夕方の百貨店は、冷房が少し強かった。
真壁円は一階の自動ドアをくぐると、肩から提げた布の鞄を持ち直した。
外はまだ暑い。
駅からここまで歩いただけで、首筋へうっすら汗が浮いていた。
館内へ入った途端、それが急に冷やされる。
化粧品売場の甘い香り。
磨かれた床。
規則正しく並んだ照明。
正面では、白い手袋をした案内係が客へ頭を下げている。
円はエスカレーターへ向かった。
今日は資料館の仕事ではない。
ボタンインコたちの粒々ごはんが、もう少しでなくなる。
いつものものは注文してある。
届くのは明後日だった。
二日分なら残っている。
困るほどではない。
それでも、餌の袋の底が見えているのは少し落ち着かなかった。
ついでに夕飯も買って帰るつもりだった。
地下へ降りる。
一階。
地下一階。
エスカレーターの先から、揚げ物の匂いが流れてきた。
夕方のデパ地下は混んでいた。
仕事帰りの人。
買い物袋を下げた老人。
制服姿の学生。
小さな子どもの手を引く母親。
洋菓子売場では、ガラスケースの中に果物の乗ったケーキが整然と並んでいる。
少し離れたところでは、焼き鳥が炭火の上で脂を落としていた。
ぱち、と小さな火が上がる。
円は足を止める。
「鶏もいいな。」
『昨日も食った。』
頭の奥で、カイギデルが言った。
「昨日は鯵。」
『その前だ。』
「三日前。」
『最近だ。』
円は少し考える。
「じゃあ魚にする。」
『魚も昨日だ。』
「何ならいいの。」
返事はなかった。
外出中、カイギデルは円を依代にしている。
鏡の向こうに身体を残したまま、影だけを円へ重ねている、と本人は言う。
円にはよく分からない。
ただ、家の外ではカイギデルの声が近くなる。
耳元でもない。
胸の中でもない。
頭蓋骨の内側から話しかけられているような、不思議な聞こえ方をする。
最初の頃は落ち着かなかった。
今はもう慣れた。
円は鮮魚売場へ向かう。
鯛。
鰹。
いさき。
鮎。
氷の上に魚が並んでいる。
半額になるには、まだ少し早い。
「今日は高いな。」
『鮎にしろ。』
「二尾で九百八十円。」
『高いな。』
「でしょ。」
二人とも黙った。
円は結局、切り身の鱈を籠へ入れた。
そのときだった。
天井から、柔らかな電子音が鳴った。
ぽーん。
館内放送の前に流れる、ごく普通の音だった。
円は何となく顔を上げる。
『――――』
女の声が流れた。
明るく、聞き取りやすい声だった。
百貨店の案内放送らしい、よく通る発声。
けれど、意味が分からない。
『――な、ぁえ、ろ……うぇ、た……』
円は立ち止まった。
日本語に聞こえる。
少なくとも、音の並びは日本語に近い。
なのに、言葉にならない。
『……ま、だ……ぇ……』
店員が氷を足している。
隣では老夫婦が刺身の盛り合わせを選んでいる。
若い会社員が弁当を手に取り、裏側の原材料表示を見ていた。
誰も上を見ない。
放送は続く。
『……あ……た……た……』
円は少し眉を寄せた。
音が悪い。
そう思った。
スピーカーの故障かもしれない。
それにしては、声そのものは妙にはっきりしている。
『あれが聞こえるのか。』
カイギデルが言った。
円は返事をしなかった。
視線だけを天井へ向ける。
埋め込み型の白いスピーカー。
何の変哲もない。
『円。』
「聞こえてる。」
小さく呟いた。
近くを通った女性が、少しだけ円を見る。
円は咳払いをして、鱈のパックへ視線を戻した。
『どこまで。』
「どこまでって。」
『言葉だ。』
円は少し考える。
「言葉にはなってない。」
『そうか。』
カイギデルが黙る。
それが、円には少し珍しかった。
「何なの。」
返事はない。
円は籠を持ち直す。
放送はまだ続いている。
『……ひ、と……』
今度は、少しだけ分かった気がした。
ひと。
人。
それとも、
ひとつ。
円は聞こうとする。
すると、かえって音が崩れた。
『……ぁ、え……う……た……』
遠くでトングが落ちた。
からん、と金属の音がする。
惣菜売場から、
「ただいま揚げたてでーす」
という明るい声が響く。
レジスターが鳴る。
紙袋が擦れる。
包丁がまな板へ当たる。
冷蔵ケースの低い唸り。
客の話し声。
子どもの笑い声。
食べ物を買うための音が、地下いっぱいに重なっている。
その下を縫うように、意味になれない声だけが流れていた。
円は歩き出す。
『気にしないのか。』
「気にはしてる。」
『そうは見えん。』
「晩ご飯も決めないといけないから。」
『……そうか。』
「それに。」
円は焼き物売場の前で足を止める。
「誰も困ってない。」
店員は働いている。
客は買い物をしている。
照明も消えていない。
避難誘導もない。
何かが出てきているわけでもない。
だったら、今すぐ円がすることは特にない。
放送の声だけが変だった。
それだけだった。
円は惣菜売場へ入る。
茄子の揚げ浸し。
南瓜の煮物。
ひじき。
白和え。
一つずつ見ていく。
「茄子。」
『買えばいい。』
「今年一本しか採れてないから、ちょっと悔しい。」
『野菜に意地を張るな。』
「来年は採る。」
『今年の飯を食え。』
円は茄子の揚げ浸しを籠へ入れた。
少し歩いたところで、放送が途切れた。
何の前触れもなかった。
いつもの館内音楽が戻る。
ピアノで演奏された、聞き覚えのある曲。
円は振り返る。
誰も気にしていない。
「終わった。」
『ああ。』
「知ってるの。」
少し間があった。
『似たものは。』
「何だった?」
『飢えだ。』
円は歩みを止めなかった。
「お腹が空いてるの。」
『違う。』
「じゃあ何。」
『空いていた。』
円は少しだけ黙った。
カイギデルは、それ以上説明しなかった。
地下二階へ下りる。
食品売場の端に、小さなペット用品店が入っている。
鳥用の棚は狭い。
犬と猫の餌がほとんどで、その隅へ粟穂やボレー粉、小袋のシードが並んでいる。
円は裏側の表示を確認した。
いつものものとは違う。
けれど、二日分なら問題なさそうだった。
小さな袋を一つ籠へ入れる。
「これでいいかな。」
『俺に訊くな。』
「一緒にいるから。」
『鳥の飯は知らん。』
「コーヒー豆なら知ってるのに。」
『当然だ。』
円は会計を済ませた。
エスカレーターで地下一階へ戻る。
先ほどの放送は、もう聞こえない。
閉店前の値引きが始まっていた。
惣菜売場の店員が、透明な蓋へ黄色いシールを貼っていく。
円は少し待った。
鱈はそのままだった。
茄子の揚げ浸しは二割引きになった。
少し嬉しい。
「得した。」
『待った甲斐があったな。』
「こういうのは分かるんだ。」
『金は大事だ。』
「悪魔なのに。」
『悪魔だからだ。』
意味は分からなかった。
帰ろうとして、円はパン売場の前で足を止める。
閉店まで一時間。
棚の上に、まだ食パンが何斤も残っていた。
惣菜パン。
菓子パン。
サンドイッチ。
クロワッサン。
夕方にはもっとあったのだろう。
それでも、まだ余っている。
円はしばらく棚を見た。
それから、小さな塩パンを一袋取った。
四個入り。
何となくだった。
『食うのか。』
「朝ご飯。」
『四つも。』
「冷凍する。」
『そうか。』
会計を済ませ、紙袋へ入れる。
地上へ出る。
自動ドアが開くと、ぬるい夜気が身体へまとわりついた。
夕方より少しだけ風がある。
百貨店のガラスには、地下とは違う街の明かりが映っている。
円は駅へ向かって歩いた。
しばらくして、尋ねる。
「さっきの。」
『ああ。』
「昔のもの?」
『古い。』
「いつから?」
『知らん。』
「カイギデルでも?」
『何でも知っていると思うな。』
「思ってないよ。」
『そうか。』
少し不満そうだった。
途中、地下道の入口で円は一度だけ振り返った。
百貨店は明るかった。
地下では今も、人が食べ物を選んでいる。
何百種類もの料理。
果物。
肉。
魚。
菓子。
パン。
空腹になれば、金を払って買える。
少なくとも今夜の円は、そうだった。
「飢えって。」
『なんだ。』
円は百貨店の明かりを見る。
「……こんなところにも来るんだね。」
カイギデルは、すぐには答えなかった。
信号が青になる。
人の流れに交じって、円は横断歩道を渡る。
『あるから来る。』
それだけだった。
円は前を向く。
家へ着くころには、空はすっかり暗くなっていた。
玄関の鍵を開ける。
靴を脱ぐ。
二階へ上がる。
放鳥部屋の戸を開けると、赤嘴のボタンインコが真っ先に飛んできた。
肩へ着地する。
青い方も少し遅れて飛んでくる。
「ただいま。」
二羽へ蕎麦の実を一粒ずつ渡す。
赤嘴はすぐに割る。
青い方は指の上で少し転がしてから、嘴へ運んだ。
円は買ってきたシードの袋を開ける。
匂いを確かめる。
いつものものより、少し粟が多い。
「二日だけね。」
小皿へ入れる。
二羽が寄ってくる。
殻を割る乾いた音が、部屋へ小さく響いた。
ベランダにはカラスが待っていた。
「今日は遅くなった。」
煮干しを三本。
カラスは二本を一度に咥えようとして、一本落とした。
円が拾う。
「欲張るから。」
もう一度差し出す。
今度は一本ずつ咥えた。
羽を広げ、夜へ飛んでいく。
夕飯は鱈を焼いた。
茄子の揚げ浸し。
豆腐の味噌汁。
麦ご飯。
神棚へ小さな皿を置く。
読経を終える。
洗面所へ行く。
鏡がゆっくり藍色へ沈んでいった。
向こうの部屋では、カイギデルがベッドへ腰掛けている。
しばらくすると立ち上がり、棚の壺からコーヒー豆を取り出した。
ショリ。
ショリ。
いつもの音だった。
円は台所へ戻り、鱈を皿へ移す。
「ねえ。」
『なんだ。』
「デパ地下の放送。」
豆を挽く音が止まった。
「私に聞こえるの、変なの?」
少し間があった。
『変だ。』
円は味噌汁をよそう。
「そう。」
『普通は聞こえん。』
「カイギデルには聞こえる。」
『俺は普通ではない。』
「私も?」
返事はなかった。
円は食卓へ座る。
箸を取る。
鏡の向こうで、カイギデルはまだミルへ手を置いていた。
いつもなら、とっくに続きを挽いている。
円は鱈の身をほぐす。
やがて。
ショリ。
一度だけ音がした。
そこで、また止まる。
『円。』
「うん。」
『今まで聞こえなかったのか。』
円は箸を止めた。
少し考える。
「今日が初めて。」
『そうか。』
カイギデルはミルへ目を落とした。
しばらく動かなかった。
「何。」
『別に。』
「気になる。」
『飯を食え。』
「カイギデルから言ったんでしょ。」
返事はない。
少しして。
ショリ。
ショリ。
いつもの速さで、豆を挽く音が戻った。
やがて、湯を注ぐ音がする。
深く焙煎したコーヒーの香りが、藍色の鏡を越えて部屋へ流れてきた。
円は茄子を一つ口へ入れる。
出汁がよく染みている。
「これ、おいしい。」
『そうか。』
「来年は自分で作る。」
『まず虫だ。』
「分かってる。」
食後。
円は買ってきた塩パンを一つだけ袋から取り出した。
残りは一つずつ包み、冷凍庫へ入れる。
塩パンを半分に割る。
柔らかな生地が少し潰れた。
円は片方を手にしたまま、しばらく考える。
それから神棚の小皿へ置いた。
「これは虹蛇のじゃないよ。」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
床下から返事はない。
鏡の向こうでは、カイギデルがコーヒーを飲んでいる。
円は残った半分を口へ運んだ。
少し塩気がある。
柔らかい。
地下の明るい売場を思い出す。
山のように積まれていたパン。
魚。
肉。
果物。
菓子。
惣菜。
あれだけの食べ物の上から流れていた、意味になれない声。
円は二口目を食べる。
今夜、腹は空いていない。
冷蔵庫には明日の分もある。
鳥の餌もある。
梅干しの瓶もある。
神棚には、半分のパンがある。
それでも。
遠いところで一度だけ、
『……まだ……』
と聞こえた気がした。
円は振り返る。
鏡は藍色のままだった。
カイギデルはコーヒーカップを持ったまま、何も言わない。
外では、商店街の店が一軒ずつ明かりを落としている。
円は残ったパンを食べた。
皿の上には、細かなパン屑が少しだけ残った。
