第2話:容赦のない富子

富子

富子は、井森に仕事を回していた。
最初は一件だった。
古い旅館。
次は、取り壊し予定の家。
その次が、閉鎖された診療所。
山道。
ライブハウス。
ライブハウスだけは、少し変だと思った。

「ここも?」

「富子さんが候補に入れろって言ったんですよ」

マネージャーが言った。

「あ、そう」

「忘れないでください」

「全部は覚えてられないわよ」

「僕は歌手のマネージャーなんですけど」

「知ってる」

「最近、事故物件と寺と古い土地ばっかり調べてます」

「助かってる」

「そういう意味じゃないです」

富子は紙を見る。
どれも、井森一人でどうにかできないほど難しいものではない。
たぶん。
死者を見ることはできる。
声も聞ける。
必要なら触れることもできる。
力だけなら足りている。
足りないのは、それ以外だった。
生きている人間からちゃんと話を聞くこと。
分からないことを、分からないまま調べること。
自分の判断を疑うこと。
そして、たぶん。
誰かと一緒にやること。
そこは仕事を増やせばどうにかなるのか、富子にも分からなかった。
だから、とりあえず増やした。

「今週、五件くらいでいいんじゃない?」

「多くないですか?」

「若いんだから」

「富子さんより年上ですよ」

「そうだっけ」

「そうです」

富子は少し考えた。

「じゃあ、なおさら急がないと」

「何がですか」

「いろいろ」

マネージャーは、それ以上聞かなかった。
最近、聞かない方がいいことを覚えてきたらしい。

井森から連絡が来たのは、その数日後だった。
富子は録音スタジオにいた。
三度目のテイクを終えて、休憩に入ったところだった。
廊下へ出ると、マネージャーがスマートフォンを持って待っていた。

「富子さん」

「なに?」

「井森さんから」

「何か失敗した?」

「そういう連絡ではないです」

「じゃあ何」

「今後、連絡先に一人追加してほしいそうです」

富子の手が止まった。

「一人?」

「はい」

「誰?」

「朝倉澪さん」

知らない名前だった。

「誰?」

「僕に聞かないでください」

「井森君が決めたの?」

「何をです?」

「その人と一緒にやること」

マネージャーはメッセージを確認した。

「本人からそう書いてありますけど」

「朝倉さんは?」

「はい?」

「朝倉さん本人もやるって言ったの?」

「そこまでは知りませんよ」

富子は手を出した。

「見せて」

スマートフォンを受け取る。
井森からの文章は短かった。
今後、一部の依頼について朝倉澪という人間と二人で動く。
必要なら彼女にも連絡してほしい。
それだけだった。
富子は少し考えた。

「本人に確認して」

「僕が?」

「そう」

「何て?」

「井森君に勝手に名前を使われてないか」

「そんな確認します?」

「する」

マネージャーは嫌そうな顔をした。

「富子さんがすればいいじゃないですか」

「私が電話したら面倒でしょう」

「もう十分面倒ですよ」

それでも連絡してくれた。
しばらくして返事が来た。
朝倉澪本人が引き受けている。
仕事の条件も聞いている。
住む場所についても、本人同士で決めている。
富子はそこを読み直した。

「住む場所?」

「一緒に住むらしいですよ」

「へえ」

「知ってたんじゃないんですか」

「知らない」

富子はスマートフォンを返した。

「ならいいわ」

「いいんですか?」

「本人が選んだなら」

「何の話です?」

「こっちの話」

富子は、朝倉澪について少しだけ調べた。
仕事。
年齢。
これまで住んだ場所。
それ以上はやめた。
必要なら、いずれ会う。
会わないかもしれない。
どちらでもよかった。
井森が選んだ。
朝倉澪も選んだ。
なら、それでいい。

昔は、そういうことがあまり分からなかった。
正しい場所があると思っていた。
帰るべき場所。
いるべき場所。
するべきこと。
そういうものが、最初から決まっているような気がしていた。

今は、あまりそう思わない。
帰る場所くらい、自分で決めればいい。
一度出た場所へ戻ってもいい。
戻らなくてもいい。
同じ場所へ戻ったからといって、同じことを繰り返すとも限らない。
富子自身、ずいぶん遠くまで来てしまった。
それでも今のところ、帰るつもりはなかった。

「富子さん」

「なに?」

「聞いてます?」

「聞いてる」

「次のテイクです」

「ああ」

富子は立ち上がった。

翌週。
七件になった。
古いアパート。
廃業した旅館。
橋。
個人宅。
寺の裏手。
紙を裏返す。
さらに二件。

「七件?」

「はい」

「多くない?」

マネージャーが富子を見る。

「増やせって言ったの富子さんですよ」

「そうだっけ」

「『暇にさせると逃げるから、どんどん入れて』って」

富子は少し考えた。

「ああ。言った」

「減らします?」

「減らさない」

「多いんですよね?」

「多いわね」

「じゃあ何で」

「二人になったから」

マネージャーは黙った。

「倍にするんですか?」

「そこまではしないわよ」

「安心しました」

「まだ」

「まだ?」

「何でもない」

富子は紙を返した。

「全部回して」

「全部?」

「全部」

「鬼ですか」

「違うわよ」

富子は答えた。

井森家のことを、富子は昔から知っていた。
井森本人より、ずっと前から。
千三百年ほど前。
社が一つあった。
今はもうない。
木でできた建物だった。
残っている方がおかしい。
場所だけ探して掘り返せばいいという話でもなかった。
今の時代には土地の所有者がいる。
道路がある。
建物がある。
法律もある。
勝手に他人の山を掘れば怒られる。

それ以前に。
社だけを同じ形で作り直しても、意味はなかった。
必要なのは建物ではない。
そこにあった役割だった。
人間と、人間ではないものの間に立つ。
死んだ者が残っていれば話を聞く。
行くべきところが分からないなら探す。
生きている者の側にも事情があるなら、それも聞く。
そういうことをする場所だった。
富子は、それを壊した。
事情はあった。
しかし、記憶がなかった。
自分が何者なのかも分からなかった。
だからといって、壊したものが壊れていないことにはならない。

その後を、人間たちがつないだ。
井森の祖父。
父。
その前。
もっと前。
形は少しずつ変わった。
できることも減った。
意味の分からない決まりだけが残ったこともある。
それでも、完全には途切れなかった。

そして今。
井森がいる。
力はある。
経験がない。
人付き合いは下手。
説明も下手。
自分一人で何とかしようとする。
かなり面倒だった。
富子は紙を見る。

古いアパート。
廃業した旅館。
橋。
個人宅。
寺の裏手。
経験が足りないなら、経験すればいい。
単純な話だった。

「富子さん」

「なに?」

「この井森さんって、結局何なんですか」

マネージャーが聞いた。
富子は考えた。

「昔の知り合いの子孫」

「どのくらい昔です?」

「この前」

「この前?」

「かなり前」

「どっちですか」

「人によるわね」

マネージャーが富子を見る。

富子も見返した。

「富子さん、二十三歳ですよね」

「そうよ」

「ですよね」

「何?」

「いえ」

富子は時計を見る。
そろそろ次のテイクだった。
歩きかけて、止まる。

「明日のアパート」

「はい」

「何時?」

マネージャーが予定を確認する。

「十一時です」

「十一時……」

午前はここ。
午後から別の収録。
間に少し空く。

「見に行くんですか?」

「行かないわよ」

即答した。

「井森君の仕事でしょう」

「そうですか」

「いつまでも私が行ってたら、一人でできるようにならないもの」

「今は二人らしいですけど」

富子は少し考えた。

「じゃあ、二人でできるようにならないもの」

「なるほど」

二歩歩く。
止まる。

「場所だけ送って」

マネージャーが顔を上げた。

「行かないんですよね?」

「行かない」

「じゃあ何で」

「念のため」

「何の念ですか」

「いろいろあるのよ」

赤いランプが点いた。
富子はヘッドフォンをつけた。
音が流れる。
マイクの前で息を吸う。
昔に戻って、壊す前に戻すことはできない。
謝っても、社は戻らない。
あのころの人間も戻らない。
井森の祖父も、その前の人間も、もういない。
残っているものを使うしかない。
今いる人間に頼むしかない。
できることがあるなら、やればいい。
だから仕事を入れる。
たくさん。
少々多い気もする。
二人になったから大丈夫だろう。
たぶん。
ブースの向こうから合図が来た。
富子は歌い始めた。

そのころ。
井森と朝倉澪は、電車に乗っていた。
富子は知らない。
澪が一度、実家へ帰ったことも。
父親が倒れたことも。
井森から電話が来たとき、しばらく画面を見ていたことも。
同じ家へ戻るまでに、二日考えたことも。
前と同じ鍵を持って、前と同じではないと思ったことも。
そんなことまで知る必要はなかった。
知っているのは、井森が一人では無理だと認めたこと。
朝倉澪が、自分で引き受けたこと。
二人で最初の依頼へ向かっていること。
それだけだった。
十分だった。
富子は次の歌を歌った。
井森のスマートフォンには、もう次の依頼が届いていた。
なにしろ。
送っているのは、富子だ。
容赦がない。

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