「富子。そろそろ、帰って来ないか」
男は、録音ブースの外に立っていた。
春物の薄いコートに、濡れてもいない黒い傘。磨いた革靴。年齢は四十にも六十にも見えた。
受付で名を訊かれ、
「夫です」
と答えたらしい。
防音ガラスの向こうで、富子は片耳のヘッドフォンをずらした。
「今、その話する?」
「歌い終わるまで待った」
「まだ二番が残ってるの」
卓の前にいた録音技師の音羽健司が、困った顔で二人を見比べた。
富子は二十三歳だった。
十代の後半から自分で曲を書き、自分で歌っている。
最初に小さなライブハウスへ出たのが十七歳。
十八歳で出した自主制作盤が音楽関係者の耳に留まり、十九歳で正式にデビューした。
派手に売れているわけではない。
ただ、妙に耳に残る歌を書く。
そう言われることが多かった。
帰ること。
待つこと。
忘れること。
見送ること。
時間が過ぎること。
十七歳の少女が書いたにしては、大人びているのではない、妙に古びている。
十八歳の人間が歌うにしては、別れ方を知りすぎている。
取材では何度も聞かれた。
――どうして、こんな詞が書けるんですか。
そのたび富子は少し困った。
どうして、と言われても困る。
昨夜、三百年以上帰る場所を見つけられなかった死者を送ったから。
その前は、千三百年前に壊れた神社の後始末について調べていたから。
さらにその前には、フランス革命で死んだ女とお茶を飲みながら二百年前の愚痴を聞いていたから。
そんなことを言えるはずもない。
だから、「想像です」と答える。
嘘ではない。
想像もしている。
ただ、想像するときに参照する記憶が、人間一人分ではないだけだった。
音羽健司は、そんなことを知らない。
彼が知っているのは、目の前にいる二十三歳のシンガーソングライターが、年齢に似合わない歌を書くこと。
そして、その二十三歳の女の夫を名乗る、どう見ても二十三歳ではない男が突然スタジオへ現れたことだけだった。
「すみません」
音羽健司が言った。
「十分くらい休憩にします?」
「五分でいいです」
富子はブースを出た。
テーブルに置かれていた紙コップの水を取り、男へ差し出した。
「それで、今度は何?」
「迎えに来た」
「前もそう言ってたわね」
「前というのは、いつのことだ」
「大阪万博」
音羽健司が顔を上げた。
富子は気づかなかった。
「その次にも来た」
「バブルのころ?」
「そのときは、おまえが忙しいと言った」
「ツアー中だったもの」
音羽健司はもう一度、二人を見比べた。
二十三歳。
どう計算しても合わない。
富子は気にせず水を飲んだ。
男は傘の石突きを床につけた。
かすかな音がした。
スタジオの照明が、一度だけ明滅した。
「天国と地獄が、第三領域の共同回収を決めた」
富子の顔から、歌手の笑みが消えた。
「いつ」
「次の日の出」
「ずいぶん急ね」
「二千年待った」
「あなたが待ったのと、あの人たちを待たせていいのとは、別の話よ」
富子はブースへ戻った。
ヘッドフォンを両耳に当てる。
「音羽さん。二番から、もう一度」
「富子」
「明け方までには終わるわ」
「録音の話をしているのではない」
「私は録音の話をしているの」
赤いランプが点いた。
富子が歌い始める。
男――イザナギは目を閉じた。
その声を、彼は知っていた。
二十三歳の女の声としてではない。
娘の声。
母の声。
兵士の声。
遊女の声。
王妃の声。
名もない農婦の声。
芝居小屋で衣裳を縫っていた女の声。
戦争のあと、焼け跡で人を捜していた女の声。
都が焼けた夜にも。
革命広場の朝にも。
病室の午後にも。
その声は違う喉を借りて歌っていた。
今の喉は、二十三歳だった。
それだけのことだった。
そしてイザナギは、その歌が死者に届くことも知っていた。
最初は、庭ひとつだった。
首を落とされたばかりのマリー・アントワネットは、白とも闇ともつかない場所で、二つの列を見た。
右には金色の門があった。
左には地下へ降りる階段があった。
頭上で、姿の見えない役人が罪と善行を読み上げていた。
王妃であったことは罪か。
母であったことは善か。
浪費の噂は罪か。
飢えを知らなかったことは罪か。
知らされなかったことは免責になるのか。
答えが決まる前に、聞き覚えのある声がした。
「マリー、お茶に行かない?」
マリーは振り返った。
「私、死んだのだけれど」
「知ってる。だから時間はあるでしょう」
声の主を、マリーは日本から来た不思議な女として覚えていた。
宮廷人でも商人でもないのに、誰にも頭を下げない。
誰かの悪口には少しだけ笑う。
けれど肝心なところでは笑わない女。
「どこで飲むの」
「あなたの好きなところで」
マリーが、小トリアノンの庭を思った。
すると白い場所に土の匂いが生まれた。
樹々が輪郭を得た。
丸い卓と二脚の椅子が現れた。
銀のポットから湯気が立った。
天国の門番も、地獄の番人も、その庭を台帳に見つけられなかった。
二人はお茶を飲んだ。
味は記憶でできていた。
それでも、一人で思い出す味よりおいしかった。
「友人を呼んでも?」
とマリーが訊いた。
「もちろん」
友人は、かつて嫌っていた女を呼んだ。
その女は、革命で死んだ印刷工を呼んだ。
印刷工は、王妃を罵る記事を刷ったことを詫びようとはしなかったが、同じ卓についた。
やがて卓が足りなくなった。
庭は広がった。
京都の焼け野原が隣に生まれたのは、その少し前だった。
応仁の乱で死んだ足軽が、富子に言った。
「わしは、地獄だそうです」
「どうして」
「三人、斬りました」
「斬らなければ、あなたが死んだのではなくて?」
「それでも三人です」
そこへ斬られた一人が現れた。
「四人だ。こいつ、数まで誤魔化している」
「あんたは生きてたじゃないか」
「三日後に死んだ」
二人はしばらく言い争った。
富子は湯を沸かした。
欠けた椀を二つ並べた。
「まあ、座りなさい。話くらいは聞きましょう」
それだけだった。
富子は赦さなかった。
裁かなかった。
正しい場所も決めなかった。
ただ、話が終わっていない者に、話す場所を作った。
死者が話し続けると、天国の雲も地獄の炎も薄くなった。
裁きの景色は、信じているあいだだけ魂を囲う壁だった。
誰かが初めて、
「どちらにも行かない」
と言った。
すると壁の向こうに、細い路地ができた。
路地は庭につながった。
庭は焼け野原につながった。
死者が思い出を持ち寄るたび、駅や市場や海岸や、名前のない家々が増えていった。
誰も設計しなかった。
王もいない。
神もいない。
裁判官もいない。
死後も終わらなかった会話が、いつの間にか世界になった。
富子がイザナミだったことを思い出したのは、ずっと昔だった。
正確な時期を、富子自身もうまく説明できない。
神だったころの記憶は、人間の記憶とは形が違う。
昨日。
千年前。
生まれる前。
そういう順番で並んでいない。
火の神を産んだこと。
焼かれたこと。
死んだこと。
黄泉へ行ったこと。
迎えに来た夫に、変わり果てた姿を見られたこと。
恥じたこと。
怒ったこと。
追いかけたこと。
境の坂で足を滑らせたこと。
そこから先だけが、長かった。
落ちた先は黄泉でも葦原でもなかった。
境の坂で、転んだ。
本当に、ただ転んだ。
神々の呪いでもなければ、誰かに記憶を奪われたわけでもない。
夫を追いかけて黄泉比良坂を走っている途中で足を滑らせ、派手に転んだ。
そして、記憶をなくした。
後から思えば、イザナミとしての人生がそこで終わった原因としては、ずいぶん締まらない。
次に目を開けたとき、自分が誰なのか分からなかった。
イザナミという名も。
黄泉も。
夫のことも。
自分が神だったことさえも。
ただ、死んでも消えなかった。
また人間として生まれた。
一生を終えた。
また生まれた。
何度もそれを繰り返すうち、少しずつ昔の記憶が戻ってきた。
けれど長いあいだ、それが自分の記憶なのか、夢なのか、それさえ定かではなかった。
日野富子として生きたころ、ようやく過去と現在が一本につながった。
自分がかつてイザナミだったことも分かった。
それでも彼女は、もうイザナミだけではなかった。
富子だった。
富子は聖女ではなかった。
銭を集めた。
権力を欲した。
息子に執着した。
人を疑った。
人を使った。
乱世を生き延びた。
そのころ、焼けた京には死者が多すぎた。
敵も味方もいた。
誰が正しく、誰が間違っていたのか。
死者自身にも分からなくなっていた。
富子は、その声を聞いた。
聞きすぎた。
天国へ行く者。
地獄へ行く者。
どちらにも行きたくない者。
誰かを待つ者。
謝りたい者。
謝られたくない者。
忘れたい者。
忘れられたくない者。
人間は死んでも、話が終わらない。
そのことを知った。
それ以来、戸籍の名が変わっても、彼女は富子と名乗ることが増えた。
「昔から、富子でやっています」
そう言えば、たいていの人はそれ以上訊かなかった。
今の富子もそうだった。
二十三年前。
また人間として生まれた。
十七歳のころ、ギターを持った。
理由は大したものではない。
学校の帰りに友人と楽器店へ入り、触ってみたら面白かった。
曲を書いた。
最初に書いた歌には、
帰れない人を待つ女が出てきた。
二曲目には、
自分の名前を忘れた男が出てきた。
三曲目には、
百年待って、それでも待つことをやめない子どもが出てきた。
ライブハウスの店長に言われた。
「君、本当に十七?」
「はい」
「何でこんなの書くの」
富子は困った。
「……想像です」
それ以来、何度も同じ答えを使った。
十八歳のとき。
レコーディング中にディレクターが訊いた。
「この歌の別れって、恋人?」
「違います」
「家族?」
「違います」
「じゃあ誰との別れ?」
富子は考えた。
昨夜帰した、四百年前の死者を思い出した。
帰る場所がなくなっていたので、最後には自分が覚えていた海を選んだ人だった。
「……人です」
「それは分かるよ」
「ですよね」
十九歳のインタビューでは、
「あなたにとって『帰る』ってどういうことですか」
と聞かれた。
富子は五秒ほど黙った。
本気で答えようとすると長くなる。
黄泉。
天国。
地獄。
第三領域。
家。
故郷。
死。
転生。
夫。
記憶。
全部説明すると、インタビュー記事ではなくなる。
「自分で行く場所を決めることです」
とだけ答えた。
記者は、
「若いのに深いですね」
と言った。
富子は曖昧に笑った。
若い。
それは間違いではない。
この身体は若い。
人生というものは、毎回ちゃんと最初から始まる。
だから富子は、自分が二十三歳だと言われれば、
「はい」
と答える。
三千歳だと言われても、
たぶん、
「まあ、そのくらい」
と答える。
どちらも嘘ではなかった。
午前一時十三分。
録音卓のすべてのメーターが振り切れた。
富子は歌うのを止めた。
ヘッドフォンから、大勢の呼吸が聞こえた。
焼けた京の路地。
ヴェルサイユの庭。
砂漠の井戸。
名もない駅。
第三世界のあちこちで、空に亀裂が入っていた。
亀裂の向こうには、金の光と赤い火が並んでいた。
天国と地獄の回収隊だった。
白い翼と黒い翼は、同じ名簿を持っていた。
『死者は本来の配属先へ帰還してください』
穏やかな声が、世界じゅうに響いた。
『天国には安全と永続があります。地獄では罪に応じた償いが保証されます。未認可領域には、秩序も救済もありません』
第三世界の広場で、死者たちは空を見上げた。
不安は本物だった。
この世界には支配者がいない。
だから治安も赦しも、自分たちで作らなければならなかった。
古い憎しみが戦争になりかけたこともある。
誰からも思い出されず、輪郭を失った者もいた。
天国へ戻りたい者がいた。
地獄で刑を終えたい者もいた。
「止めないで」
富子は言った。
音羽健司が顔を上げた。
「え?」
富子は佐伯を見ていなかった。
イザナギが防音ガラスに手を置いていた。
ガラスの向こうに、別の空が映っている。
「全員を連れて行かれる」
「行きたい人は行けばいいでしょう」
「残る者も回収対象になる」
富子の眉が動いた。
「それは駄目ね」
「私が帰れば、回収は中止される」
「条件は?」
「おまえの人間としての記憶を消す」
富子は黙った。
「第三領域への接続も閉じる。死者は当面、そのままにする」
「当面」
「私が監督する」
富子は笑った。
「あなた、家事の約束も守れなかったのに」
「天地創造のころの話を、今するか」
「夫婦げんかは古い話ほど効くのよ」
音羽健司は動けなかった。
天地創造。
夫婦げんか。
二十三歳。
頭の中で何一つつながらない。
富子は笑うのをやめた。
帰れば静かになる。
それは分かっていた。
神に戻る。
完全になる。
一つの存在になる。
生者の声。
死者の声。
まだ生まれていない者の夢。
富子と呼ばれた人生。
富子と呼ばれなかった人生。
それらを全部、人間だったころの雑音として切り離せばいい。
疲れなくなる。
迷わなくなる。
夫のところへ帰れる。
「記憶を消したら」
富子は訊いた。
「私は、あなたを愛していたことも忘れる?」
「神であったころの愛は残る」
「人間だったころのは?」
イザナギは答えなかった。
富子は待った。
答えはなかった。
人間だったころ、富子は何度も誰かを愛した。
夫もいた。
妻もいた。
子もいた。
友もいた。
恋人もいた。
裏切ったこともある。
裏切られたこともある。
看取った。
看取られた。
名前を忘れた相手もけっこういる。
それでも、偽物だったとは思わない。
イザナギへの愛だけを本物と呼ぶには、富子は人間を知りすぎていた。
「これ」
音羽健司が言った。
「何の録音なんですか」
卓の画面には、百を超える音声波形が現れていた。
使っているマイクは一本だけだった。
それなのに、男も女も子どもも、知らない言葉で話している。
「音羽さん」
「はい」
「ちょっと変なことが起きてる」
「ちょっとですか?」
「私の基準では」
「富子さんの基準を知らないです」
「そうよね」
その中に、一つ。
音羽は知っている声を聞いた。
『味噌汁、ちゃんと作ってる?』
音羽の手が止まった。
十年前に死んだ祖母だった。
「……ばあちゃん?」
呼ぶ。
波形の一本が明るくなった。
『やっと聞こえた』
音羽は椅子から立てなかった。
訊きたいことが、いくつもあった。
死んだとき苦しかったか。
葬式はあれでよかったか。
天国にいるのか。
死んだあと、どうなったのか。
自分のことを覚えていたのか。
口から出たのは、別の言葉だった。
「味噌、多すぎた。いつも」
『あんたが薄味すぎるの』
二人は笑った。
その瞬間。
第三世界のどこかに、小さな台所が生まれた。
古い鍋。
すり減ったまな板。
湯気の向こうの朝日。
天国の回収網に、一つ穴が開いた。
富子は音羽健司を見た。
そして気づいた。
そうだった。
第三世界を作ったのは、自分ではない。
自分が死者を救ったのでもない。
別れたくなかった者。
話が終わらなかった者。
もう一度だけ聞きたかった者。
返事をしたかった者。
その会話が世界を作った。
自分は最初の中継点にすぎない。
ならば。
中継点は、一つでなくていい。
「音羽さん」
「はい」
「このトラック、外へ出せる?」
「外って」
「配信」
「配信?」
「世界中に」
イザナギが顔を上げた。
「存在を知らせれば、混乱が起きる」
「でしょうね」
「天国も地獄も、現世の秩序も崩れる」
「そうかも」
「富子」
「でも」
富子はイザナギを見る。
「秩序が正しいとは限らないでしょう」
「第三領域が正しいとも限らない」
「ええ」
富子はうなずいた。
「だから選んでもらうの」
「何を」
「天国も。地獄も。あそこも」
富子はヘッドフォンを外した。
「知ったうえで」
「神々は許可しない」
「お茶を飲むのに、神の許可が必要?」
遠い庭で、マリーが声を上げて笑った。
音羽は富子を見る。
「本当にやるんですか」
「やる」
「これ、たぶん普通の配信じゃないですよね」
「普通の配信って何」
「いや、そう言われると困りますけど」
「じゃあやろう」
「軽いなあ」
音羽健司は配信回線を開いた。
天国と地獄が同時に電力を落とした。
スタジオは暗闇に沈んだ。
音羽が叫んだ。
「落ちた!」
「録音は?」
「止まって――」
止まっていなかった。
暗闇の中で、音が続いていた。
死者の町で一人が歌った。
別の町が続きを歌った。
生者の記憶が、それに旋律を与えた。
世界中で、壊れたラジオが鳴った。
電源のない電話が震えた。
古いレコードの溝から、忘れていた名前が聞こえた。
誰もが聞いたわけではない。
聞いても、雑音だと思う者が多かった。
詐欺だと怒る者。
悪魔の声だと恐れる者。
神の奇跡だとひざまずく者。
ただのノイズとして電源を切る者。
けれど。
ほんの少しの人が返事をした。
「まだ話の途中だ」
「もう一度、聞かせて」
「ごめん」
「謝らなくていい」
「まだ怒ってる」
「知ってる」
「お茶でも飲まない?」
返事の数だけ回線が生まれた。
回線の数だけ、第三世界の空が広がった。
回収隊の金の光と赤い火は、網を張る中心を見失った。
世界はもう、富子一人につながってはいなかった。
夜明け前。
録音が終わった。
第三世界は残った。
天国も地獄も消えなかった。
帰還を選ぶ死者もいた。
門に背を向ける者もいた。
第三世界へ来たあとで、
「やっぱり天国へ行きたい」
と言う者もいた。
地獄へ戻った者さえいた。
富子は誰も止めなかった。
自由とは、正しい場所を一つ選ぶことではない。
選び直せることだ。
それを知るのに、ずいぶん時間がかかった。
二十三年ではない。
もっと長い時間だった。
スタジオの外へ出ると、雨が降っていた。
イザナギは黒い傘を開いた。
富子の側へ傾ける。
二人で歩いた。
通りの向こうが少しずつ明るくなっている。
「今回のことで、上は怒っている」
「下も?」
「もちろん」
「珍しく意見が合うのね」
「次は、勧告では済まないかもしれない」
「そう」
富子はあくびをした。
イザナギが見る。
「眠いのか」
「徹夜したもの」
「神が」
「二十三歳は眠いの」
「おまえは二十三歳ではない」
「戸籍はそうよ」
「そういう問題ではない」
「今の私は二十三歳なの」
イザナギは黙った。
富子は少し笑った。
始発前の街は静かだった。
誰のものでもない第三世界に、少し似ていた。
駅まで歩く。
改札の前で、イザナギが立ち止まった。
「富子」
「なに」
「私は、おまえに神へ戻ってほしいのではないのかもしれない」
富子は待った。
「ただ」
イザナギは言った。
「私のところへ帰ってほしい」
神が口にするには、ずいぶん小さな願いだった。
富子は傘の下で夫の顔を見た。
黄泉の入口で見た顔より、老いて見えた。
神は老いない。
そう見えるのは、たぶん彼女の記憶のせいだった。
「帰りたくないんじゃないの」
富子は言った。
「まだ、話の途中なのよ」
「いつ終わる」
「人間のおしゃべりが終わると思う?」
イザナギは長い息を吐いた。
「次は、いつ来ればいい」
「来月、新曲のミックスがあるわ」
「その次は」
「ライブ」
「その次は」
富子は考えた。
「井森君のところ」
イザナギの眉が動いた。
「またあの家か」
「まだ終わってないのよ」
「おまえが仕事を増やしているのではないのか」
「実地経験が必要なの」
「本人は知っているのか」
「知らない」
「それを人間は何と言う」
「教育」
「違うと思うが」
富子は笑った。
「その次は、マリーとお茶」
「二百年も飲んでいるではないか」
「女のお茶に終わりはないの」
始発電車がホームへ入ってきた。
扉が開く。
富子は一人で乗った。
座席に腰を下ろす。
窓の曇りを指で拭いた。
イザナギは傘を差したまま、ホームに立っていた。
二十三歳の女を、数千年待っている夫だった。
扉が閉まる直前。
富子は窓越しに言った。
「今度、あなたも来る?」
「どこへ」
「お茶」
イザナギが答える前に、扉が閉まった。
電車が動き出す。
富子は座席にもたれ、目を閉じた。
眠かった。
今日は昼過ぎまで寝よう。
夕方には取材が一本ある。
明日は別の曲の打ち合わせ。
来週はライブ。
その合間に、井森の仕事も一つ確認しなければならない。
二十三歳としては、少し忙しい。
三千年近く生きている者としては、いつものことだった。
耳の奥で、無数の声がしていた。
笑う声。
謝れない声。
許せない声。
名前を忘れた声。
帰りたい声。
帰りたくない声。
もう少しだけ待ってほしい声。
どれも清らかではない。
どれも正しくない。
そして、どれも簡単には裁ききれない。
富子は、そういう声を歌にした。
だから十七歳のころから、彼女の歌には、
帰る。
待つ。
忘れる。
見送る。
時間。
そんな言葉ばかりが出てきた。
周囲の大人たちは、それを早熟と呼んだ。
才能と呼ぶ人もいた。
想像力だと思う人もいた。
富子自身は、特に何とも思っていなかった。
昨日あったことを書く。
昔あったことを書く。
誰かから聞いたことを書く。
自分が忘れたくないことを書く。
ただ、それだけだった。
新しい声が一つ混じった。
『茶は、何を持って行けばいい』
富子は目を開けた。
少し笑った。
「手ぶらでいいわ」
乗客が一人、こちらを見た。
富子は気にしなかった。
「席は、みんなで作るから」
夜が明けた。
天国でも地獄でもない場所に、三つ目の椅子が現れた。
富子はまだ二十三歳だった。
そして。
まだ帰らない。
