富子は、井森に仕事を回していた。
最初は一件だった。
古い旅館。
次は、取り壊し予定の家。
その次が、閉鎖された診療所。
山道。
ライブハウス。
ライブハウスだけは、少し変だと思った。
「ここも?」
「富子さんが候補に入れろって言ったんですよ」
マネージャーが言った。
「あ、そう」
「忘れないでください」
「全部は覚えてられないわよ」
「僕は歌手のマネージャーなんですけど」
「知ってる」
「最近、事故物件と寺と古い土地ばっかり調べてます」
「助かってる」
「そういう意味じゃないです」
富子は紙を見る。
どれも、井森一人でどうにかできないほど難しいものではない。
たぶん。
死者を見ることはできる。
声も聞ける。
必要なら触れることもできる。
力だけなら足りている。
足りないのは、それ以外だった。
生きている人間からちゃんと話を聞くこと。
分からないことを、分からないまま調べること。
自分の判断を疑うこと。
そして、たぶん。
誰かと一緒にやること。
そこは仕事を増やせばどうにかなるのか、富子にも分からなかった。
だから、とりあえず増やした。
「今週、五件くらいでいいんじゃない?」
「多くないですか?」
「若いんだから」
「富子さんより年上ですよ」
「そうだっけ」
「そうです」
富子は少し考えた。
「じゃあ、なおさら急がないと」
「何がですか」
「いろいろ」
マネージャーは、それ以上聞かなかった。
最近、聞かない方がいいことを覚えてきたらしい。
井森から連絡が来たのは、その数日後だった。
富子は録音スタジオにいた。
三度目のテイクを終えて、休憩に入ったところだった。
廊下へ出ると、マネージャーがスマートフォンを持って待っていた。
「富子さん」
「なに?」
「井森さんから」
「何か失敗した?」
「そういう連絡ではないです」
「じゃあ何」
「今後、連絡先に一人追加してほしいそうです」
富子の手が止まった。
「一人?」
「はい」
「誰?」
「朝倉澪さん」
知らない名前だった。
「誰?」
「僕に聞かないでください」
「井森君が決めたの?」
「何をです?」
「その人と一緒にやること」
マネージャーはメッセージを確認した。
「本人からそう書いてありますけど」
「朝倉さんは?」
「はい?」
「朝倉さん本人もやるって言ったの?」
「そこまでは知りませんよ」
富子は手を出した。
「見せて」
スマートフォンを受け取る。
井森からの文章は短かった。
今後、一部の依頼について朝倉澪という人間と二人で動く。
必要なら彼女にも連絡してほしい。
それだけだった。
富子は少し考えた。
「本人に確認して」
「僕が?」
「そう」
「何て?」
「井森君に勝手に名前を使われてないか」
「そんな確認します?」
「する」
マネージャーは嫌そうな顔をした。
「富子さんがすればいいじゃないですか」
「私が電話したら面倒でしょう」
「もう十分面倒ですよ」
それでも連絡してくれた。
しばらくして返事が来た。
朝倉澪本人が引き受けている。
仕事の条件も聞いている。
住む場所についても、本人同士で決めている。
富子はそこを読み直した。
「住む場所?」
「一緒に住むらしいですよ」
「へえ」
「知ってたんじゃないんですか」
「知らない」
富子はスマートフォンを返した。
「ならいいわ」
「いいんですか?」
「本人が選んだなら」
「何の話です?」
「こっちの話」
富子は、朝倉澪について少しだけ調べた。
仕事。
年齢。
これまで住んだ場所。
それ以上はやめた。
必要なら、いずれ会う。
会わないかもしれない。
どちらでもよかった。
井森が選んだ。
朝倉澪も選んだ。
なら、それでいい。
昔は、そういうことがあまり分からなかった。
正しい場所があると思っていた。
帰るべき場所。
いるべき場所。
するべきこと。
そういうものが、最初から決まっているような気がしていた。
今は、あまりそう思わない。
帰る場所くらい、自分で決めればいい。
一度出た場所へ戻ってもいい。
戻らなくてもいい。
同じ場所へ戻ったからといって、同じことを繰り返すとも限らない。
富子自身、ずいぶん遠くまで来てしまった。
それでも今のところ、帰るつもりはなかった。
「富子さん」
「なに?」
「聞いてます?」
「聞いてる」
「次のテイクです」
「ああ」
富子は立ち上がった。
翌週。
七件になった。
古いアパート。
廃業した旅館。
橋。
個人宅。
寺の裏手。
紙を裏返す。
さらに二件。
「七件?」
「はい」
「多くない?」
マネージャーが富子を見る。
「増やせって言ったの富子さんですよ」
「そうだっけ」
「『暇にさせると逃げるから、どんどん入れて』って」
富子は少し考えた。
「ああ。言った」
「減らします?」
「減らさない」
「多いんですよね?」
「多いわね」
「じゃあ何で」
「二人になったから」
マネージャーは黙った。
「倍にするんですか?」
「そこまではしないわよ」
「安心しました」
「まだ」
「まだ?」
「何でもない」
富子は紙を返した。
「全部回して」
「全部?」
「全部」
「鬼ですか」
「違うわよ」
富子は答えた。
井森家のことを、富子は昔から知っていた。
井森本人より、ずっと前から。
千三百年ほど前。
社が一つあった。
今はもうない。
木でできた建物だった。
残っている方がおかしい。
場所だけ探して掘り返せばいいという話でもなかった。
今の時代には土地の所有者がいる。
道路がある。
建物がある。
法律もある。
勝手に他人の山を掘れば怒られる。
それ以前に。
社だけを同じ形で作り直しても、意味はなかった。
必要なのは建物ではない。
そこにあった役割だった。
人間と、人間ではないものの間に立つ。
死んだ者が残っていれば話を聞く。
行くべきところが分からないなら探す。
生きている者の側にも事情があるなら、それも聞く。
そういうことをする場所だった。
富子は、それを壊した。
事情はあった。
しかし、記憶がなかった。
自分が何者なのかも分からなかった。
だからといって、壊したものが壊れていないことにはならない。
その後を、人間たちがつないだ。
井森の祖父。
父。
その前。
もっと前。
形は少しずつ変わった。
できることも減った。
意味の分からない決まりだけが残ったこともある。
それでも、完全には途切れなかった。
そして今。
井森がいる。
力はある。
経験がない。
人付き合いは下手。
説明も下手。
自分一人で何とかしようとする。
かなり面倒だった。
富子は紙を見る。
古いアパート。
廃業した旅館。
橋。
個人宅。
寺の裏手。
経験が足りないなら、経験すればいい。
単純な話だった。
「富子さん」
「なに?」
「この井森さんって、結局何なんですか」
マネージャーが聞いた。
富子は考えた。
「昔の知り合いの子孫」
「どのくらい昔です?」
「この前」
「この前?」
「かなり前」
「どっちですか」
「人によるわね」
マネージャーが富子を見る。
富子も見返した。
「富子さん、二十三歳ですよね」
「そうよ」
「ですよね」
「何?」
「いえ」
富子は時計を見る。
そろそろ次のテイクだった。
歩きかけて、止まる。
「明日のアパート」
「はい」
「何時?」
マネージャーが予定を確認する。
「十一時です」
「十一時……」
午前はここ。
午後から別の収録。
間に少し空く。
「見に行くんですか?」
「行かないわよ」
即答した。
「井森君の仕事でしょう」
「そうですか」
「いつまでも私が行ってたら、一人でできるようにならないもの」
「今は二人らしいですけど」
富子は少し考えた。
「じゃあ、二人でできるようにならないもの」
「なるほど」
二歩歩く。
止まる。
「場所だけ送って」
マネージャーが顔を上げた。
「行かないんですよね?」
「行かない」
「じゃあ何で」
「念のため」
「何の念ですか」
「いろいろあるのよ」
赤いランプが点いた。
富子はヘッドフォンをつけた。
音が流れる。
マイクの前で息を吸う。
昔に戻って、壊す前に戻すことはできない。
謝っても、社は戻らない。
あのころの人間も戻らない。
井森の祖父も、その前の人間も、もういない。
残っているものを使うしかない。
今いる人間に頼むしかない。
できることがあるなら、やればいい。
だから仕事を入れる。
たくさん。
少々多い気もする。
二人になったから大丈夫だろう。
たぶん。
ブースの向こうから合図が来た。
富子は歌い始めた。
そのころ。
井森と朝倉澪は、電車に乗っていた。
富子は知らない。
澪が一度、実家へ帰ったことも。
父親が倒れたことも。
井森から電話が来たとき、しばらく画面を見ていたことも。
同じ家へ戻るまでに、二日考えたことも。
前と同じ鍵を持って、前と同じではないと思ったことも。
そんなことまで知る必要はなかった。
知っているのは、井森が一人では無理だと認めたこと。
朝倉澪が、自分で引き受けたこと。
二人で最初の依頼へ向かっていること。
それだけだった。
十分だった。
富子は次の歌を歌った。
井森のスマートフォンには、もう次の依頼が届いていた。
なにしろ。
送っているのは、富子だ。
容赦がない。