朝の茶処「円相」は、婆さんたちの声から始まる。
「五十円が足りんよ。」
「昨日も足りんかったろ。」
「昨日は十円。」
「じゃあ今日は五十円。」
「増えとるねえ。」
「増えとる、増えとる。」
何がおかしいのか、三人そろって笑った。
古い町家をそのまま使った店の奥で、炉に据えられた茶釜が静かに湯を沸かしている。
煤に覆われた鉄肌は黒く、ところどころ鈍い艶がある。
いつからそこにあるのか。
婆さんたちも知らない。
ただ、自分たちが店へ立つようになるよりずっと前から、そこにあった。
「店主さん、五十円ないよ。」
一人が奥へ声をかける。
返事はない。
「聞いとる?」
しばらくして。
……カン。
茶釜の蓋が、小さく鳴った。
「あいよ。」
婆さんは満足そうに頷いた。
何が「あいよ」なのかは、誰にも分からない。
だが本人には分かっているらしい。
そのまま何事もなかったように暖簾を出した。
昼前になると、店はいつもの客で埋まった。
買い物帰りの婆さん。
仕事の途中らしい男。
散歩ついでに寄った夫婦。
学校帰りの子ども。
観光客らしい若い二人は、季節限定と書かれた抹茶パフェを見つけて、嬉しそうに写真を撮っている。
「ほら、溶けるよ。」
「待って、もう一枚。」
「写真より食べなさいよ。」
横から婆さんが口を挟む。
二人が笑った。
店の奥では、茶釜が変わらず湯を沸かしている。
客が増えても。
笑い声が大きくなっても。
誰も茶釜を気にしない。
ただ、湯だけは切れなかった。
午後になって、裏口から真壁円が入ってきた。
「こんにちは。」
「円ちゃん、いいところに来た。」
「五十円でしょう。」
「なんで分かったの。」
円は小さな紙袋を持ち上げた。
中で硬貨が鳴る。
「昨日、聞きましたから。」
「誰に。」
円は店の奥を見た。
「店主さんに。」
婆さんたちもつられて奥を見る。
そこにいるのは古い茶釜だけだった。
「そうだったかね。」
「そうですよ。」
「なら、そうなんだろうねえ。」
話はそれで終わった。
円は慣れた手つきで帳場を開け、五十円玉を補充する。
千円札も少ない。
そちらも足した。
次に棚を見る。
「紙袋、あと一束です。」
「もうそんなに使った?」
「昨日、団体さん来たからねえ。」
「ナプキンも少ないですよ。」
「洗剤は?」
「あります。」
「じゃあ紙袋とナプキン。」
「分かりました。」
円がメモを取る。
その背後で、
……カン。
と鳴った。
円が振り返る。
茶釜の口から細い湯気が伸びている。
その先には、棚の隅に置かれた未開封の紙袋が一束あった。
「あ。」
婆さんが手を叩く。
「まだあった。」
「ありましたね。」
円はメモから紙袋を消した。
「店主さん、ありがとうございます。」
……カン。
「はいはい、分かりました。」
「何て?」
婆さんが尋ねる。
「別に。」
円は紙袋を棚へ戻した。
「そこにあるって教えただけです。」
「便利だねえ、店主さん。」
「便利扱いすると怒りますよ。」
「怒るの?」
「たぶん。」
奥からは何も聞こえなかった。
「怒っとらんよ。」
「みたいですね。」
また皆で笑った。
夕方になると、客足が少し落ち着いた。
婆さんの一人が、円へ湯呑みを差し出す。
「休みな。」
「ありがとうございます。」
「今日は手伝いじゃないんだろ。」
「そのつもりだったんですけど。」
「来たら働いとるじゃないか。」
「いつものことです。」
円は店の隅へ腰を下ろした。
そこへ、常連の老婦人がやってきた。
「円ちゃん。」
「はい。」
「前から聞こうと思っとったんだけどね。」
老婦人は声を少し落とした。
「なんで、あれを店主さんって呼ぶの。」
視線の先には茶釜がある。
円もそちらを見た。
「店主さんだからです。」
「それは聞いとる。」
「はい。」
「そうじゃなくて。」
老婦人は笑った。
「なんで店主さんなの。」
円は湯呑みを持ったまま少し考えた。
「そうですね。」
答えようとしたところで、別の婆さんが口を挟んだ。
「一番早く店におるからじゃない?」
「ずっとおるだけじゃろ。」
「最後までおるよ。」
「そりゃ釜だからねえ。」
「じゃあ店主でいいじゃないか。」
「そういうもんかね。」
「そういうもんだよ。」
勝手に話がまとまった。
円は何も言わず、茶を飲んだ。
それでいいような気がした。
日が暮れる。
暖簾が下ろされ、婆さんたちが一人ずつ帰っていく。
「店主さん、お先に。」
「明日も頼むよ。」
「円ちゃん、戸締まりよろしくね。」
「はい。」
最後の一人が出ていくと、店は急に静かになった。
円は帳場へ戻った。
昼間の売上を確認し、伝票を揃える。
それから引き出しを一つ開けた。
中には、人間の客が使う硬貨や紙幣とは別に、小さな包みがいくつか置かれていた。
白い羽根。
水に磨かれた黒い石。
穴の開いた古い銭。
細く編まれた山葡萄の蔓。
値札はない。
円は白い羽根を手に取った。
「これは、風の道の方ですね。」
茶釜から湯気が一本上がる。
「黒い石は川。」
……カン。
「こっちの古銭は、いつのです?」
沈黙。
「それは教えてくれないんですね。」
円は笑った。
怪異の客は、人間の金を持っているとは限らない。
代わりに、自分にとって価値のあるものを置いていく。
山のものは山のものを。
川のものは川のものを。
古いものは、古いものを。
円はそれを一つずつ包み直した。
石なら石を探している人のところへ。
古銭なら古銭を集めている人のところへ。
羽根には羽根なりの行き先がある。
そうして人の世界で使える金に替われば、紙袋になり、洗剤になり、新しい茶筅になる。
円は黒い石を包みながら言った。
「今度、持っていきます。」
……カン。
それだけで話は終わった。
次に円は冷蔵庫を確認した。
温度。
問題なし。
水出し茶。
問題なし。
容器を持ち上げる。
「あ。」
底近くに、細いひびが走っている。
「これは替えましょう。」
返事はない。
「漏れてからじゃ遅いですよ。」
……カン。
「そうしてください。」
円はメモへ書き足した。
水出し容器。
茶筅。
ナプキン。
それから少し考えて、
「婆さんたちの朱肉もですね。」
奥で蓋が鳴った。
……カン。
「見てました?」
もう一度。
……カン。
「やっぱり。」
円は笑った。
ふと、昔のことを思い出した。
まだ小学生だった頃。
学校からの帰り道、この店へ迷い込んだことがある。
店はもう閉まっていた。
誰もいないと思った。
なのに裏口が少しだけ開いていた。
中へ入ると、棚の端に置かれていた茶缶が、ころりと床へ落ちた。
円は拾った。
どこへ戻せばいいのか分からない。
棚を見る。
一か所だけ、丸く埃のない場所があった。
「ここですか。」
そこへ置いた。
……カン。
音がした。
円は奥を見た。
古い茶釜があった。
それだけだった。
怖いとは思わなかった。
「そうですね。」
なぜそう答えたのか、自分でも覚えていない。
それから、ときどき店へ来るようになった。
足りないものがあれば補った。
落ちているものがあれば拾った。
分からないことがあれば聞いた。
答えがなければ、それ以上は聞かなかった。
茶釜から頼まれたことは一度もない。
円も、
「手伝わせてください。」
と言ったことはない。
気づけば、そういう付き合いになっていた。
帳場の灯りを消す。
円は風呂敷を肩へ掛けた。
「では、店主さん。」
戸口まで行ってから、振り返る。
古い茶釜は、いつもと同じ場所にいる。
昼間、誰も気に留めなかった茶釜。
客へ頭を下げることもない。
帳場へ立つこともない。
役所へ行くこともない。
紙袋を買いに行くこともできない。
それでも円は、その釜を店主さんと呼ぶ。
理由を尋ねられれば、たぶん明日も同じように答えるだろう。
店主さんだからです、と。
「おやすみなさい。」
少し間を置いて。
……カン。
円は裏口を閉めた。
誰もいなくなった店で、古い茶釜は静かに湯を沸かし続けていた。
