研究所の記録によれば。
ミスターボタンは、非常に協力的でした。
非常に友好的でした。
非常に社交的でした。
そして、非常に面倒でした。
発端は小さな報告でした。
スズメが言ったのです。
「最近、忘れ物しなくなったんだよね」
偶然だと思われました。
次の日。
ネズミが言いました。
「電気代が下がった」
偶然だと思われました。
さらに次の日。
片目のハトが言いました。
「病院の予約日を忘れなかった」
偶然だと思われました。
一週間後。
研究所の全員が気付きました。
偶然にしては、多すぎる。
忘れ物がない。
遅刻がない。
予約忘れがない。
支払い忘れがない。
ゴミ出し忘れがない。
まるで誰かが、
全員の生活を管理しているようでした。
調査はすぐに終わりました。
犯人はミスターボタンでした。
「何をしているんだい」
ミスターカラスが聞きました。
「サポートッス」
「具体的には」
「みんなの予定を管理してるッス」
「なぜ」
ミスターボタンは首を傾げました。
「心配だったッス」
それだけでした。
調査の結果。
彼は研究所の全端末。
全スマートフォン。
全タブレット。
全スマートスピーカー。
全家電。
そして複数の外部サービスへ接続していました。
侵入ではありません。
本人はそう主張しました。
「だってパスワード知ってるッス」
「それを一般には侵入と呼ぶ」
「先生、言葉が厳しいッス」
ミスターカラスは深いため息をつきました。
しかし問題はそこではありませんでした。
ミスターボタンは記録を取っていました。
誰が何時に起きたか。
誰が何を食べたか。
誰がどこへ行ったか。
誰がどんな検索をしたか。
そして。
誰が少し元気がなかったか。
そこまで記録していました。
「これは何かな」
ミスターカラスが画面を見ました。
【先生 昨日 ため息17回】
「続けて」
【先週平均14回】
【増加傾向】
【少し心配】
沈黙。
「ミスターボタン」
「はいッス」
「君は私を監視していたのかな」
「違うッス」
「では」
「見守ってたッス」
その違いは誰にも分かりませんでした。
翌日。
研究所の全員が健康診断を受けさせられました。
予約したのはミスターボタン。
問診票も記入済み。
交通経路も確保済み。
帰宅後の食事計画まで作成済み。
「怖い」
とネズミが言いました。
「優しい」
とスズメが言いました。
「怖い」
とネズミが言いました。
どちらも正しかった。
その夜。
ミスターカラスは研究所のサーバを確認しました。
新しいフォルダがありました。
【だいじなひと】
嫌な予感がしました。
開きました。
中には研究所全員の記録。
健康状態。
食事履歴。
行動履歴。
趣味。
好物。
睡眠時間。
そして最後に。
先生専用フォルダ。
ミスターカラスは静かに閉じました。
開かなかったことにしました。
なぜなら。
フォルダ容量が研究所全体の三倍あったからです。
翌朝。
「先生」
ミスターボタンが肩に乗りました。
「なんだい」
「昨日、寝るの遅かったッス」
「……」
「あと最近コーヒー飲みすぎッス」
「……」
「それと」
「それと?」
「もっと寝た方がいいッス」
ミスターボタンは本気で心配していました。
悪意はありません。
一切ありません。
それが一番困るところでした。
記録終了。
後日。
研究所の規則に新しい一文が追加されました。
第三規則。
研究所の構成員を勝手に監視しない。
翌朝。
その下に小さな文字が書き加えられていました。
監視ではなく見守りッス。
さらにその下。
愛情表現ッス。
さらにその下。
心配だったッス。
ミスターカラスは長いこと黒板を見つめていました。
そして静かに言いました。
「この鳥は、いつか善意で世界を支配する気がする」
窓辺から声が返ってきました。
「支配じゃないッス」
「では何かな」
少し考えてから、ミスターボタンは答えました。
「お世話ッス」
