3話:気にしない富子

富子

真壁円が、その女を初めて見たのは、玄関だった。
午後三時を少し過ぎていた。
インターホンが鳴ったので出ると、若い女が立っていた。

白いシャツ。
黒いパンツ。
肩に小さな鞄。

テレビで見たことがある。
歌手だった。

「真壁さん?」

「はい」

「井森君に、ここへ行けって言われました」

「井森さんに?」

「はい」

女は少し考えた。

「たぶん、嫌がらせです」

円はもっともだと思った。

「どうぞ」

「いいんですか」

「井森さんの嫌がらせなら、入れた方が早いので」

女は笑った。

「富子です」

「知ってます」

「歌?」

「ラジオで」

「よかった。変な方じゃなくて」

「変な方もあるんですか」

「あります」

富子は靴を脱いだ。
冷たい麦茶を出した。
富子は半分ほど一気に飲んだ。

「おいしい」

「普通の麦茶です」

「普通のがおいしいのよ」

円はスマートフォンを見る。
井森からメッセージが来ていた。

――富子さん行くと思います。
――裏の泉見せてください。
――説明しなくて大丈夫です。

最後の一文が気になった。

「井森さん、何も説明してないんですか」

「何を?」

「泉」

富子が麦茶を置いた。

「泉があるの?」

「あります」

「見たい」

すぐに立った。

裏庭は暑かった。
古い石祠の横を通る。
草の間を抜けた先に、小さな泉がある。
見た目だけなら、大きな水溜まりにも見える。
富子は手前で止まった。

「どうしました?」

返事がない。
水面を見ている。
さっきまで普通に喋っていた顔から、表情が消えていた。

「富子さん?」

「ここ」

「はい」

「昔からある?」

「たぶん」

「どのくらい昔?」

「分かりません」

富子は近づいた。
水面を覗く。

「深い?」

「見た目よりは」

「どのくらい?」

「それ、あまり意味がないらしいです」

富子が振り返った。

「誰が言ったの」

「カイギデル」

富子の目が止まった。
ほんの一瞬だった。

「……誰?」

「カイギデルです」

「だから誰」

「地下に住んでます」

「地下?」

「鏡の向こうです」

富子は少し考えた。

「地下なのに鏡?」

「私もよく分かりません」

「そう」

それ以上は訊かなかった。
そのとき、水面が揺れた。
黒いものが浮かんだ。
長い頭。
濡れた鱗。
黒い鱗の上を、午後の光が当たる。

赤。
青。
緑。
紫。

色が流れていく。
虹蛇だった。
今日は少し大きい。

「こんにちは」

円が言った。
虹蛇は答えない。
いつものことだった。
円を見る。
それから、
富子を見る。
動かなくなった。
富子も動かなかった。

長い沈黙だった。

「……何、これ」

「虹蛇です」

「名前?」

「そう呼んでます」

「蛇なの?」

「たぶん」

「たぶん?」

「本人が言わないので」

富子は虹蛇を見たままだった。
虹蛇も富子を見ている。

「知ってる気がする」

富子が言った。
円は黙った。

「でも」

富子は眉を寄せる。

「知らない」

虹蛇が、ほんの少しだけ頭を傾けた。
富子も同じ方向へ首を傾けた。
二人とも、それに気づかなかった。

富子が手を伸ばした。
虹蛇は逃げない。
指先が黒い額へ近づく。
そのとき、家の方から声がした。

『触るな。』

円が振り返った。

「カイギデル?」

富子も振り返る。

「今の誰?」

「カイギデルです」

「どこにいるの」

「たぶん鏡の向こう」

『今は触るな。』

今度は富子にも聞こえた。
富子の顔が変わった。
声を聞いたからではない。
その声を、知っていたからだった。

「……あなた」

返事はない。

「どこにいるの」

『中だ。』

「中ってどこよ」

『家だ。』

富子は円を見る。

「会わせて」

居間の鏡は普通だった。
円が前に立つ。

「カイギデル」

銀色の面が沈んだ。
藍色になる。
向こうに部屋が現れる。
長い黒髪の男がいた。
椅子に座って本を読んでいる。
富子が止まった。
カイギデルも顔を上げた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
富子が先に言った。

「知ってる」

『そうだろうな。』

「でも、その顔じゃない」

『そうだろうな。』

「その声は知ってる」

『ああ。』

富子が眉を寄せる。

「昔、翼があった?」

少し間があった。

『ある。』

「あった、じゃなくて?」

『ある。』

円が振り返る。

「翼あるんですか」

『ある。』

「見たことない」

『出していない。』

「しまってるんですか」

『そういうことではない。』

円には分からなかった。
富子は少し笑った。

「そういうところは変わらないのね」

カイギデルが鏡を越えてきた。

黒い服。
長い髪。
翼はない。
富子は彼を見上げた。

「イザナギ」

カイギデルは否定しなかった。
円が二人を見る。

「伊邪那岐?」

『そう呼ばれた。』

「カイギデルなのに?」

『それも俺だ。』

富子が言った。

「面倒な答え方」

『お前は変わった。』

富子の笑みが少し消えた。

「そう?」

『ああ。』

「そりゃ変わるわよ」

それだけ言った。

三人で泉へ戻った。
虹蛇はまだいた。
富子を見る。
カイギデルを見る。
カイギデルも虹蛇を見る。
その目だけが、円の知っているものと少し違った。
円は、二人はずいぶん昔から知っているのだと思った。
どのくらい昔なのかは分からない。
たぶん聞いても、よく分からない答えが返ってくる。
だから聞かなかった。

富子が水際へしゃがんだ。

「これ」

虹蛇を見る。

「私?」

『違う。』

カイギデルはすぐ答えた。
富子が振り返る。

「じゃあ何」

『虹蛇だ。』

「それは名前でしょう」

『今は、それでいい。』

「よくない」

富子は立ち上がった。

「私、伊邪那美だったのよ」

『ああ。』

「だったら、これと何の関係があるの」

カイギデルはしばらく黙った。

そして、『昔は、お前だった。』と言った。

富子が動かなくなった。
風が吹いた。
泉の上を葉が一枚流れた。

「昔って」

『人間がいなかったころだ。』

「もっとちゃんと説明して」

『今の海もなかった。』

「もっと」

カイギデルは虹蛇を見る。

『世界が一度、なくなった。』

富子の目が細くなる。

『俺たちは、別々に逃げた。』

「どこへ」

『俺は上へ。』

その言葉を聞いた瞬間、
富子の中に何かが浮かんだ。
空。
三つの影。
白い構造物。
黒い羽根。
知らない海。
富子が額を押さえる。
カイギデルは虹蛇を見る。

『こいつは下へ。』

「地下?」

『深いところへ。』

虹蛇の鱗を光が流れる。
『その身体になって。』

富子は虹蛇を見た。

「蛇になったの?」

『生きるためにな。』

「私が?」

『そのころは。』

「そのころは?」

カイギデルは少し黙った。

『長く生きた。』

「誰が」

『こいつが。』

虹蛇を見る。

『最初は覚えていた。俺を。あの場所を。自分が何だったかも。』

「それで?」

『時間が長すぎた。』

地下の水。
岩。
熱。
冷たさ。
暗闇。

富子には、その時間は見えなかった。

『そのうち、虹蛇になった。』

「忘れたから?」

『それだけではない。』

「じゃあ何」

カイギデルは答えた。

『生き残った。』

富子は黙った。

『長く生きた。』

富子は虹蛇を見る。
その言葉なら、少し分かった。
忘れたから別人になるのではない。
生きたから変わる。

「じゃあ私は?」

『お前も生きた。』

「人間として?」

『ああ。』

「何度も」

『ああ。』

富子には、
覚えている人生がある。
覚えていない人生もある。

女だった。
男だった。
母だった。
父だった。
子だった。
妻だった。
夫だった。
誰かを愛した。
嫌った。
看取った。
看取られた。
都が焼けた。
国が変わった。
言葉が変わった。
日野富子になった。

そして今は、
二十三歳だった。
歌を書いている。
ライブをする。
取材を受ける。
夜更かしする。
朝は弱い。

『お前も、長く生きた。』

カイギデルが言った。

『だから富子になった。』

「じゃあ」

富子が言った。

「どっちが伊邪那美なの?」

『どちらでもない。』

「じゃあ、伊邪那美は?」

『もういない。』

静かだった。
泉から水の音がする。

「死んだの?」

『違う。』

「じゃあ何よ」

カイギデルは虹蛇を見る。
それから富子を見る。

『生きすぎた。』

富子は、しばらく何も言わなかった。
それから小さく笑った。

「それ、私らしいわね」

円はまだ少し分からなかった。

「二人に分かれたんですか」

『違う。』

「違うの?」

『二人になった。』

「同じじゃないですか」

『違う。』

円は富子を見る。

「分かります?」

「ちょっと」

富子は虹蛇を見る。

「昔は同じだった」

「はい」

「でも、この子はこの子で、ものすごく長く生きた」

「はい」

「私も私で、ものすごく長く生きた」

「はい」

「だから、今は二人」

円は考えた。

「同級生みたいなものですか」

富子が笑った。

「だいぶ違うけど、今日はそれでいいんじゃない?」

カイギデルは何も言わなかった。

富子はもう一度、
虹蛇へ手を伸ばした。
カイギデルを見る。
今度は止めなかった。
指が、黒い額へ触れる。

一瞬だった。
黒い翼。
白い髪。
床に落ちた水。

「濡れてる」

「拭く」

「あなたが」

「なぜ俺が」

「あなたの翼でしょう」

知らない果物。
大きい方を取る黒い手。

「そっち大きい」

「同じだ」

「大きい」

「そう見えるだけだ」

海。
三つの影。
壊れる空。
つかんだ手が離れる。
響く声。

『残れ。』

富子が手を離した。
虹蛇も動かない。
二人は見つめ合った。
そこまでは、同じだった。
その先には、何もなかった。
富子には、地下の長い時間がない。
虹蛇には、富子が生きた時間がない。

応仁の乱も。
マリーとのお茶も。
ライブハウスも。
ギターも。
二十三歳の身体で朝まで録音した夜も。
同じ記憶は、遥か遠いところで終わっていた。

「こんにちは」
富子が言った。
円が富子を見る。
虹蛇も見る。

「たぶん」

富子は少し笑う。

「初めましてでいいと思う」

虹蛇は長い間、富子を見ていた。
やがて、少しだけ頭を下げた。
富子も頭を下げた。

しばらくして、富子がカイギデルを見た。

「あなたは?」

『何だ。』

「私を神に戻そうとしてたでしょう」

『ああ。』

「ずっと」

『ああ。』

「今も?」

カイギデルは答えなかった。
富子は待った。
少しして、『分からん。』と言った。
富子が笑った。

「成長したわね」

『お前に言われたくない。』

「私は成長したわよ」

『そうだな。』

富子は少し意外そうな顔をした。

「そこは否定しないのね」

『長く生きたんだろう。』

富子は虹蛇を見る。

「そうね」

今度は、その言葉が嫌ではなかった。

夕方になった。
富子は帰ることになった。
泉の前で、もう一度虹蛇を見る。

「また来てもいい?」

虹蛇は答えない。

「嫌なら来ないけど」

虹蛇が水へ沈み始めた。

富子が言う。

「どっち?」

円が答えた。

「たぶん来ていいと思います」

「真壁さんが決めるの?」

「うちなので」

「そうだった」

虹蛇の頭が水面から消える直前、富子が言った。

「今度、何か持ってくる」

虹蛇が止まった。
円が言う。

「梅干し食べます」

「梅干し?」

「好きみたいです」

「私、酸っぱいの好きよ」

富子は少し笑った。

「そこは同じなんだ」

水の中で、虹色が一度だけ揺れた。

玄関まで見送った。
富子は靴を履く。

「今日はありがとう」

「いえ」

「麦茶もおいしかった」

「普通のです」

「だからいいのよ」

扉を開ける。
外はまだ明るかった。
富子が一歩出て、振り返った。

「真壁さん」

「はい」

「あれ見ても、あんまり驚かないのね」

円は考えた。

「虹蛇ですか?」

「それも。私も。カイギデルも」

「怪しいとは思ってます」

富子が笑った。

「そうよね」

「でも、今のところ誰も困ってないので」

「そう」

富子は少し考えた。

「それ、いいわね」

「そうですか?」

「うん」

富子は帰っていった。

翌朝。
円は裏庭へ出た。
泉には虹蛇がいた。
昨日より小さい。
石祠の前にしゃがむ。

「おはよう」

返事はない。

「富子さん、また来るって」

虹蛇は動かない。

「何か持ってくるって言ってました」

水面が静かに揺れる。
円は少し考えた。

「梅干しかな」

虹蛇が顔を上げた。

「好きなんだ」

円は笑った。
泉の向こうで、朝の光が鱗に当たった。

赤。
青。
緑。
紫。

色がゆっくり流れていく。
円はしばらく見ていた。
それから、朝ごはんを食べに家へ戻った。

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