朝の茶処「円相」では、暖簾を出す前から笑い声がする。
「きゅうり、持ってきたよ。」
「また?」
「またって何よ。」
「この前も貰ったじゃないか。」
「うちで採れるんだから仕方ないだろ。」
「じゃあ漬物にするかね。」
「この前の漬物、まだあるよ。」
「じゃあ食べればいいじゃない。」
「だから増えるんだよ。」
三人の婆さんが、きゅうりの入った籠を囲んで笑っている。
その横には、昨日誰かが置いていった饅頭の箱。
棚の下には、大根が二本。
帳場の隅には、紙袋に入った乾燥椎茸まである。
誰が何を持ってきて、誰が何を持って帰ったのか。
きちんと記録している者はいない。
それでも不思議と、誰も損をした顔をしていなかった。
「ほら、まずお茶。」
一人が急須へ手を伸ばす。
その手が途中で止まった。
店の奥。
土間の炉に据えられた古い茶釜が、朝の火に温められている。
婆さんは少しだけ首をかしげた。
「ああ、いけない。」
「どうしたの。」
「なんでもない。」
棚から別の急須を取る。
若い手伝いがそれを見ていた。
「今の急須、使わないんですか?」
「使うよ。」
「じゃあ、どうして戻したんです?」
「どうしてって。」
婆さんは考えた。
少し考えて。
もっと考えて。
結局、笑った。
「昔からそうだから。」
「昔から?」
「うん。」
「何がです?」
「何がだろうねえ。」
隣の婆さんが口を挟む。
「うちの母親もそうしとったよ。」
「うちも。」
「祖母ちゃんもだ。」
「じゃあ決まりがあるんですか?」
三人が顔を見合わせた。
「知らん。」
「聞いたことないねえ。」
「でも、そうするんだよ。」
若い手伝いには、ますます分からなかった。
婆さんたちはもう話を終えたらしく、湯呑みを並べ始めている。
「ほら、あんたも飲みな。」
「開店前ですよ。」
「開店前だから飲むんだよ。」
「そういうものなんですか?」
「そういうもの。」
差し出された茶を飲む。
少し渋い。
けれど、朝の身体には妙にうまかった。
暖簾が出る。
一人目の客が来る。
近所の魚屋だった。
「暑いねえ。」
「朝からそればっかりだよ。」
「暑いもんは暑い。」
冷たい茶が出る。
二人目は郵便配達の男。
「一杯だけ。」
「はいよ。」
三人目は犬を連れた老夫婦。
四人目は買い物帰りの女。
その次は、学校が休みらしい子どもを連れた母親。
客が増えるたび、店の中の声も増えていく。
「この饅頭、誰の?」
「知らん。」
「食べていいの?」
「置いてあるんだからいいんじゃない?」
「雑だねえ。」
「じゃあ半分にする?」
「そういう問題?」
笑い声が上がる。
店の奥で、古い茶釜が湯を沸かしている。
しゅう。
湯気が天井へ昇る。
人の話し声。
茶碗の触れ合う音。
子どもの笑い声。
「ごちそうさま。」
「また来るね。」
「今日は疲れた。」
「このお茶、うまいねえ。」
そんな声の一つ一つを拾うように、白い湯気が店の中をゆっくり巡っていた。
昼前。
……カン。
茶釜の蓋が鳴った。
婆さんの一人が話を止める。
「あら。」
棚を見る。
まだ茶葉は残っている。
缶を持ち上げ、匂いを嗅いだ。
「これ、替えようか。」
若い手伝いが驚いた。
「まだありますよ。」
「あるね。」
「もったいなくないですか?」
「捨てやしないよ。うちらで飲む。」
「じゃあ、どうして。」
婆さんは新しい茶葉を出した。
「替え時なんだよ。」
「何を見て分かるんです?」
「さあ。」
「さあって。」
「昔からそうだから。」
また、それだった。
新しい茶葉で淹れた茶を、山仕事帰りの男が飲んだ。
一杯。
もう一杯。
「今日はよく飲むね。」
婆さんが言う。
「山が乾いとる。」
男が答える。
「風も熱い。」
「じゃあもう一杯飲んでいきな。」
「もらおうか。」
三杯目を飲み終えた頃には、男の顔から疲れが少し消えていた。
午後。
白い湯気が、いつもより低く流れ始めた。
床近くを這い、格子戸の隙間から外へ出ていく。
婆さんの一人がそれを見る。
「今日は外、しまおう。」
若い手伝いが外を見た。
青空だった。
「雨、降りそうにないですよ。」
「雨じゃない。」
「風ですか?」
「さあ。」
「じゃあ、なんで。」
婆さんは外の椅子を持ち上げた。
「今日は中。」
他の二人も手伝い始める。
理由を聞く者はいない。
若い手伝いだけが首をかしげながら、最後の椅子を運び込んだ。
夕方。
山から乾いた風が吹き下ろした。
細かな砂が通りを走る。
軒先の植木鉢が揺れた。
向かいの店が慌てて商品を中へ入れる。
円相の外席は、すでに片づいていた。
「あ。」
若い手伝いが外を見る。
「風。」
婆さんは湯呑みを拭きながら頷いた。
「来たねえ。」
「分かってたんですか?」
「何が?」
「風です。」
「さあねえ。」
「でも椅子を。」
「汚れなくてよかったじゃない。」
それで終わった。
夕方の客が帰り始める。
代わりに、別のものたちが通りへ現れた。
人間には見えないものもいる。
見えても、人間にしか見えないものもいる。
やがて、若い男が一人やってきた。
見慣れない顔だった。
旅装のような上着を着ているが、髪の間から小さな角が二本覗いている。
暖簾の前で少し立ち止まり、中の様子を窺う。
「入っていいか。」
「どうぞ。」
婆さんが答えた。
若い男は軽く頭を下げ、空いている席へ腰を下ろした。
若い手伝いが目を丸くする。
「え。」
声が漏れる。
婆さんが振り返る。
「どうしたの。」
「あの人。」
「お客さん?」
「角が。」
婆さんは若い男を見る。
「ああ。」
それから若い手伝いを見る。
「あるねえ。」
「あるねえって。」
「ぶつけんように気をつけてもらえばいいよ。」
「そこなんですか?」
「ほかに何があるの。」
若い男は聞こえていたらしい。
少し気まずそうに頭を下げた。
「気をつける。」
「はいよ。」
茶が出た。
次に、川の匂いをまとった女が来た。
その次は、小柄な狸。
山の老人も来る。
昼間と同じ席へ座る。
昼間と同じ湯呑みで茶を飲む。
婆さんたちは誰にも名前を尋ねない。
何者かも聞かない。
茶が薄ければ淹れ直す。
腹が減っていれば菓子を出す。
濡れていれば手拭いを渡す。
それだけだった。
若い手伝いは、しばらく黙って見ていた。
「怖くないんですか。」
小声で尋ねる。
「何が。」
「その……。」
角のある客を見る。
婆さんも見る。
「おとなしく茶飲んどるよ。」
「でも。」
「客だろ。」
「そうですけど。」
「ならいいじゃない。」
婆さんは急須を持ち上げた。
「あの子、もう空だよ。」
「あ。」
「ほら、注いできな。」
若い手伝いは急須を受け取った。
恐る恐る近づく。
「お、おかわり、いかがですか。」
角の男が湯呑みを差し出した。
「もらう。」
茶を注ぐ。
「ありがとう。」
「いえ。」
戻ってくる。
婆さんが笑う。
「できたじゃない。」
「……はい。」
「簡単だろ。」
若い手伝いは少し考えた。
「簡単というか。」
「難しくするから難しいんだよ。」
それだけ言って、婆さんは次の客のところへ行った。
夜。
婆さんたちが帰る時間になった。
「じゃあ店主さん、お先に。」
「円ちゃん来るまで頼むよ。」
「明日は暑いかねえ。」
奥の茶釜が、
……カン。
と鳴った。
「暑いって。」
「ほんとかね。」
「知らん。」
笑いながら帰っていく。
若い手伝いも帰り支度をした。
戸口で一度振り返る。
怪異たちはまだ茶を飲んでいる。
古い茶釜から白い湯気が上がっている。
「明日も来ていいですか。」
婆さんの一人が不思議そうに見る。
「仕事なんだから来なさいよ。」
「あ、はい。」
「何言っとるの。」
また笑われた。
夜が深くなった。
真壁円がやってくる頃には、昼間の喧騒はもう残っていなかった。
「こんばんは。」
……カン。
円は奥へ入る。
怪異の客へ茶を出し、空いた器を下げる。
やがて最後の一人も帰った。
店が静かになる。
円が帳場を片づけていると、ふと手を止めた。
「店主さん。」
返事はない。
「今日は賑やかでしたね。」
……カン。
円は笑った。
「外まで聞こえてました。」
昼間の婆さんたちの笑い声。
子どもの声。
魚屋の声。
山仕事の男。
若い手伝いの戸惑った声。
夜になってやってきた怪異たち。
今はもう、誰もいない。
それなのに店の中には、まだ何かが残っていた。
白い湯気が上がる。
いつもより、少しだけ柔らかい。
梁の下を巡り。
棚を撫で。
空になった席の間を抜けていく。
円には、その湯気の中に昼間の笑い声が混じっているように思えた。
「あはは。」
「またきゅうり?」
「渋っ。」
「もう一杯。」
「ありがとう。」
本当に聞こえたわけではない。
ただ、そんな気がした。
円は茶釜の前へ座った。
「店主さんが皆さんを元気にしてるんだと思ってました。」
湯が小さく鳴る。
「でも。」
円は店の中を見る。
「皆さんも、店主さんを元気にしてるんですね。」
しゅう。
茶釜から湯気が立った。
それは否定にも肯定にも見えた。
外の通りでは、黒い影が一つ、店へ近づこうとしていた。
人の形ではない。
獣の形でもない。
何年も湿った穴の底にいたような、重く冷たい気配だった。
影が白い湯気へ触れる。
止まる。
店の中から、かすかな気配が漏れている。
笑い声。
茶碗の音。
誰かの「おいしい」。
誰かの「また来る」。
婆さんたちの、遠慮のない大笑い。
影はしばらくそこにいた。
入れないわけではない。
何かに拒まれているわけでもない。
ただ。
どうにも居心地が悪そうに身を縮めた。
やがて踵を返し、暗い路地の奥へ戻っていった。
円は気づかなかった。
茶釜だけが、静かに湯を沸かしていた。
翌朝。
「おはよう、店主さん。」
最初の婆さんが戸を開ける。
……カン。
「今日は暑いかねえ。」
返事はない。
「昨日は暑いって言ったじゃない。」
二人目の婆さんが入ってくる。
「釜がそんなこと言うわけないだろ。」
「言ったよ。」
「カンって鳴っただけじゃない。」
「じゃあ暑いってことだよ。」
「適当だねえ。」
「昔からこうだよ。」
三人目もやってきた。
また笑い声が始まる。
昨日の若い手伝いが、その後から入ってきた。
婆さんたちはもう茶を淹れている。
「ほら。」
一つの湯呑みが差し出された。
「朝のお茶。」
若い手伝いは受け取った。
昨日より、少しだけ自然に。
「いただきます。」
茶を飲む。
店の奥では、古い茶釜が湯を沸かしている。
誰が最初に誰を支えたのか。
そんなことを知っている者はいない。
茶釜が湯を沸かすから、人が集まる。
人が集まるから、笑い声が生まれる。
笑い声が残るから、店は温かい。
温かい店だから、人も怪異もまたやってくる。
婆さんたちは、そんなことを考えない。
今日も茶を淹れる。
客が来れば迎える。
分からないことがあれば、
「昔からそうだから。」
と笑う。
奥で。
……カン。
古い茶釜の蓋が鳴った。
「はいはい。」
婆さんが答えた。
それで今日も、円相の一日が始まった。