7話:梅干し

境界の食卓

梅干しの瓶には、最後の二粒が残っていた。
真壁円は朝食の支度をしながら、その瓶を手に取る。
炊きたてのご飯。
味噌汁。
焼き海苔。
梅干しは弁当に入れようと思っていたが、瓶の底を見て手を止めた。

「……もう無いか。」

赤嘴のボタンインコが肩へ降りてくる。
青い方は少し遅れて、隣へ並んだ。
二羽へ蕎麦の実を渡しながら、円は小さく息を吐く。
赤嘴のボタンインコは、換羽中だ。
頭には筆毛がツンツクと立っている。
痒そうに見えるが、実際にはあまり掻かない。
今年の梅仕事を、まだ始めていなかった。
六月の終わりは、資料館の収蔵整理が続いた。
家庭菜園ではテントウムシダマシにナスの葉を食べられ、
休みの日は畑ばかり見ていた。
気づけば、七月へ入っていた。

「しまったな。」

その日は資料館へ向かう前に、商店街のスーパーへ寄った。
青果売場にはトマト、きゅうり、枝豆、とうもろこし。
夏の野菜が並んでいる。
赤紫蘇は束になって売られていた。
その隣には、もう梅がない。
円は店員へ尋ねた。

「梅、もう終わりましたか。」

「青梅は先週で終わりましたね。」

店員は少し考えてから続ける。

「完熟も、今年はもうほとんど入ってこないです。」

円は頷いた。

「ありがとうございます。」

買い物かごには豆腐と牛乳だけが入っていた。
赤紫蘇だけ残っている売場を見ながら、円は少しだけ季節へ置いていかれた気がした。

 

資料館の昼休み。

事務机でパソコンを開き、産地直送のページを眺める。
画面には、和歌山県産の南高梅、二キロと表示されていた。
送料込みの値段を見て、少しだけ考えた。
ボタンインコのご飯も買わなければならない。
無農薬の粒々だから、真壁円の米よりも単価は高い。
家庭菜園の支柱も欲しい。
それでも、注文のボタンを押した。

「今年もよろしくお願いします。」

誰へ言うでもなく、小さく呟いた。

 

夕方。
帰宅すると、ボタンインコたちが肩へ飛んできた。
ベランダにはカラスが待っている。
今日は煮干しを三本と資料館でもらった焼き芋の残りをあげた。
器用に咥え、満足そうに左右の足を交互にあげている。
夕飯は鯵の干物と冷ややっこ。
神棚へ小皿を一つ置く。
その上へ、瓶から梅干しを一粒乗せた。
読経を終える。
鈴の余韻が消えるころ、床下で長いものがゆっくり擦れる音がした。
円は神棚の小皿を持ち上げる。
縁側を回り、屋敷の裏へ出た。
屋根から落ちる雫がイモリが通る細い道を作っていて、その先に古い泉がある。
円が屋敷に住み始めた頃、泉に落ち葉が積もっていて、危うく落ちかけた。
朽木はいつしか苔衣をまとい、背の高くなった庭木に静かに溶け込んでいた。
泉の脇には、石を積んだ小さな祠。
水は静かに澄み、夕暮れの空を映していた。
円は祠の前へ小皿を置く。

「今年の分、まだ漬けてない。」

返事はない。
風だけが木々を揺らした。
しばらくすると、水面が細く波打つ。
黒い影が泉の底をゆっくり横切る。
やがて、長い頭が水面から現れた。
黒い鱗は濡れているはずなのに、夕陽を受けると虹色が流れる。
虹蛇だった。
泉を囲う石ではなく、決まって朽木の苔の上に身を寄せる。
虹蛇は何も言わない。
匂いを確かめるように少し止まる。
それから一粒だけ咥えた。
コクッと、小さな音がした気がした。
小皿は空になった。
赤い紫蘇も消えている。
円は、瓶に残っていた一粒を口にする。
酸味が舌へ広がる。
カイギデルが文句を言う。

『塩が強い。』

「去年、濃い方がいいって言ったでしょ。」

『強いものは強い。』

円は訊く。

「そっちは平気?」

虹蛇は何も答えない。
ただ、虹蛇はゆっくり水へ戻る。
波紋だけが広がり、やがて泉は何事もなかったように静かになった。
円は、虹蛇が乗っていた苔を撫でる。
苔が凹んでいないのが、いつも不思議だった。
ただ、ほんのりと濡れている気がしたが、元々かもしれない。
円は空になった小皿を持ち上げる。

「今年の分、急がないとな。」

 

夜。

鏡は藍色へ沈んでいた。
向こうではカイギデルがコーヒー豆を挽いている。
ショリ、ショリ、と静かな音が部屋へ流れる。
円は、インスタントコーヒーに湯を注ぎながら言った。

「虹蛇って、今日は少し小さく見えた。」

『そう見えただけだ。』

「この前は、もっと大きかった気がする。」

『あれは水が深かった。』

意味が分からない。

「大きさって、変わるの?」

『境界では、あまり意味がない。』

カイギデルはコーヒーを一口飲む。

『大きいまま狭い所へ入れる。』

「入れないでしょ。」

『入れる。』

「じゃあ、今のカイギデルは?」

少し間があった。

『今日は、この部屋にちょうどいい。』

円は鏡を見る。
ベッド。
毛布。
コーヒーカップ。
カイギデル。
全部ちょうどよく見える。

「部屋が大きいのか、カイギデルが小さいのか分からないな。」

『その区別は、人間が決めた。』

円は笑った。

「健康診断の時は、どうするの?」

『そんなものは、悪魔にはない。』

鏡の向こうではカイギデルがコーヒーを飲み、
こちらでは円がインスタントコーヒーを口へ運ぶ。
同じ香りが、二つの部屋を静かにつないでいた。

 

数日後。
大きな段ボール箱が届く。
蓋を開けると、黄色く熟した梅の甘い香りが部屋いっぱいへ広がった。
円は一粒ずつ水で洗い、布巾で水気を拭く。
傷のある梅は、別のボウルへ避けた。
この家の家賃は、ほとんど掛からない。
虹蛇も食べる。
梅干しには、きれいな梅を使った。
円は、梅の上品な手触りが好きだ。
ボタンインコの頭は滑らかだが、梅のようにしっとりとはしていない。
最初の年は、爪楊枝でヘタを取っていた。

竹串を使うようになってからは、ヘタを弾くように外せる。それが少し楽しい。
ヘタの取れたくぼみへ、布巾を軽く押し当てる。
塩を量り、保存瓶へ静かに重ねていく。
大きく硬い梅を底へ置く。
塩を薄く振り、その上へ次の梅を重ねる。
小さく柔らかいものは上へ回した。
一段ごとに塩を増やし、残った塩は、一番上の梅が隠れるようにしっかりと被せた。
円は、資料館でも使っているマスキングテープを瓶へ貼り、日付を書いた。
今年の夏は、瓶の中でこれからゆっくり始まる。
カイギデルの部屋にも梅の香り。
瓶へ重石を置く。
蓋を閉める。
円は確かめるように、瓶を指先で軽く叩いた。
コン。
床下から、地下水がゆっくり流れる音がした。

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