除湿機のタンクには、一晩で水が半分ほど溜まっていた。
真壁円は透明なタンクを両手で持ち上げ、給湯室の流しへ運ぶ。
梅雨明け前の朝だった。
古文書や木器を収蔵する資料館にとって、この時期の湿気は油断できない。
タンクを傾ける。
ととと、と軽い音を立てて水が流れ落ちた。
排水口へ吸い込まれていく水面に、一瞬だけ虹色の膜が浮かぶ。
洗剤の残りか、光の加減か。
円は気に留めず、蛇口をひねってタンクをすすいだ。
事務室では館長が古い扇風機の向きを少しだけ変えている。
羽根が頼りなく回り、生ぬるい風が部屋を巡った。
円はインスタントコーヒーを少し濃いめに淹れる。
黒い液面から立ちのぼる苦味を一口飲み、受付へ戻った。
開館から一時間ほど過ぎたころ。
入口の呼び鈴が、小さく鳴った。
「すみません」
入ってきたのは七十歳前後の女性だった。
鼠色の薄いサマーセーターを着て、大きな紙袋を両手で抱えている。
「あの……こういう物も、見ていただけるのでしょうか」
「はい。」
円は受付票を一枚差し出した。
「まず、お預かりする物を拝見してもよろしいでしょうか。」
「父の遺品なんです。」
女性は紙袋を受付台へ置いた。
最初に取り出したのは、一冊の薄い冊子だった。
色褪せた緑色の表紙。
背は黒い布テープで補強されている。
表紙には手書きの文字。
『河童皿進化論』
奥付には昭和五十三年十一月。
私家製本らしい簡素な冊子だった。
「河童の資料ですか。」
円が尋ねると、女性は首を横へ振る。
「いいえ。」
少し困ったように笑う。
「河童ではなく、皿なんです。」
「皿。」
「父は河童そのものには、あまり興味がなかったみたいで。」
奥の机で帳簿をめくっていた館長の手が止まる。
円は冊子を開いた。
藁半紙に万年筆の細い文字がびっしり並んでいる。
《河童の皿とは、川という環境で水分と油分の均衡を保つ生命維持装置である》
《皿は生体膜であり、独自の表面張力によって頭頂部へ固定される》
ページをめくる。
河童の頭部断面図。
さらに文章が続く。
《河童がお辞儀で力を失うのは、皿を傾けたことで膜の表面張力が限界を迎え、潤滑油が流出するためである》
円は思わずページを止めた。
さらにめくる。
今度は巨大なマッコウクジラの挿絵だった。
「……クジラになっています。」
女性は少し肩をすくめる。
「父は、河童の一部が深海へ適応してクジラになったと考えていました。」
「ずいぶん遠くまで行きましたね。」
いつの間にか受付の隣へ来ていた館長が静かに言う。
その声には笑いも皮肉もなかった。
女性も少しだけ笑う。
「そうですね。」
紙袋から新聞紙の包みが取り出される。
包みを開くと、小さな素焼きの皿が現れた。
植木鉢の受け皿ほどの大きさ。
内側には細い鉛筆で何重もの同心円が描かれている。
裏返すと、
『第一号試作』
赤いマジックでそう書かれていた。
「父が粘土で作った模型です。」
女性は皿を撫でる。
「皿の膜がどうすれば破れないのか、試していたみたいで。」
続いて大学ノートが一冊。
ページを開く。
油と水の混合比。
お辞儀の角度。
皮脂分泌量。
その隣には、
ショートケーキ。
日本酒。
味噌。
漬物。
発酵食品。
脈絡のない単語が並んでいた。
「変わったお父様だったんですね。」
館長が穏やかに言う。
女性は苦笑する。
「ええ。本当に。」
少し考えてから続けた。
「食事の最中も、そんなことばかり考えていたんです。」
「ドレッシングってありますでしょう。」
「油と酢が分かれますよね。」
「父は振らずに、ずっと見ているんです。」
『皿の膜も、こういうバランスだったのかもしれない』
そう言いながら。
私たちが食べ終わっても、まだ眺めていました。
円はノートへ目を落とす。
万年筆の文字は几帳面だった。
一枚一枚、消えることなく積み重ねられている。
「私がお辞儀を学校で習った時も。」
女性は少し笑う。
「父と喧嘩になりました。」
「四十五度も頭を下げたら膜が切れる、そんな角度を教える学校はおかしいって。」
「私は礼儀の話をしていただけだったんですけど。」
館長は何も言わず聞いている。
「甘い物も好きでした。」
女性は懐かしそうに目を細めた。
「ショートケーキを買って帰ると、本当に嬉しそうに食べるんです。」
「生クリームを口の周りにつけたまま。」
『これを知ったら河童も陸へ上がる』
「そう真面目な顔で言うんです。」
女性は笑う。
今度は困った笑顔ではなかった。
「人間は。」
「河童が皿を捨てた姿なんだそうです。」
「甘い物やお酒や発酵した食べ物を知ったから。」
「だから陸へ上がった、と。」
円はノートに書かれた食品名を見つめた。
合理性はない。
けれど、長い時間だけは確かにそこへ残っていた。
女性はノートを閉じる。
その手つきは丁寧だった。
長い間、何度も開いてきた紙の癖を知っているような手つきだった。
「……でも。」
少しだけ声が沈む。
「誰も信じてはくれませんでした。」
資料館の中で、除湿機だけが低く唸っている。
「父は昔、この冊子を出版社や大学の先生へ送ったそうです。」
「返事は、一通も来ませんでした。」
女性は少し間を置いた。
「町の文化祭で、一度だけ展示していただいたこともありました。」
「その時に、『面白い冗談ですね』って笑われたそうです。」
女性は冊子へ視線を落とす。
「父は『冗談ではない』と言って、その日のうちに持ち帰りました。」
「それからは誰にも見せなくなりました。」
静かな声だった。
責める響きはない。
事実だけを置いていくような話し方だった。
「それでも。」
女性はノートの表紙を撫でる。
「書くことだけは、やめませんでした。」
押し入れの奥。
誰にも見せない場所へ仕舞い込みながら。
亡くなるまで書き続けた。
「子どもの頃は嫌だったんです。」
女性は少し笑う。
「友達が遊びに来た時に見つかったら恥ずかしくて。」
「だから押し入れの、一番奥へ隠していました。」
冊子の最後のページを開く。
そこには震えた鉛筆で、一文だけ印が付いていた。
《人類は皿を捨てたことによって弱くなったのではない。世界を広げたのである》
女性は、その一文を見つめたまま言う。
「私は若い頃、この町を出たかったんです。」
「東京の専門学校へ行きたくて。」
少し笑う。
「でも父は偏屈でしたから。」
「絶対に反対されると思っていました。」
親子で話をすることも少なかった。
出発の日も。
父は駅へ来なかった。
気をつけて、とも言わなかった。
「私は長い間。」
「父は私に興味がないんだと思っていました。」
女性は冊子を閉じる。
「父が亡くなって。」
「遺品を片付けていて。」
「初めて、この最後の一行をちゃんと読んだんです。」
静かに笑う。
自分を笑うような、柔らかな笑みだった。
「もちろん。」
「私へ向けて書いたものじゃないと思います。」
「父は最後まで、河童の皿のことしか考えていませんでしたから。」
少しだけ息をつく。
「でも。」
「どうしても捨てられなくなってしまいました。」
除湿機が低く鳴る。
古い扇風機が首を振る。
その音だけが部屋を巡っていた。
やがて女性は顔を上げる。
「価値のない物です。」
「死んだ人間の妄想です。」
「資料館に置けないのでしたら。」
「処分していただいて構いません。」
館長はすぐには答えなかった。
冊子の擦り切れた背を見つめる。
素焼きの皿を見る。
ノートを見る。
それから静かに口を開いた。
「学説として評価することはできません。」
女性は小さく頷く。
「ええ。」
「そうですよね。」
「展示室へ並べる資料でもありません。」
館長は続ける。
「ですが。」
素焼きの皿へ手を添える。
「この町で暮らした一人の人が。」
「何十年ものあいだ。」
「河童の皿について考え続けた。」
「その時間は。」
「無かったことにはできません。」
館長は女性を見る。
「考え続けた時間にも。」
「置き場所は必要です。」
少しだけ笑う。
「『河童皿進化論』。」
「模型。」
「研究ノート。」
「個人研究資料として、お預かりいたします。」
「よろしいでしょうか。」
女性は目を閉じた。
深く頭を下げる。
「……よろしくお願いいたします。」
円は受付票へ万年筆を走らせる。
資料名。
『河童皿進化論』
素焼き皿模型。
研究ノート。
分類欄で手が止まる。
館長が静かに言った。
「郷土・個人研究。」
円はそのまま書き込んだ。
女性が帰ったあと。
展示室はまた静かになった。
円は素焼きの皿を薄紙へ包もうとして、その手を止める。
皿の底。
同心円の真ん中に、小さな水の跡があった。
押し入れの湿気かもしれない。
ただの染みかもしれない。
円は拭かなかった。
そのまま薄紙で包み、収蔵箱へ納める。
資料箱の蓋を閉じる音が、小さく部屋へ響いた。
仕事を終えて帰るころには、夕暮れが町を藍色へ染め始めていた。
円は玄関で靴を脱ぐと、そのまま鳥籠の前へ向かう。
二羽のボタンインコが止まり木から身を乗り出した。
「ただいま。」
蕎麦の実を小皿へ入れる。
赤嘴のボタンインコが先についばみ、青い方が少し遅れて隣へ寄ってきた。
嘴が小さく鳴る。
静かな部屋に、乾いた音だけが続く。
ベランダでは、いつものカラスが電線へ降りてきていた。
円は煮干しを一掴み手渡す。
器用に咥えると、羽を揺らして飛び去っていった。
神棚へ小さな皿を供える。
読経を終え、鈴の余韻が静かに消えていく。
やがて洗面所の鏡が、ゆっくり藍色へ沈んだ。
向こうから、焙煎したコーヒーの香りが流れてくる。
円は夕飯を並べた。
きゅうりとわかめの酢の物。
鯵の干物。
冷ややっこ。
温かい麦ご飯。
箸を手に取り、鏡へ目を向ける。
「今日ね。」
鯵の身をほぐしながら言った。
「河童は甘いものとお酒を覚えたから、皿を捨てて人間になったっていう話を聞いた。」
少し間があく。
『合理的だ。』
カイギデルの低い声が返る。
「合理的?」
『怪力を失っても構わん。』
『毎日使うものでもない。』
『菓子が食えて、酒が飲めるなら、その方が得だ。』
円は笑う。
「ずいぶん現実的なんだね。」
『現実でなければ生き残れん。』
鯵を一口食べる。
「お辞儀をしただけで力を失うような生活より。」
「人間の方が便利だったって。」
『そうだろうな。』
少し考えてから、カイギデルが続ける。
『円も怪力と菓子なら、菓子を選ぶ。』
「選ぶね。」
円は頷いた。
「私は最初から人間だけど。」
『ならば正しい選択だ。』
食卓へ静かな笑いが落ちる。
酢の物を口へ運ぶ。
きゅうりが小さく音を立てた。
食後。
円は食器を流しへ運ぶ。
洗い桶へ水を張る。
皿を沈めると、表面へ薄く油が広がった。
照明を受けて、膜がかすかに虹色を帯びる。
洗剤を一滴落とす。
油の境界がほどける。
静かに溶け合い、水へ消えていった。
円はスポンジを動かす。
白い皿を一枚ずつ洗う。
鏡の向こうから、カイギデルがぼそりと言った。
『礼をするだけで破れる膜など。』
少し間を置く。
『やはり不便だな。』
円は蛇口をひねる。
泡が流れていく。
「でも。」
水音の向こうで答える。
「川にいる間は、それで十分だったんだって。」
皿をすすぐ。
水滴が縁を伝う。
「十分だったから。」
「そこにいた。」
しばらく返事はなかった。
流れる水だけが台所へ響く。
やがて、カイギデルが静かに言う。
『十分なら、残る。』
もう一度、間があく。
『残ったからこそ。』
『遠くまで行けたのだな。』
円は答えなかった。
皿を立て、水を切る。
水切り籠へ伏せる。
一枚。
また一枚。
窓の外では、日が落ちていた。
世界を広げた人間の台所で。
白い皿が、静かに乾いていった。