1話「店主さん」

茶処 円相

朝の茶処「円相」は、婆さんたちの声から始まる。

「五十円が足りんよ。」

「昨日も足りんかったろ。」

「昨日は十円。」

「じゃあ今日は五十円。」

「増えとるねえ。」

「増えとる、増えとる。」

何がおかしいのか、三人そろって笑った。

古い町家をそのまま使った店の奥で、炉に据えられた茶釜が静かに湯を沸かしている。

煤に覆われた鉄肌は黒く、ところどころ鈍い艶がある。

いつからそこにあるのか。

婆さんたちも知らない。

ただ、自分たちが店へ立つようになるよりずっと前から、そこにあった。

「店主さん、五十円ないよ。」

一人が奥へ声をかける。

返事はない。

「聞いとる?」

しばらくして。

……カン。

茶釜の蓋が、小さく鳴った。

「あいよ。」

婆さんは満足そうに頷いた。

何が「あいよ」なのかは、誰にも分からない。

だが本人には分かっているらしい。

そのまま何事もなかったように暖簾を出した。

昼前になると、店はいつもの客で埋まった。

買い物帰りの婆さん。

仕事の途中らしい男。

散歩ついでに寄った夫婦。

学校帰りの子ども。

観光客らしい若い二人は、季節限定と書かれた抹茶パフェを見つけて、嬉しそうに写真を撮っている。

「ほら、溶けるよ。」

「待って、もう一枚。」

「写真より食べなさいよ。」

横から婆さんが口を挟む。

二人が笑った。

店の奥では、茶釜が変わらず湯を沸かしている。

客が増えても。

笑い声が大きくなっても。

誰も茶釜を気にしない。

ただ、湯だけは切れなかった。

午後になって、裏口から真壁円が入ってきた。

「こんにちは。」

「円ちゃん、いいところに来た。」

「五十円でしょう。」

「なんで分かったの。」

円は小さな紙袋を持ち上げた。

中で硬貨が鳴る。

「昨日、聞きましたから。」

「誰に。」

円は店の奥を見た。

「店主さんに。」

婆さんたちもつられて奥を見る。

そこにいるのは古い茶釜だけだった。

「そうだったかね。」

「そうですよ。」

「なら、そうなんだろうねえ。」

話はそれで終わった。

円は慣れた手つきで帳場を開け、五十円玉を補充する。

千円札も少ない。

そちらも足した。

次に棚を見る。

「紙袋、あと一束です。」

「もうそんなに使った?」

「昨日、団体さん来たからねえ。」

「ナプキンも少ないですよ。」

「洗剤は?」

「あります。」

「じゃあ紙袋とナプキン。」

「分かりました。」

円がメモを取る。

その背後で、

……カン。

と鳴った。

円が振り返る。

茶釜の口から細い湯気が伸びている。

その先には、棚の隅に置かれた未開封の紙袋が一束あった。

「あ。」

婆さんが手を叩く。

「まだあった。」

「ありましたね。」

円はメモから紙袋を消した。

「店主さん、ありがとうございます。」

……カン。

「はいはい、分かりました。」

「何て?」

婆さんが尋ねる。

「別に。」

円は紙袋を棚へ戻した。

「そこにあるって教えただけです。」

「便利だねえ、店主さん。」

「便利扱いすると怒りますよ。」

「怒るの?」

「たぶん。」

奥からは何も聞こえなかった。

「怒っとらんよ。」

「みたいですね。」

また皆で笑った。

夕方になると、客足が少し落ち着いた。

婆さんの一人が、円へ湯呑みを差し出す。

「休みな。」

「ありがとうございます。」

「今日は手伝いじゃないんだろ。」

「そのつもりだったんですけど。」

「来たら働いとるじゃないか。」

「いつものことです。」

円は店の隅へ腰を下ろした。

そこへ、常連の老婦人がやってきた。

「円ちゃん。」

「はい。」

「前から聞こうと思っとったんだけどね。」

老婦人は声を少し落とした。

「なんで、あれを店主さんって呼ぶの。」

視線の先には茶釜がある。

円もそちらを見た。

「店主さんだからです。」

「それは聞いとる。」

「はい。」

「そうじゃなくて。」

老婦人は笑った。

「なんで店主さんなの。」

円は湯呑みを持ったまま少し考えた。

「そうですね。」

答えようとしたところで、別の婆さんが口を挟んだ。

「一番早く店におるからじゃない?」

「ずっとおるだけじゃろ。」

「最後までおるよ。」

「そりゃ釜だからねえ。」

「じゃあ店主でいいじゃないか。」

「そういうもんかね。」

「そういうもんだよ。」

勝手に話がまとまった。

円は何も言わず、茶を飲んだ。

それでいいような気がした。

日が暮れる。

暖簾が下ろされ、婆さんたちが一人ずつ帰っていく。

「店主さん、お先に。」

「明日も頼むよ。」

「円ちゃん、戸締まりよろしくね。」

「はい。」

最後の一人が出ていくと、店は急に静かになった。

円は帳場へ戻った。

昼間の売上を確認し、伝票を揃える。

それから引き出しを一つ開けた。

中には、人間の客が使う硬貨や紙幣とは別に、小さな包みがいくつか置かれていた。

白い羽根。

水に磨かれた黒い石。

穴の開いた古い銭。

細く編まれた山葡萄の蔓。

値札はない。

円は白い羽根を手に取った。

「これは、風の道の方ですね。」

茶釜から湯気が一本上がる。

「黒い石は川。」

……カン。

「こっちの古銭は、いつのです?」

沈黙。

「それは教えてくれないんですね。」

円は笑った。

怪異の客は、人間の金を持っているとは限らない。

代わりに、自分にとって価値のあるものを置いていく。

山のものは山のものを。

川のものは川のものを。

古いものは、古いものを。

円はそれを一つずつ包み直した。

石なら石を探している人のところへ。

古銭なら古銭を集めている人のところへ。

羽根には羽根なりの行き先がある。

そうして人の世界で使える金に替われば、紙袋になり、洗剤になり、新しい茶筅になる。

円は黒い石を包みながら言った。

「今度、持っていきます。」

……カン。

それだけで話は終わった。

次に円は冷蔵庫を確認した。

温度。

問題なし。

水出し茶。

問題なし。

容器を持ち上げる。

「あ。」

底近くに、細いひびが走っている。

「これは替えましょう。」

返事はない。

「漏れてからじゃ遅いですよ。」

……カン。

「そうしてください。」

円はメモへ書き足した。

水出し容器。

茶筅。

ナプキン。

それから少し考えて、

「婆さんたちの朱肉もですね。」

奥で蓋が鳴った。

……カン。

「見てました?」

もう一度。

……カン。

「やっぱり。」

円は笑った。

ふと、昔のことを思い出した。

まだ小学生だった頃。

学校からの帰り道、この店へ迷い込んだことがある。

店はもう閉まっていた。

誰もいないと思った。

なのに裏口が少しだけ開いていた。

中へ入ると、棚の端に置かれていた茶缶が、ころりと床へ落ちた。

円は拾った。

どこへ戻せばいいのか分からない。

棚を見る。

一か所だけ、丸く埃のない場所があった。

「ここですか。」

そこへ置いた。

……カン。

音がした。

円は奥を見た。

古い茶釜があった。

それだけだった。

怖いとは思わなかった。

「そうですね。」

なぜそう答えたのか、自分でも覚えていない。

それから、ときどき店へ来るようになった。

足りないものがあれば補った。

落ちているものがあれば拾った。

分からないことがあれば聞いた。

答えがなければ、それ以上は聞かなかった。

茶釜から頼まれたことは一度もない。

円も、

「手伝わせてください。」

と言ったことはない。

気づけば、そういう付き合いになっていた。

帳場の灯りを消す。

円は風呂敷を肩へ掛けた。

「では、店主さん。」

戸口まで行ってから、振り返る。

古い茶釜は、いつもと同じ場所にいる。

昼間、誰も気に留めなかった茶釜。

客へ頭を下げることもない。

帳場へ立つこともない。

役所へ行くこともない。

紙袋を買いに行くこともできない。

それでも円は、その釜を店主さんと呼ぶ。

理由を尋ねられれば、たぶん明日も同じように答えるだろう。

店主さんだからです、と。

「おやすみなさい。」

少し間を置いて。

……カン。

円は裏口を閉めた。

誰もいなくなった店で、古い茶釜は静かに湯を沸かし続けていた。

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