8話:河童の皿

境界の食卓

除湿機のタンクには、一晩で水が半分ほど溜まっていた。
真壁円は透明なタンクを両手で持ち上げ、給湯室の流しへ運ぶ。
梅雨明け前の朝だった。
古文書や木器を収蔵する資料館にとって、この時期の湿気は油断できない。
タンクを傾ける。
ととと、と軽い音を立てて水が流れ落ちた。
排水口へ吸い込まれていく水面に、一瞬だけ虹色の膜が浮かぶ。
洗剤の残りか、光の加減か。
円は気に留めず、蛇口をひねってタンクをすすいだ。
事務室では館長が古い扇風機の向きを少しだけ変えている。
羽根が頼りなく回り、生ぬるい風が部屋を巡った。
円はインスタントコーヒーを少し濃いめに淹れる。
黒い液面から立ちのぼる苦味を一口飲み、受付へ戻った。
開館から一時間ほど過ぎたころ。
入口の呼び鈴が、小さく鳴った。

「すみません」

入ってきたのは七十歳前後の女性だった。
鼠色の薄いサマーセーターを着て、大きな紙袋を両手で抱えている。

「あの……こういう物も、見ていただけるのでしょうか」

「はい。」

円は受付票を一枚差し出した。

「まず、お預かりする物を拝見してもよろしいでしょうか。」

「父の遺品なんです。」

女性は紙袋を受付台へ置いた。
最初に取り出したのは、一冊の薄い冊子だった。
色褪せた緑色の表紙。
背は黒い布テープで補強されている。
表紙には手書きの文字。

『河童皿進化論』

奥付には昭和五十三年十一月。
私家製本らしい簡素な冊子だった。

「河童の資料ですか。」

円が尋ねると、女性は首を横へ振る。

「いいえ。」

少し困ったように笑う。

「河童ではなく、皿なんです。」

「皿。」

「父は河童そのものには、あまり興味がなかったみたいで。」

奥の机で帳簿をめくっていた館長の手が止まる。
円は冊子を開いた。
藁半紙に万年筆の細い文字がびっしり並んでいる。

《河童の皿とは、川という環境で水分と油分の均衡を保つ生命維持装置である》

《皿は生体膜であり、独自の表面張力によって頭頂部へ固定される》

ページをめくる。
河童の頭部断面図。
さらに文章が続く。

《河童がお辞儀で力を失うのは、皿を傾けたことで膜の表面張力が限界を迎え、潤滑油が流出するためである》

円は思わずページを止めた。
さらにめくる。

今度は巨大なマッコウクジラの挿絵だった。

「……クジラになっています。」

女性は少し肩をすくめる。

「父は、河童の一部が深海へ適応してクジラになったと考えていました。」

「ずいぶん遠くまで行きましたね。」

いつの間にか受付の隣へ来ていた館長が静かに言う。
その声には笑いも皮肉もなかった。
女性も少しだけ笑う。

「そうですね。」

紙袋から新聞紙の包みが取り出される。
包みを開くと、小さな素焼きの皿が現れた。
植木鉢の受け皿ほどの大きさ。
内側には細い鉛筆で何重もの同心円が描かれている。
裏返すと、

『第一号試作』

赤いマジックでそう書かれていた。

「父が粘土で作った模型です。」

女性は皿を撫でる。

「皿の膜がどうすれば破れないのか、試していたみたいで。」

続いて大学ノートが一冊。
ページを開く。
油と水の混合比。
お辞儀の角度。
皮脂分泌量。
その隣には、
ショートケーキ。
日本酒。
味噌。
漬物。
発酵食品。
脈絡のない単語が並んでいた。

「変わったお父様だったんですね。」

館長が穏やかに言う。
女性は苦笑する。

「ええ。本当に。」

少し考えてから続けた。

「食事の最中も、そんなことばかり考えていたんです。」

「ドレッシングってありますでしょう。」

「油と酢が分かれますよね。」

「父は振らずに、ずっと見ているんです。」

『皿の膜も、こういうバランスだったのかもしれない』

そう言いながら。
私たちが食べ終わっても、まだ眺めていました。
円はノートへ目を落とす。
万年筆の文字は几帳面だった。
一枚一枚、消えることなく積み重ねられている。

「私がお辞儀を学校で習った時も。」

女性は少し笑う。

「父と喧嘩になりました。」

「四十五度も頭を下げたら膜が切れる、そんな角度を教える学校はおかしいって。」

「私は礼儀の話をしていただけだったんですけど。」

館長は何も言わず聞いている。

「甘い物も好きでした。」

女性は懐かしそうに目を細めた。

「ショートケーキを買って帰ると、本当に嬉しそうに食べるんです。」

「生クリームを口の周りにつけたまま。」

『これを知ったら河童も陸へ上がる』

「そう真面目な顔で言うんです。」

女性は笑う。

今度は困った笑顔ではなかった。

「人間は。」

「河童が皿を捨てた姿なんだそうです。」

「甘い物やお酒や発酵した食べ物を知ったから。」

「だから陸へ上がった、と。」

円はノートに書かれた食品名を見つめた。
合理性はない。
けれど、長い時間だけは確かにそこへ残っていた。
女性はノートを閉じる。
その手つきは丁寧だった。
長い間、何度も開いてきた紙の癖を知っているような手つきだった。

「……でも。」

少しだけ声が沈む。
「誰も信じてはくれませんでした。」
資料館の中で、除湿機だけが低く唸っている。

「父は昔、この冊子を出版社や大学の先生へ送ったそうです。」

「返事は、一通も来ませんでした。」

女性は少し間を置いた。

「町の文化祭で、一度だけ展示していただいたこともありました。」

「その時に、『面白い冗談ですね』って笑われたそうです。」

女性は冊子へ視線を落とす。

「父は『冗談ではない』と言って、その日のうちに持ち帰りました。」

「それからは誰にも見せなくなりました。」

静かな声だった。
責める響きはない。
事実だけを置いていくような話し方だった。

「それでも。」

女性はノートの表紙を撫でる。

「書くことだけは、やめませんでした。」

押し入れの奥。
誰にも見せない場所へ仕舞い込みながら。
亡くなるまで書き続けた。

「子どもの頃は嫌だったんです。」

女性は少し笑う。

「友達が遊びに来た時に見つかったら恥ずかしくて。」

「だから押し入れの、一番奥へ隠していました。」

冊子の最後のページを開く。

そこには震えた鉛筆で、一文だけ印が付いていた。

《人類は皿を捨てたことによって弱くなったのではない。世界を広げたのである》

女性は、その一文を見つめたまま言う。

「私は若い頃、この町を出たかったんです。」

「東京の専門学校へ行きたくて。」

少し笑う。

「でも父は偏屈でしたから。」

「絶対に反対されると思っていました。」

親子で話をすることも少なかった。
出発の日も。
父は駅へ来なかった。
気をつけて、とも言わなかった。

「私は長い間。」

「父は私に興味がないんだと思っていました。」

女性は冊子を閉じる。

「父が亡くなって。」

「遺品を片付けていて。」

「初めて、この最後の一行をちゃんと読んだんです。」

静かに笑う。
自分を笑うような、柔らかな笑みだった。

「もちろん。」

「私へ向けて書いたものじゃないと思います。」

「父は最後まで、河童の皿のことしか考えていませんでしたから。」

少しだけ息をつく。

「でも。」

「どうしても捨てられなくなってしまいました。」

除湿機が低く鳴る。
古い扇風機が首を振る。
その音だけが部屋を巡っていた。
やがて女性は顔を上げる。

「価値のない物です。」

「死んだ人間の妄想です。」

「資料館に置けないのでしたら。」

「処分していただいて構いません。」

館長はすぐには答えなかった。
冊子の擦り切れた背を見つめる。
素焼きの皿を見る。
ノートを見る。
それから静かに口を開いた。

「学説として評価することはできません。」

女性は小さく頷く。

「ええ。」

「そうですよね。」

「展示室へ並べる資料でもありません。」

館長は続ける。

「ですが。」

素焼きの皿へ手を添える。

「この町で暮らした一人の人が。」

「何十年ものあいだ。」

「河童の皿について考え続けた。」

「その時間は。」

「無かったことにはできません。」

館長は女性を見る。

「考え続けた時間にも。」

「置き場所は必要です。」

少しだけ笑う。

「『河童皿進化論』。」

「模型。」

「研究ノート。」

「個人研究資料として、お預かりいたします。」

「よろしいでしょうか。」

女性は目を閉じた。
深く頭を下げる。

「……よろしくお願いいたします。」

円は受付票へ万年筆を走らせる。
資料名。

『河童皿進化論』

素焼き皿模型。
研究ノート。
分類欄で手が止まる。
館長が静かに言った。

「郷土・個人研究。」

円はそのまま書き込んだ。
女性が帰ったあと。
展示室はまた静かになった。
円は素焼きの皿を薄紙へ包もうとして、その手を止める。
皿の底。
同心円の真ん中に、小さな水の跡があった。
押し入れの湿気かもしれない。
ただの染みかもしれない。
円は拭かなかった。
そのまま薄紙で包み、収蔵箱へ納める。
資料箱の蓋を閉じる音が、小さく部屋へ響いた。
仕事を終えて帰るころには、夕暮れが町を藍色へ染め始めていた。

円は玄関で靴を脱ぐと、そのまま鳥籠の前へ向かう。
二羽のボタンインコが止まり木から身を乗り出した。

「ただいま。」

蕎麦の実を小皿へ入れる。
赤嘴のボタンインコが先についばみ、青い方が少し遅れて隣へ寄ってきた。
嘴が小さく鳴る。
静かな部屋に、乾いた音だけが続く。
ベランダでは、いつものカラスが電線へ降りてきていた。
円は煮干しを一掴み手渡す。
器用に咥えると、羽を揺らして飛び去っていった。
神棚へ小さな皿を供える。
読経を終え、鈴の余韻が静かに消えていく。
やがて洗面所の鏡が、ゆっくり藍色へ沈んだ。
向こうから、焙煎したコーヒーの香りが流れてくる。
円は夕飯を並べた。
きゅうりとわかめの酢の物。
鯵の干物。
冷ややっこ。
温かい麦ご飯。
箸を手に取り、鏡へ目を向ける。

「今日ね。」

鯵の身をほぐしながら言った。

「河童は甘いものとお酒を覚えたから、皿を捨てて人間になったっていう話を聞いた。」

少し間があく。

『合理的だ。』

カイギデルの低い声が返る。

「合理的?」

『怪力を失っても構わん。』

『毎日使うものでもない。』

『菓子が食えて、酒が飲めるなら、その方が得だ。』

円は笑う。

「ずいぶん現実的なんだね。」

『現実でなければ生き残れん。』

鯵を一口食べる。

「お辞儀をしただけで力を失うような生活より。」

「人間の方が便利だったって。」

『そうだろうな。』

少し考えてから、カイギデルが続ける。

『円も怪力と菓子なら、菓子を選ぶ。』

「選ぶね。」

円は頷いた。

「私は最初から人間だけど。」

『ならば正しい選択だ。』

食卓へ静かな笑いが落ちる。
酢の物を口へ運ぶ。
きゅうりが小さく音を立てた。
食後。
円は食器を流しへ運ぶ。
洗い桶へ水を張る。
皿を沈めると、表面へ薄く油が広がった。
照明を受けて、膜がかすかに虹色を帯びる。
洗剤を一滴落とす。
油の境界がほどける。
静かに溶け合い、水へ消えていった。
円はスポンジを動かす。
白い皿を一枚ずつ洗う。
鏡の向こうから、カイギデルがぼそりと言った。

『礼をするだけで破れる膜など。』

少し間を置く。

『やはり不便だな。』

円は蛇口をひねる。
泡が流れていく。

「でも。」

水音の向こうで答える。

「川にいる間は、それで十分だったんだって。」

皿をすすぐ。
水滴が縁を伝う。

「十分だったから。」

「そこにいた。」

しばらく返事はなかった。
流れる水だけが台所へ響く。
やがて、カイギデルが静かに言う。

『十分なら、残る。』

もう一度、間があく。

『残ったからこそ。』

『遠くまで行けたのだな。』

円は答えなかった。
皿を立て、水を切る。
水切り籠へ伏せる。
一枚。
また一枚。
窓の外では、日が落ちていた。
世界を広げた人間の台所で。
白い皿が、静かに乾いていった。

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