朝、真壁円は畳の上に黒いものを見つけた。
コーヒー豆だった。
摘まみ上げる。
香りを嗅ぐ。
昨夜、自分はインスタントコーヒーしか飲んでいない。
少し考えてから、机の上へ置いた。
翌朝。
また畳の上に三粒落ちていた。
三日目は四粒。
四日目は三粒。
さすがに偶然ではない。
円は小さな皿を用意し、拾った豆をそこへ入れるようになった。
その夜も、読経を終えるころ、洗面所の鏡がゆっくり藍色へ沈む。
鏡の向こうでは、カイギデルが壺からコーヒー豆を取り出していた。
ショリ、ショリ、と豆を挽く。
円の畳の上で、コーヒー豆が小さく跳ねた。
「また落としたな。」
『落としていない。』
「落ちてきた。」
『境界だ。』
「雑なだけでしょ。」
鏡の向こうで、しばらく沈黙があった。
やがて、『……三粒くらいなら誤差だ。』
円は思わず笑った。
翌朝も三粒。
その翌日は四粒。
拾った豆は、小皿から小さな瓶へ移った。
一週間で二十一粒。
二週間で四十五粒。
瓶の底は、ほんの少しだけ黒くなった。
ある夜、円は鏡の前で立ち止まった。
カイギデルが豆を挽いている。
壺から掬った豆を、ざらり、とコーヒーミルへ入れようとして、二、三粒こぼした。
そのうちの一粒が境界を越え、
カサッ、と畳へ転がる。
「ほら。」
カイギデルは、その豆を見つめたまま動かない。
少ししてから、
『境界が悪い。』と言った。
「雑なだけ。」
『違う。』
それ以上、二人とも何も言わなかった。
瓶の中の豆は少しずつ増えた。
一か月が過ぎるころには、ようやく一杯分になった。
休日の朝。
円は手回しのコーヒーミルを取り出した。
「やっと一杯ぶんだ。」
ゆっくり挽く。
香りが立つ。
毎晩、鏡の向こうから漂ってきた香りだった。
知っている匂いなのに、飲むのは初めてだった。
円は丁寧に湯を落とす。
深く、柔らかな香りが部屋へ広がった。
一口飲む。
しばらく何も言えなかった。
「……うまい。」
鏡の向こうでは、カイギデルも黙ってコーヒーを飲んでいた。
やがて、小さく言う。
『返せ。』
円はカップを置いた。
「境界を越えたんだから、うちの豆だ。」
鏡の向こうで、カイギデルは小さく鼻を鳴らした。
否定もしない。
肯定もしない。
その翌朝も、畳の上には三粒のコーヒー豆が転がっていた。
円は拾って瓶へ入れる。
「また落としたな。」
『境界が悪い。』
円はそれ以上聞かなかった。
毎朝、三粒。
多い日で四粒。
それ以上は飛んでこない。
それが偶然なのか、
カイギデルの加減なのか、
円は考えないことにした。
瓶の蓋を閉める。
「ありがとう。」
その言葉だけは、心の中でつぶやいた。
口にしてしまえば、この豆はもう飛んでこない気がしたからだ。
鏡の向こうでは、今日もショリ、ショリ、とコーヒー豆を挽く音がしていた。
