茶処「円相」の夜は、最後の客が帰ってからもしばらく終わらない。
「ごちそうさま。」
山から来た老人が、空になった湯呑みを置いた。
「はい。お気をつけて。」
真壁円が戸口まで見送る。
老人は店の奥へ向かって一礼した。
炉に据えられた古い茶釜が、
……カン。
と蓋を鳴らした。
老人が笑う。
「また来る。」
暖簾の向こうへ姿が消えた。
円は外を見る。
白い湯気の筋が、夜の石畳から少しずつ薄れていく。
「今日はこれで終わりですね。」
……カン。
「では、片づけます。」
円は残った湯呑みを盆へ載せた。
水場へ運ぶ。
茶殻を捨てる。
布巾を洗う。
帳場を確かめる。
明日の釣銭も足りている。
冷蔵庫の温度も問題ない。
「店主さん。」
円は風呂敷を肩へ掛けた。
「明日は朝から来られません。」
茶釜は静かだった。
「午後には寄ります。」
……カン。
「はい。」
裏口を閉める。
足音が遠ざかる。
やがて聞こえなくなった。
店の中には、誰もいなくなった。
しばらくして。
古い柱時計が十二時を打った。
ぼん。
一つ。
ぼん。
二つ。
十二の音がすべて消える。
静寂。
その中で。
──コト。
棚の上から、小さな音がした。
「やれやれ。」
声を上げたのは急須だった。
「今日は百三十七杯。」
その隣で茶杓が身じろぎする。
「数えていたのか。」
「当然です。」
「暇じゃのう。」
「あなたに言われたくありません。」
「わしは忙しい。」
「昼間ずっと寝ていたでしょう。」
「寝とらん。置かれておった。」
「同じです。」
下の棚から、くすくすと笑い声がした。
湯呑みたちだった。
「また始まった。」
「毎晩だねえ。」
「仲がいいんだよ。」
「どこがですか。」
急須と茶杓の声が重なった。
店の奥。
炉の茶釜が、
──カン。
と一度鳴った。
途端に皆が静かになる。
「騒ぐなとは言わん。」
低い声がした。
「じゃが、少し声を落とせ。」
急須が不満そうに答える。
「誰もいませんよ。」
「鼠がおる。」
一同が黙った。
棚の下から、小さな鼠が一匹、顔を出した。
こちらを見ている。
「……聞かれましたかね。」
茶筅が小声で尋ねる。
「聞かれたところで、鼠じゃ。」
鉄瓶が答えた。
「それもそうですね。」
鼠は何事もなかったように床を走り、壁の穴へ消えた。
再び店がざわつき始める。
「それより。」
急須が言った。
「今日の最後のお客さん。」
「ああ、山の。」
「三煎目まで飲みました。」
「珍しいのう。」
「一煎目より三煎目の方が、顔がよかったです。」
湯呑みの一つが口を挟む。
「あの人、最初は手が冷たかったよ。」
「山なのに?」
「山だからでしょう。」
「今日は暑かったぞ。」
「上は違うんじゃない?」
「知らない。」
皆が好き勝手に言う。
鉄瓶だけがしばらく黙っていた。
「上の水は、まだ冷たい。」
「分かるのですか。」
「分かる。」
「どうして。」
「水じゃからな。」
急須が少し呆れた。
「説明になっていません。」
「おぬしも茶葉の香りなら分かるじゃろ。」
「それは分かります。」
「同じじゃ。」
急須は黙った。
納得したらしい。
茶釜は皆の話を聞きながら、静かに湯をたぎらせている。
「今日の茶葉ですが。」
急須が言った。
「少し開きが早かったです。」
「湿気じゃな。」
茶杓が答える。
「明日はもっと来る。」
茶筅が棚の上で細い身体を震わせた。
「では、少し軽く点てた方がよさそうですね。」
「朝はな。」
鉄瓶が言う。
「昼から風が変わる。」
「またですか。」
「東から来る。」
「雨?」
「そこまでは知らん。」
「水なのに。」
「水だから雨まで分かると思うな。」
湯呑みたちが笑った。
一つだけ、小さな湯呑みが黙っていた。
昼間、子どもが使っていたものだった。
茶釜が尋ねる。
「どうした。」
「今日ね。」
小さな湯呑みが言った。
「泣いてた子がいたでしょう。」
「ああ。」
「最初、ずっと両手で僕を握ってた。」
「熱くなかったか。」
「少し冷ましてもらったから。」
「そうか。」
「帰るときは、片手だったよ。」
急須が笑った。
「元気になったのですね。」
「たぶん。」
「なら、よかった。」
茶筅が言う。
「うん。」
小さな湯呑みも嬉しそうだった。
茶杓が話を戻した。
「明日の茶はどうする。」
「朝は今日と同じでよい。」
茶釜が答える。
「昼から少し軽くする。」
「茶葉を減らしますか。」
「ほんの少し。」
「湯は。」
鉄瓶が尋ねる。
「朝のうちに汲んでおけ。」
「承知した。」
「茶筅。」
「はい。」
「午後は柔らかく。」
「分かりました。」
「急須。」
「はい。」
「最初の香りを逃すな。」
急須が胸を張る。
「それはいつもです。」
「そうじゃったな。」
湯呑みたちがまた笑った。
そのとき。
店の外から、かすかな音がした。
から。
ころ。
何かが石畳を転がっている。
道具たちが一斉に黙る。
ころ。
から。
ころ。
音は店の前で止まった。
急須が小声で言う。
「お客さんでしょうか。」
茶釜は答えない。
白い湯気が一本、炉から伸びる。
戸口へ向かう。
格子戸の隙間を抜け、外へ出た。
しばらくして。
ころ。
小さなものが戸の隙間から入ってきた。
丸い石だった。
川原にいくらでもありそうな、灰色の石。
ころころと床を転がり、店の真ん中で止まる。
「石?」
茶筅が言った。
「石じゃな。」
鉄瓶が答える。
「見れば分かります。」
急須が言う。
「でも、どうして石が勝手に。」
石が、
ころ。
と一度だけ動いた。
皆が黙る。
茶釜から湯気が伸びた。
棚から一番小さな湯呑みが、ふわりと持ち上がる。
「え。」
「わ、私ですか?」
湯呑みが慌てる。
そのまま石の前へ置かれた。
続いて急須が持ち上がる。
「ちょ、ちょっと、ご主人さま。」
「頼む。」
「石ですよ。」
「見れば分かる。」
「さっき私が言った台詞です。」
「そうじゃったか。」
急須はぶつぶつ言いながら、湯呑みへ茶を注いだ。
石は動かない。
湯呑みの前にあるだけだった。
一分。
二分。
「飲みませんね。」
「石じゃからな。」
「ではなぜ出したのです。」
「来たからじゃ。」
茶釜はそれだけ言った。
しばらくすると。
石の表面に、小さな水滴が浮かんだ。
一滴。
二滴。
やがて灰色だった石が、雨に濡れたように黒くなっていく。
鉄瓶が低く言った。
「川の匂いがする。」
「川から来たのですか。」
「たぶんな。」
「何者でしょう。」
誰も答えなかった。
石は茶を飲まない。
動きもしない。
ただ、湯呑みの前にいる。
それでも茶釜は何も言わなかった。
追い返しもしなかった。
やがて東の空が、ほんの少し白み始めた。
ころ。
石が動いた。
来たときと同じように、ゆっくり床を転がる。
戸口へ向かう。
格子戸の隙間を抜ける。
最後に一度だけ止まった。
ころ。
まるで頭を下げたようだった。
そして夜明け前の通りへ消えていった。
急須が呟く。
「結局、何だったのでしょう。」
茶杓が言う。
「川のものだろう。」
鉄瓶が言う。
「石じゃ。」
茶筅が言う。
「それは見れば分かります。」
湯呑みが言う。
「でも、来たんだよね。」
皆が黙った。
茶釜が静かに答えた。
「そうじゃな。」
それ以上、誰も尋ねなかった。
東の空が明るくなる。
道具たちは一つずつ元の場所へ戻っていった。
急須は棚へ。
茶杓は筒へ。
茶筅はいつもの場所へ。
湯呑みたちは重ねられ。
鉄瓶も口を閉ざした。
最後に茶釜が蓋を閉じる。
──コト。
しばらくして、裏口が開いた。
「おはよう。」
婆さんの声がする。
「今日は暑いかねえ。」
もう一人が入ってくる。
「昨日もそれ言っとったよ。」
「今日の話だよ。」
「毎日暑いんだから一緒だろ。」
朝から賑やかだった。
一人が棚の急須を取る。
「ん?」
首をかしげる。
「どうしたの。」
「なんでもない。」
急須を鼻へ近づける。
「昨日より、なんかいい匂いするねえ。」
棚の上で、急須は何も答えない。
婆さんは次に、小さな湯呑みを手に取った。
底に一滴だけ、水が残っている。
「洗い残しかね。」
指で拭う。
匂いを嗅ぐ。
「川の匂いがする。」
「朝から何言っとるの。」
「そうかねえ。」
婆さんは笑って湯呑みを洗った。
店の奥では、古い茶釜がいつものように湯を沸かしている。
昨夜、誰が何を話していたのか。
何が店を訪れたのか。
人間は誰も知らない。
それで困ることはなかった。
暖簾が出る。
最初の客がやってくる。
「いらっしゃい。」
婆さんの声が響く。
奥で。
……カン。
今日もまた、道具たちは何食わぬ顔で、それぞれの仕事を始めた。