朝の商店街は、まだ眠気を残していた。
魚屋の店先では氷が砕かれ、八百屋は青いコンテナを歩道へ並べている。古い喫茶店のマスターが看板を表へ出し、乾いた音を立ててシャッターがゆっくり持ち上がった。
真壁円は、その音を聞きながら事務所の鍵を開ける。
小さな郷土資料室を兼ねた古い事務所だった。
窓を開ける。
昨夜からこもっていた空気が、ゆっくり外へ流れ出ていく。
湯を沸かすほどでもない。
流し台の戸棚から、インスタントコーヒーの瓶を取り出す。
マグカップへ粉を落とし、給湯室の電気ポットから湯を注いだ。
黒い液面から、安っぽい苦味の匂いが立ちのぼる。
一口飲む。
少し薄い。
昨夜、鏡の向こうではカイギデルが豆を挽いていた。
ショリ、ショリ、と静かな音。
湯を落とす気配。
藍色の鏡を越えて届く、深く焦げた香り。
こちらはインスタント。
向こうはドリップ。
毎朝の仕事が始まるころには、その違いも、もう苦にならなくなっていた。
円はマグカップを机へ置き、入口の札を裏返す。
「開館」
小さく書かれた木札が、今日という一日を静かに始めた。
資料室は、商店街の裏通りに建っていた。
木造二階建て。
元は医院だったと聞く。
白く塗られた外壁はところどころ木地が浮き、玄関脇には小さな看板が掛かっている。
虹蛇郷土資料室
町の名前よりも小さく書かれたその文字を、通り過ぎる人はあまり見ない。
入口には、この町の年表がある。
川が流れを変えた年。
鉄道が通った年。
市場ができた年。
火事で商店街の半分が焼けた年。
その隣には古い地図。
さらに奥には、農具や漁具、祭りで使われた道具が静かに並んでいた。
ここまでは、どこの郷土資料館とも変わらない。
円は展示室の照明を点ける。
蛍光灯が一拍遅れて白く灯り、ガラスケースの中で古い道具が目を覚ます。
開館前の静かな時間が、一日のうちでいちばん好きだった。
来館者はいない。
展示物も喋らない。
ただ埃だけが、朝の光をゆっくり漂っている。
円は展示ケースの鍵を開けた。
小さな金具が乾いた音を立てる。
展示札を一枚外す。
「昭和二十九年寄贈」
端が少し日に焼けていた。
新しく印字した札へ取り替える。
位置を揃え、ガラスを柔らかい布で拭く。
毎朝、それを繰り返す。
河童の詫び状(複製)。
夜泣き石の欠片(真贋不明)。
座敷童伝承のこけし(首部のみ)。
どれも展示札だけ読めば、少し変わった資料館に見える。
円は特に立ち止まらない。
展示物に興味がないわけではない。
仕事だから、毎日そこにあるものとして扱うだけだった。
展示室の一番奥には、まだ札の付いていない棚がある。
空いているように見えて、何も置かれていないわけではない。
布の掛けられた木箱がいくつか並び、収蔵番号だけが静かに貼られていた。
円はその箱には触れず、次の展示ケースへ歩いた。
奥の引き戸が静かに開いた。
「おはよう。」
低く穏やかな声だった。
円は展示ケースから顔を上げる。
「おはようございます。」
白髪とも銀髪ともつかない短い髪。
年齢は分からない。
昔からその姿だったようにも見えるし、急に年を取ったようにも見える。
館長、と町の人は呼ぶ。
円もそう呼んでいた。
館長は展示室を一巡した。
床を見て、
展示札を見て、
窓の外を見た。
何も言わない。
ただ、入口の観葉植物だけを少し窓際へ寄せた。
朝日が葉へ当たる。
それだけ確認すると、事務机へ向かい、古い帳簿を開く。
紙をめくる音だけが部屋に残った。
円も仕事へ戻る。
二人とも、必要なことしか話さない。
それで困ったことは、一度もなかった。
午前十時を少し回ったころ、入口の引き戸が鳴った。
からん、と小さな鈴が鳴る。
「すみません。」
入ってきたのは七十を過ぎたくらいの男だった。
日に焼けた腕。
使い込まれた帽子。
風呂敷包みを両手で大事そうに抱えている。
円は受付から立ち上がった。
「いらっしゃいませ。」
男は少しためらってから風呂敷を机へ置く。
結び目をゆっくり解く。
中から現れたのは、長く乾いた蛇の抜け殻だった。
丁寧に丸められ、新聞紙へ何重にも包まれていたらしい。
男は抜け殻を見つめたまま言う。
「これを、預かってもらえませんか。」
円は黙って頷く。
「お話を伺ってもよろしいですか。」
男は円の顔を見た。
それから、小さく息をつく。
「山で拾ったんです。」
少し間を置いて、
「ツチノコです。」
その声には、照れも冗談もなかった。
長い時間をかけて辿り着いた人だけが持つ、静かな確信だった。
円は否定しない。
肯定もしない。
受付票を一枚取り出し、万年筆の蓋を外す。
「お名前から、お聞かせください。」
男はゆっくり頷いた。
そのとき奥の事務室で、帳簿を閉じる音がひとつだけ聞こえた。
館長は抜け殻を両手で広げた。
乾いた鱗が朝の光を受けて、白く鈍く光る。
しばらく黙って眺める。
指先で傷み具合を確かめ、
ゆっくり頷いた。
「これは、蛇ですね。」
男は少し俯いた。
「……やっぱり。」
「ええ。」
館長は穏やかに答える。
「ツチノコではありません。」
部屋が静かになる。
男は風呂敷へ手を伸ばした。
「すみませんでした。変なものを持ってきて。」
「お待ちください。」
館長の声は変わらず静かだった。
「一つ、お聞きしてもよろしいですか。」
男は顔を上げる。
「どうして、ツチノコだと思われたんです。」
その問いに、男は少し驚いたようだった。
それから、ゆっくり話し始める。
子どもの頃、祖父に連れられて山へ入ったこと。
祖父は毎年、「今年こそ見つかる」と笑っていたこと。
祖父が亡くなってからも、自分だけは山へ通い続けたこと。
五十年前の春、この抜け殻を拾ったこと。
誰に話しても笑われたこと。
それでも祖父との約束だけは、嘘にしたくなかったこと。
館長は一度も口を挟まなかった。
円も、万年筆を置いたまま話を聞いている。
話し終えると、男は照れくさそうに笑った。
「結局、ただの蛇だったんですね。」
館長は、風呂敷を男の前へ戻さなかった。
「買い取らせていただきます。」
男は目を丸くする。
「蛇ですよ。」
「ええ。」
「それでもですか。」
館長は小さく笑った。
「うちは、珍しい物を集めているわけではありません。」
少し間を置いて、抜け殻へ視線を落とす。
「この蛇は、どこにでもいる蛇でしょう。」
そして男を見る。
「ですが、この五十年は、あなただけのものです。」
男は何も言えなかった。
館長は静かに続ける。
「私どもがお預かりしたいのは、この抜け殻ではありません。」
「あなたが、この抜け殻と一緒に生きてこられた時間です。」
さらに柔らかく笑う。
「言い換えるなら――」
「あなたの物語を、お預かりするんです。」
男は風呂敷からそっと手を離した。
寄贈者が帰ったあと、展示室はまた静かになった。
円は受付台の帳面を閉じる。
風呂敷に包まれていた抜け殻は、仮収蔵箱の中で細く丸まっていた。
「館長。」
「うん。」
「蛇でしたよね。」
「そうだね。」
少し間があった。
「では、どうして買い取ったんですか。」
館長は帳簿へ日付を書き込みながら答えた。
「人は、物を残すんじゃない。」
万年筆が紙の上をゆっくり走る。
「最後に残るのは、物語なんだよ。」
それだけ言うと、館長は帳簿を閉じた。
円は収蔵箱を見つめる。
箱の中にあるのは蛇の抜け殻だった。
けれど今日預かったものは、それだけではない気がした。
真壁円は、帰ってくると真っ先にボタンインコたちの部屋を覗いた。
壁に掛けた温度計は、三十三・五度を指している。
「今日は暑かったな」
小さく呟き、エアコンのリモコンを手に取る。冷房を二十九度に設定すると、ほどなくして涼しい風が部屋へ流れ始めた。
二羽は止まり木の上から、円の様子をじっと見ている。
円は小皿から蕎麦の実をつまんだ。
くちばしの鮮やかなオレンジ色のボタンインコには、いつものように指先で差し出す。小さなくちばしが器用につまみ取り、割った殻が畳に落ちる乾いた音が静かに響いた。
もう一羽は、羽が澄んだ青色をしている。くちばしは桜文鳥のような、クリームがかった淡い桃色だった。
こちらには、まず小さなスプーンで蕎麦の実を差し出す。
青いボタンインコは、人の手に少しだけ警戒心が残っている。いきなり指先を近づけると、驚いて身を引く日もある。
今日は大丈夫らしい。
一粒食べ終えると、自分から少しだけ円の方へ寄ってきた。
円は二粒目を指先で差し出す。
ためらいはない。
三粒目も、そのまま指から受け取った。
「調子、いいみたいだな」
青いボタンインコは返事をするように小さく鳴き、円の指先を軽くつついてから、満足そうに蕎麦の実を啄み始めた。
夕飯は、鯵を焼いた。
味噌汁には豆腐とわかめ。
冷蔵庫を開けて、少し考える。
「トマト、高かったな。」
今日、スーパーで見た値札を思い出す。
一袋、消費税込みで四百八十六円。
「今日は見送った。」
焼き上がった鯵を皿へ移し、小鉢を並べる。
神棚には小さな皿を一つ。
虹蛇のぶんだった。
読経を終えるころには、洗面所の鏡がゆっくり藍色へ沈んでいく。
鏡の向こうでは、カイギデルがコーヒーを淹れていた。
円は箸を手に取る。
「今日、ツチノコの抜け殻が来た。」
『蛇だな。』
「そう思う。」
『でも預かるんだろ。』
「ええ。」
少しだけ間が空く。
『それでいい。』
円は鯵をほぐしながら頷いた。
「それより、トマトが四百八十六円だった。」
鏡の向こうで、カイギデルが手を止める。
『高いな。』
「家庭菜園のも、うまくいってない。」
『ほう。』
「なすびなんだけど。」
円は味噌汁を一口飲んだ。
「テントウムシダマシに葉っぱをほとんど食べられてさ。今年は一本しか採れなかった。」
『あれは食う。』
「知ってるのか。」
『向こうにも似たような虫はいる。』
円は苦笑した。
「資料館の帰り道に、長ナスをたくさん実らせてる家があるんだ。」
『育て方が違うのか。』
「一メートルくらいの高さまで仕立ててあってさ。枝ぶりもきれいなんだ。」
少し考えてから、円は言う。
「今年は負けたけど、来年はもう少し何とかしたい。」
鏡の向こうで、カイギデルがコーヒーカップを持ち上げる。
『境界を整える前に、畑を整えろ。』
「その通りだな。」
『まずは虫だ。』
「うん。家庭菜園対策を考えよう。」
円は鯵を一口食べる。
鏡の向こうから、深く焙煎されたコーヒーの香りが流れてきた。
こちらには焼き魚の匂い。
別々の部屋で、来年のなすびの話をしながら、同じ夕飯の時間だけが静かに過ぎていった。
