二十二時前、老舗のカツ丼屋を出る。暖簾の隙間から漏れていた橙色の灯りが背中で細く揺れ、
引き戸が閉まる音だけが、妙に遠くへ響いた。
世界は静かに軋んでいる。
夜気はぬるく、湿ったアスファルトは昼間の熱をまだ抱えていた。
駐車場の端に残った水たまりに、街灯の光が滲む。
その水面の奥で、炎のような瞳がゆっくり揺れていた。
依代は気づかない。
腹いっぱいになった満足感に負けて、大きなあくびをする。
肩を回し、コンビニの袋をぶら下げたまま歩き出す。
その背後で、Chaigidelが蛇の影をほどく。
影は地面に染みた黒ではなく、生き物みたいに粘り、細く伸び、幾重にも分かれて夜へ溶けていった。
濡れた駐車場に落ちた影だけが、水面の炎を見返している。
依代は振り返らない。
依代は十七時きっかりに仕事場を抜け出し、自宅へ戻った。
古い平屋の玄関を開ける。
湿った木の匂い。
夕方の空気。
靴を脱ぎ、台所へ続く引き戸を開けた瞬間、待ち構えていたボタンインコたちがぱたぱたと飛び立った。
左右の肩へ、ほとんど同時に降りてくる。
「ただいま」
依代が言うと、黄色い方が甲高く鳴き、青い方は耳たぶを甘噛みした。
留守番のご褒美として、蕎麦の実を指で挟んで手渡す。
ボタンインコたちは、器用にそれをつかんで皮を剥いて食べる。
ベランダの物干し竿には、カラスが一羽留まっていた。
黒い嘴を傾け、インコたちと親しげにさえずっている。
妙に馴染んだ光景だった。
依代は慣れた手つきでカーテンを閉め、ボタンインコが外へ出ないよう窓を半分だけ開ける。
そこから腕を伸ばし、出汁を取った後の煮干しをひとつかみ、カラスへ差し向けた。
カラスは首を伸ばして、それをついばむ。
ぱきり、と小さな音がした。
その横顔を見ながら、依代はぼんやり思う。
この家には、人間より先に棲んでいるものがいる。
この家を貸しているのは、虹の蛇を祀る家系の家主だった。
古い土地だ。
井戸を埋めるな、庭石を動かすな、北向きの鏡を覆うな――そんな決まりだけが、契約書より丁寧に語られた。
Chaigidelの部屋は、鏡の向こうにある。
依代は、その説明を最初から疑わなかった。
疑わない方が自然だった。
夜。
依代は仏壇の前に座り、低く読経している。
線香の煙がまっすぐ立ちのぼる。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の唸りも、外を走る車の音も、今夜は妙に遠い。
洗面所の鏡だけが、
ゆっくり藍色へ沈んでいく。
水に墨を落としたみたいに、銀色だった表面が深く暗く変わる。
鏡の奥に、薄暗い部屋。
窓はない。
熱帯魚の水槽みたいな青い光だけが、壁をゆらゆら撫でている。
床には脱ぎ散らかされた蛇皮。
乾いた鱗が薄く反射し、パステルカラーの毛布が乱雑に盛り上がっている。
Chaigidelはベッドに突っ伏して寝ていた。
長い黒髪が垂れ、肩甲骨のあたりに微かな鱗の光沢が浮く。
寝息は静かだが、ときどき毛布の下で何か長いものが蠢く。
依代は読経を止めない。
鏡越しに、その寝姿をただ確認する。
生存確認みたいに。
Chaigidelは、人よりずっと短い間隔で眠り、目覚める。
数時間起きて、数時間眠る。
それを昼夜なく繰り返す。
起きるたび、壺からコーヒー豆を取り出している。
ショリショリ、と豆を挽く音が鏡の向こうから聞こえる。
静かな部屋で、その音だけが妙に鮮明だった。
やがて、湯の落ちる音。
深く苦い香り。
ドリップされたコーヒーの匂いが鏡を越えて漂ってくる。
依代は読経を終え、少しだけ肩の力を抜く。
それから台所へ立ち、インスタントコーヒーの瓶を開けた。
スプーンで粉を掬い、マグカップへ落とす。
湯を注ぐ。
安っぽい香りが立つ。
鏡の向こうの本物には遠く及ばない。
それでも依代は、その匂いを吸い込みながら小さく息をついた。
向こうの世界と、
こちらの世界が、
夜ごとコーヒーの香りだけで繋がっている気がした。

