梅干しの瓶には、最後の二粒が残っていた。
真壁円は朝食の支度をしながら、その瓶を手に取る。
炊きたてのご飯。
味噌汁。
焼き海苔。
梅干しは弁当に入れようと思っていたが、瓶の底を見て手を止めた。
「……もう無いか。」
赤嘴のボタンインコが肩へ降りてくる。
青い方は少し遅れて、隣へ並んだ。
二羽へ蕎麦の実を渡しながら、円は小さく息を吐く。
赤嘴のボタンインコは、換羽中だ。
頭には筆毛がツンツクと立っている。
痒そうに見えるが、実際にはあまり掻かない。
今年の梅仕事を、まだ始めていなかった。
六月の終わりは、資料館の収蔵整理が続いた。
家庭菜園ではテントウムシダマシにナスの葉を食べられ、
休みの日は畑ばかり見ていた。
気づけば、七月へ入っていた。
「しまったな。」
その日は資料館へ向かう前に、商店街のスーパーへ寄った。
青果売場にはトマト、きゅうり、枝豆、とうもろこし。
夏の野菜が並んでいる。
赤紫蘇は束になって売られていた。
その隣には、もう梅がない。
円は店員へ尋ねた。
「梅、もう終わりましたか。」
「青梅は先週で終わりましたね。」
店員は少し考えてから続ける。
「完熟も、今年はもうほとんど入ってこないです。」
円は頷いた。
「ありがとうございます。」
買い物かごには豆腐と牛乳だけが入っていた。
赤紫蘇だけ残っている売場を見ながら、円は少しだけ季節へ置いていかれた気がした。
資料館の昼休み。
事務机でパソコンを開き、産地直送のページを眺める。
画面には、和歌山県産の南高梅、二キロと表示されていた。
送料込みの値段を見て、少しだけ考えた。
ボタンインコのご飯も買わなければならない。
無農薬の粒々だから、真壁円の米よりも単価は高い。
家庭菜園の支柱も欲しい。
それでも、注文のボタンを押した。
「今年もよろしくお願いします。」
誰へ言うでもなく、小さく呟いた。
夕方。
帰宅すると、ボタンインコたちが肩へ飛んできた。
ベランダにはカラスが待っている。
今日は煮干しを三本と資料館でもらった焼き芋の残りをあげた。
器用に咥え、満足そうに左右の足を交互にあげている。
夕飯は鯵の干物と冷ややっこ。
神棚へ小皿を一つ置く。
その上へ、瓶から梅干しを一粒乗せた。
読経を終える。
鈴の余韻が消えるころ、床下で長いものがゆっくり擦れる音がした。
円は神棚の小皿を持ち上げる。
縁側を回り、屋敷の裏へ出た。
屋根から落ちる雫がイモリが通る細い道を作っていて、その先に古い泉がある。
円が屋敷に住み始めた頃、泉に落ち葉が積もっていて、危うく落ちかけた。
朽木はいつしか苔衣をまとい、背の高くなった庭木に静かに溶け込んでいた。
泉の脇には、石を積んだ小さな祠。
水は静かに澄み、夕暮れの空を映していた。
円は祠の前へ小皿を置く。
「今年の分、まだ漬けてない。」
返事はない。
風だけが木々を揺らした。
しばらくすると、水面が細く波打つ。
黒い影が泉の底をゆっくり横切る。
やがて、長い頭が水面から現れた。
黒い鱗は濡れているはずなのに、夕陽を受けると虹色が流れる。
虹蛇だった。
泉を囲う石ではなく、決まって朽木の苔の上に身を寄せる。
虹蛇は何も言わない。
匂いを確かめるように少し止まる。
それから一粒だけ咥えた。
コクッと、小さな音がした気がした。
小皿は空になった。
赤い紫蘇も消えている。
円は、瓶に残っていた一粒を口にする。
酸味が舌へ広がる。
カイギデルが文句を言う。
『塩が強い。』
「去年、濃い方がいいって言ったでしょ。」
『強いものは強い。』
円は訊く。
「そっちは平気?」
虹蛇は何も答えない。
ただ、虹蛇はゆっくり水へ戻る。
波紋だけが広がり、やがて泉は何事もなかったように静かになった。
円は、虹蛇が乗っていた苔を撫でる。
苔が凹んでいないのが、いつも不思議だった。
ただ、ほんのりと濡れている気がしたが、元々かもしれない。
円は空になった小皿を持ち上げる。
「今年の分、急がないとな。」
夜。
鏡は藍色へ沈んでいた。
向こうではカイギデルがコーヒー豆を挽いている。
ショリ、ショリ、と静かな音が部屋へ流れる。
円は、インスタントコーヒーに湯を注ぎながら言った。
「虹蛇って、今日は少し小さく見えた。」
『そう見えただけだ。』
「この前は、もっと大きかった気がする。」
『あれは水が深かった。』
意味が分からない。
「大きさって、変わるの?」
『境界では、あまり意味がない。』
カイギデルはコーヒーを一口飲む。
『大きいまま狭い所へ入れる。』
「入れないでしょ。」
『入れる。』
「じゃあ、今のカイギデルは?」
少し間があった。
『今日は、この部屋にちょうどいい。』
円は鏡を見る。
ベッド。
毛布。
コーヒーカップ。
カイギデル。
全部ちょうどよく見える。
「部屋が大きいのか、カイギデルが小さいのか分からないな。」
『その区別は、人間が決めた。』
円は笑った。
「健康診断の時は、どうするの?」
『そんなものは、悪魔にはない。』
鏡の向こうではカイギデルがコーヒーを飲み、
こちらでは円がインスタントコーヒーを口へ運ぶ。
同じ香りが、二つの部屋を静かにつないでいた。
数日後。
大きな段ボール箱が届く。
蓋を開けると、黄色く熟した梅の甘い香りが部屋いっぱいへ広がった。
円は一粒ずつ水で洗い、布巾で水気を拭く。
傷のある梅は、別のボウルへ避けた。
この家の家賃は、ほとんど掛からない。
虹蛇も食べる。
梅干しには、きれいな梅を使った。
円は、梅の上品な手触りが好きだ。
ボタンインコの頭は滑らかだが、梅のようにしっとりとはしていない。
最初の年は、爪楊枝でヘタを取っていた。
竹串を使うようになってからは、ヘタを弾くように外せる。それが少し楽しい。
ヘタの取れたくぼみへ、布巾を軽く押し当てる。
塩を量り、保存瓶へ静かに重ねていく。
大きく硬い梅を底へ置く。
塩を薄く振り、その上へ次の梅を重ねる。
小さく柔らかいものは上へ回した。
一段ごとに塩を増やし、残った塩は、一番上の梅が隠れるようにしっかりと被せた。
円は、資料館でも使っているマスキングテープを瓶へ貼り、日付を書いた。
今年の夏は、瓶の中でこれからゆっくり始まる。
カイギデルの部屋にも梅の香り。
瓶へ重石を置く。
蓋を閉める。
円は確かめるように、瓶を指先で軽く叩いた。
コン。
床下から、地下水がゆっくり流れる音がした。