。」
『帰るか。』
「でも来たし。」
『高いものは高い。』
「一個だけ。」
『好きにしろ。』
円はいちごを頼んだ。
受け取る。
生地は温かい。
中のクリームは冷たい。
少し歩いて、道端のベンチへ座る。
海が見えた。
遠くで船が動いている。
円はクレープを一口食べた。
「甘い。」
『当然だ。』
「おいしい。」
『そうか。』
しばらく食べる。
海風で包み紙が鳴る。
「橘の葉。」
『なんだ。』
「昔、本当に折ってた?」
少し間があった。
『そういうやり方もあった。』
「指を。」
『境を作るには、分かりやすい。』
円は自分の右手を見る。
小指。
薬指。
少し離して。
戻す。
「痛いね。」
『痛いだろうな。』
「じゃあ葉でいいじゃん。」
『今はな。』
「昔も。」
『昔は、葉で代わると分からなかった。』
円はクレープをもう一口食べる。
「誰かが試したんだ。」
『たぶんな。』
「勇気あるね。」
『困っていたのだろう。』
「そっちか。」
カイギデルは答えない。
円は残りを食べる。
クレープの紙を小さく畳む。
ベンチから立ち上がった。
そのとき。
向こうから、一人の男が歩いてきた。
四十代くらい。
紺色の作業着。
左手にコンビニの袋。
右手は胸の前へ、少しかばうように上げている。
小指と薬指が、白い包帯で一緒に固定されていた。
中には添え木らしいものも見える。
男は円の前を通る。
誰も振り返らない。
近くの店員も。
通りを歩く人も。
円も何も言わない。
男はただ歩いていく。
少し先で、知り合いらしい老人に声をかけられた。
「おう。」
「どうも。」
「大丈夫か。」
「まあ。」
それだけだった。
円は歩きながら、少しだけ後ろを見る。
男はもう角を曲がっていた。
『気になるか。』
カイギデルが言う。
「別に。」
『そうか。』
「骨折かもしれないし。」
『そうだな。』
「仕事で。」
『かもしれん。』
「転んだとか。」
『あるだろう。』
円は少し黙る。
「昔のやり方かもしれない。」
カイギデルは答えなかった。
円も、それ以上言わなかった。
通りの先に、小さな神社があった。
鳥居の横に、橘の木。
緑の葉が風に揺れている。
一本の枝に、白い紙垂。
根元には、落ちた葉。
そのうち何枚かは、拾われた跡があった。
円は立ち止まる。
『取るな。』
「取らないよ。」
『ならいい。』
「コンビニで買ったし。」
『百六十円。』
円は少しだけ笑った。
「覚えてたんだ。」
『高いと言っていた。』
「去年は百五十円。」
『十円か。』
「十円だよ。」
『そうか。』
神社の前を通り過ぎる。
駐車場へ戻る途中。
さっきの若い二人が、またいた。
今度は海を背にして、スマートフォンで写真を撮っている。
橘の葉は、まだ指の間に挟まっていた。
一人がクレープの包み紙を丸めながら言う。
「これ、明日まで?」
「明後日の朝じゃない?」
「学校で邪魔なんだけど。」
「先生もやってるじゃん。」
「先生の葉、めっちゃでかいよね。」
二人で笑う。
「保健室に予備あるって。」
「コンビニの方がマシ。」
「百六十円するよ。」
「高。」
また笑う。
二人はスマートフォンの画面を覗き込む。
「これ盛れてる。」
「風で髪やばい。」
怪異の話はしない。
儀式の話もしない。
葉が邪魔だとか。
写真がうまく撮れたとか。
そんな話だけだった。
円はその横を通り過ぎる。
『残るものは、変わるな。』
カイギデルが言った。
「何が。」
『やり方だ。』
円は自分の鞄を見る。
中には、百六十円の橘葉。
「変わった方がいいよ。」
『そうか。』
「痛くない方に。」
少し間があった。
『それでも残る。』
「葉っぱでね。」
『ああ。』
円は車へ戻った。
助手席へ鞄を置く。
クレープの紙は駐車場のゴミ箱へ捨てた。
橘の葉は、鞄の内ポケットへ入れる。
エンジンをかける。
海沿いの道へ出た。
しばらく走る。
『円。』
「うん。」
『あの男。』
円は前を見る。
「包帯?」
『ああ。』
「何。」
『気にしないのか。』
円は少し考える。
「本人が困ってたら、気にする。」
『困っているようには見えなかった。』
「じゃあいい。」
『本当に折ったかもしれん。』
「かもしれない。」
『昔のやり方で。』
「そうかもね。」
『怖くないのか。』
円は少しだけ首を傾ける。
「痛そうとは思った。」
『それだけか。』
「それ以上、分からないし。」
カイギデルは黙った。
車は走る。
海。
空。
ガードレール。
乾いた風。
コンビニで買った橘の葉が、鞄の中で、
かさ。
と鳴った。
途中。
小さなスーパーの前を通る。
店頭の籠に、
《橘葉 今季入荷》
と書かれていた。
円は速度を落とさなかった。
もう買ったからだった。
昼食には、さっき見つけた食堂へ寄るつもりだった。
鯖があると、店先の黒板に書いてあった。
帰宅したのは夕方だった。
ボタンインコたちは、いつものように肩へ飛んできた。
赤嘴。
少し遅れて青い方。
円は蕎麦の実を一粒ずつ渡す。
「今日は海だった。」
二羽は関係なく食べる。
赤嘴が、もう一粒寄こせという顔をする。
「一個ずつ。」
青い方にも渡す。
ベランダにはカラス。
煮干しを三本。
「はい。」
カラスは一度だけ円を見た。
煮干しをくわえ、飛んでいった。
夕飯は、帰りに買った鯵の干物。
豆腐。
味噌汁。
麦ご飯。
その前に。
仏壇へ線香を供える。
鈴を鳴らす。
読経。
いつものように終える。
円は台所へ戻った。
それから、コンビニで買った橘の葉を取り出す。
透明な袋を開ける。
乾いた匂い。
少し青い。
二枚。
細い水引。
円は一枚を、小指と薬指の間に挟む。
「痛くない。」
『当たり前だ。』
洗面所の鏡が、ゆっくり藍色へ沈んでいく。
向こうでカイギデルがコーヒー豆を取り出す。
ショリ。
ショリ。
円は水引を軽く結ぶ。
強く締めすぎない。
葉が落ちない程度。
指を動かしてみる。
少し邪魔だった。
「昔の人、本当にこれ思いつかなかったのかな。」
ショリ。
一度、音が止まる。
『思いついたから、今がある。』
「そっか。」
円は手を見る。
葉は指の間で少し反っている。
「明日、仕事しづらい。」
『外せばいい。』
「駄目でしょ。」
『なぜ。』
「時期だから。」
『面倒だな。』
円は指をもう一度動かした。
「昔よりは。」
向こうで、コーヒーミルを回す手が少し止まった。
『そうだな。』
ショリ。
ショリ。
また音が続く。
円は食卓へ座った。
橘の葉を挟んだまま、箸を持つ。
少し持ちにくい。
でも持てる。
鯵の身をほぐす。
口へ運ぶ。
「おいしい。」
『そうか。』
外では、商店街の明かりが少しずつ消えていく。
円はもう一口、鯵を食べる。
指の間で、乾いた葉が小さく擦れた。
かさ。
かさ。
それだけだった。

