1話:鏡から珈琲の香り

境界の食卓

夕方の商店街には、買い物帰りの人がぽつぽつ歩いている。
八百屋は売れ残った野菜を店の奥へ運んでいる。
魚屋は電柱をひと目見上げ、店先の氷を流す。
白く濁った水が側溝を伝い、商店街の端へ消えていく。
カラスは飛び降りようとはせず、一匹だけ残った六百五十円のカツオを見つめ続けている。
店先から漏れる明かりを背に、買い物袋を提げた人々の影が、まばらな通りに長く伸びては消えていく。
人々に交じって歩く真壁円の影も、家へ向かって伸びていく。
門先まで来るころには、それは足元へと静かに戻っていた。
円は玄関の鍵を開ける。
戸口の明かりに触れ、影は身体の輪郭へ収まる。
靴を脱ぎ、居間の引き戸を開ける。
階段を上り、放鳥部屋に入る。
赤いくちばしの一羽が真っ先に肩へ飛んできた。
すぐに青いボタンも飛んでくる。

「ただいま。」

円は前を向いたまま、親指と人差し指で挟んだ蕎麦の実を差し出す。
ボタンインコたちは、慣れた様子で、それを器用にくわえた。
乾いた殻が畳へ落ちる。
小さな音だけが部屋へ残る。

ベランダには、カラスが待っていた。
円はカーテンを閉め、窓を少しだけ開ける。

「今日は煮干し。」

出汁を取ったあとの煮干しを差し出すと、カラスはひと息で咥えた。
一度だけ喉を鳴らし、首を傾げる。

「また明日。」

カラスは羽を一度だけ揺らし、夕暮れの空へ飛んでいった。

夕飯は焼いた鯵と、豆腐の味噌汁、ご飯だった。
食器を流しへ運ぶと、仏壇の前へ座る。
線香へ火を点ける。
鈴を一つ鳴らし、静かに読経を始めた。
家の中から音が消える。
読経の終わりが近づくころ、洗面所の鏡がゆっくり藍色へ沈んでいく。
鏡面は、銀色から水へ墨を落としたような深い青へ変わった。

鏡の向こうに、部屋が見える。
カイギデルはベッドへ横になったまま眠っていた。
しばらくすると、小さく身じろぎする。
ゆっくり起き上がり、棚の壺からコーヒー豆を取り出した。
ショリ、ショリ、と静かな音。
豆を挽く音だけが、鏡を越えて届く。
やがて湯を注ぐ気配がして、深く焙煎したコーヒーの香りが部屋へ流れてきた。
円は思わず笑う。

「今日も飲むの。」

『飲む。』

「何杯目?」

『一杯目。』

円も台所へ立った。
戸棚からインスタントコーヒーを取り出す。
マグカップへ粉を落とし、電気ポットから湯を注ぐ。
立ち上る香りは、鏡の向こうほど深くはない。
それでも、同じ時間にコーヒーを飲むことだけは、いつの間にか習慣になっていた。
別々の部屋で、同じ香りを吸う。
それだけで十分だった。

翌朝。
畳の上に、黒い豆が一粒落ちていた。
円は摘み上げる。
コーヒー豆だった。
香りを確かめ、机の上へ置く。
気にも留めなかった。
今度は三粒。
小さな皿を出して、その中へ入れた。
三日目は四粒。
四日目は三粒。
毎朝少しずつ増えていく。
夜になると鏡は藍色へ沈み、カイギデルはいつものようにコーヒー豆を挽く。
ショリ、ショリ。
その音を聞いていると、
畳の上で、小さく何かが跳ねた。
カサリ。
また一粒、転がっている。

「また落とした。」

『落としていない。』

「落ちてきた。」

少し黙ってから、

『……境界だ。』

「雑なんだよ。」

『違う。』

円は笑う。
それ以上は言わなかった。
毎朝、豆を拾う。
小皿がいっぱいになると、小さなガラス瓶へ移した。

一か月ほど経った休日の朝。
瓶の底を覗くと、ようやく一杯分になっていた。
円は棚の奥から手回しのコーヒーミルを取り出す。
豆を入れ、ゆっくりと挽く。
ショリ、ショリ。
今度は自分の手で鳴らす音だった。
挽きたての香りが部屋いっぱいへ広がる。
毎晩、鏡の向こうから届いていた香りだった。
丁寧に湯を落とす。
黒い雫がゆっくりと満ちていく。
一口飲む。
円はしばらく黙っていた。

「……うまい。」

鏡の向こうでも、カイギデルがコーヒーを飲んでいた。
少しして、小さく言う。

『返せ。』

円は笑う。

「境界を越えたんだから、うちの豆だ。」

カイギデルは何も言わなかった。

翌朝。
畳の上には、また三粒のコーヒー豆が転がっていた。
円は黙って拾い上げる。
ガラス瓶へ落とす。
小さく乾いた音が鳴る。
鏡の向こうでは、今日もショリ、ショリ、とコーヒー豆を挽く音がしていた。

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