現代では、価値は数字で測定される。
役に立つか。
正しいか。
拡散されるか。
利益になるか。
それが価値の条件として扱われている。
だが、そのどれにも回収されないものがある。
人が、抗えず振り向いてしまうものだ。
説明ではない。
説得でもない。
もっと重力に近い何か。
人は普段、肩書きや役割という偽名を背負って生きている。
社会の中で機能するための名前。
壊れないための名前。
しかし稀に、
自分でも知らなかった名前を呼ばれる瞬間がある。
その時だけ、人は理性ではなく存在ごと振り向く。
私は、その瞬間にしか発生しない価値があると思っている。
だからこれは、マーケティングではない。
承認を集めるための発信でもない。
共感を増幅するための装置でもない。
むしろ逆だ。
届く保証のないものを、
虚空へ向かって放っている。
誰に届くのかは分からない。
理解されるかも分からない。
意味があるのかさえ保証されない。
それでも撃つ。
そして言葉は、
必要な重力圏へ勝手に落ちていく。
現代人は孤独なのではない。
それぞれ別の穴倉にいる。
別々の重力井戸に沈み、
別々の夜を見ている。
だが稀に、
言葉や翻訳や技術が、
その穴倉同士を接続する。
技術は知性ではない。
弾道補正装置だ。
主体は、あくまで生身の人間に残されている。
コーヒーの匂い。
紙の重み。
老いていく肉体。
食卓。
住処。
震える声。
言葉は、
そこへ貫通しなければならない。
観念だけでは足りない。
詩が現実へ変換されるところまで、
見届けなければならない。
たぶんこれは文学ではない。
生存実験に近い。
若さの万能感も、
世界が良くなっていくという確信も、
もう遠い。
崩壊は静かに進み、
国も、人も、身体も老いていく。
だからこそ、
最後まで残る引力だけを信じたい。
これは誰かを救うための言葉ではない。
世界の隙間へ向けた、
呼び声である。
