夕方の商店街には、買い物帰りの人がぽつぽつ歩いている。
八百屋は売れ残った野菜を店の奥へ運んでいる。
魚屋は電柱をひと目見上げ、店先の氷を流す。
白く濁った水が側溝を伝い、商店街の端へ消えていく。
カラスは飛び降りようとはせず、一匹だけ残った六百五十円のカツオを見つめ続けている。
店先から漏れる明かりを背に、買い物袋を提げた人々の影が、まばらな通りに長く伸びては消えていく。
人々に交じって歩く真壁円の影も、家へ向かって伸びていく。
門先まで来るころには、それは足元へと静かに戻っていた。
円は玄関の鍵を開ける。
戸口の明かりに触れ、影は身体の輪郭へ収まる。
靴を脱ぎ、居間の引き戸を開ける。
階段を上り、放鳥部屋に入る。
赤いくちばしの一羽が真っ先に肩へ飛んできた。
すぐに青いボタンも飛んでくる。
「ただいま。」
円は前を向いたまま、親指と人差し指で挟んだ蕎麦の実を差し出す。
ボタンインコたちは、慣れた様子で、それを器用にくわえた。
乾いた殻が畳へ落ちる。
小さな音だけが部屋へ残る。
ベランダには、カラスが待っていた。
円はカーテンを閉め、窓を少しだけ開ける。
「今日は煮干し。」
出汁を取ったあとの煮干しを差し出すと、カラスはひと息で咥えた。
一度だけ喉を鳴らし、首を傾げる。
「また明日。」
カラスは羽を一度だけ揺らし、夕暮れの空へ飛んでいった。
夕飯は焼いた鯵と、豆腐の味噌汁、ご飯だった。
食器を流しへ運ぶと、仏壇の前へ座る。
線香へ火を点ける。
鈴を一つ鳴らし、静かに読経を始めた。
家の中から音が消える。
読経の終わりが近づくころ、洗面所の鏡がゆっくり藍色へ沈んでいく。
鏡面は、銀色から水へ墨を落としたような深い青へ変わった。
鏡の向こうに、部屋が見える。
カイギデルはベッドへ横になったまま眠っていた。
しばらくすると、小さく身じろぎする。
ゆっくり起き上がり、棚の壺からコーヒー豆を取り出した。
ショリ、ショリ、と静かな音。
豆を挽く音だけが、鏡を越えて届く。
やがて湯を注ぐ気配がして、深く焙煎したコーヒーの香りが部屋へ流れてきた。
円は思わず笑う。
「今日も飲むの。」
『飲む。』
「何杯目?」
『一杯目。』
円も台所へ立った。
戸棚からインスタントコーヒーを取り出す。
マグカップへ粉を落とし、電気ポットから湯を注ぐ。
立ち上る香りは、鏡の向こうほど深くはない。
それでも、同じ時間にコーヒーを飲むことだけは、いつの間にか習慣になっていた。
別々の部屋で、同じ香りを吸う。
それだけで十分だった。
翌朝。
畳の上に、黒い豆が一粒落ちていた。
円は摘み上げる。
コーヒー豆だった。
香りを確かめ、机の上へ置く。
気にも留めなかった。
今度は三粒。
小さな皿を出して、その中へ入れた。
三日目は四粒。
四日目は三粒。
毎朝少しずつ増えていく。
夜になると鏡は藍色へ沈み、カイギデルはいつものようにコーヒー豆を挽く。
ショリ、ショリ。
その音を聞いていると、
畳の上で、小さく何かが跳ねた。
カサリ。
また一粒、転がっている。
「また落とした。」
『落としていない。』
「落ちてきた。」
少し黙ってから、
『……境界だ。』
「雑なんだよ。」
『違う。』
円は笑う。
それ以上は言わなかった。
毎朝、豆を拾う。
小皿がいっぱいになると、小さなガラス瓶へ移した。
一か月ほど経った休日の朝。
瓶の底を覗くと、ようやく一杯分になっていた。
円は棚の奥から手回しのコーヒーミルを取り出す。
豆を入れ、ゆっくりと挽く。
ショリ、ショリ。
今度は自分の手で鳴らす音だった。
挽きたての香りが部屋いっぱいへ広がる。
毎晩、鏡の向こうから届いていた香りだった。
丁寧に湯を落とす。
黒い雫がゆっくりと満ちていく。
一口飲む。
円はしばらく黙っていた。
「……うまい。」
鏡の向こうでも、カイギデルがコーヒーを飲んでいた。
少しして、小さく言う。
『返せ。』
円は笑う。
「境界を越えたんだから、うちの豆だ。」
カイギデルは何も言わなかった。
翌朝。
畳の上には、また三粒のコーヒー豆が転がっていた。
円は黙って拾い上げる。
ガラス瓶へ落とす。
小さく乾いた音が鳴る。
鏡の向こうでは、今日もショリ、ショリ、とコーヒー豆を挽く音がしていた。