3話 「笑い声の湯気」

茶処 円相

朝の茶処「円相」では、暖簾を出す前から笑い声がする。

「きゅうり、持ってきたよ。」

「また?」

「またって何よ。」

「この前も貰ったじゃないか。」

「うちで採れるんだから仕方ないだろ。」

「じゃあ漬物にするかね。」

「この前の漬物、まだあるよ。」

「じゃあ食べればいいじゃない。」

「だから増えるんだよ。」

三人の婆さんが、きゅうりの入った籠を囲んで笑っている。

その横には、昨日誰かが置いていった饅頭の箱。

棚の下には、大根が二本。

帳場の隅には、紙袋に入った乾燥椎茸まである。

誰が何を持ってきて、誰が何を持って帰ったのか。

きちんと記録している者はいない。

それでも不思議と、誰も損をした顔をしていなかった。

「ほら、まずお茶。」

一人が急須へ手を伸ばす。

その手が途中で止まった。

店の奥。

土間の炉に据えられた古い茶釜が、朝の火に温められている。

婆さんは少しだけ首をかしげた。

「ああ、いけない。」

「どうしたの。」

「なんでもない。」

棚から別の急須を取る。

若い手伝いがそれを見ていた。

「今の急須、使わないんですか?」

「使うよ。」

「じゃあ、どうして戻したんです?」

「どうしてって。」

婆さんは考えた。

少し考えて。

もっと考えて。

結局、笑った。

「昔からそうだから。」

「昔から?」

「うん。」

「何がです?」

「何がだろうねえ。」

隣の婆さんが口を挟む。

「うちの母親もそうしとったよ。」

「うちも。」

「祖母ちゃんもだ。」

「じゃあ決まりがあるんですか?」

三人が顔を見合わせた。

「知らん。」

「聞いたことないねえ。」

「でも、そうするんだよ。」

若い手伝いには、ますます分からなかった。

婆さんたちはもう話を終えたらしく、湯呑みを並べ始めている。

「ほら、あんたも飲みな。」

「開店前ですよ。」

「開店前だから飲むんだよ。」

「そういうものなんですか?」

「そういうもの。」

差し出された茶を飲む。

少し渋い。

けれど、朝の身体には妙にうまかった。

暖簾が出る。

一人目の客が来る。

近所の魚屋だった。

「暑いねえ。」

「朝からそればっかりだよ。」

「暑いもんは暑い。」

冷たい茶が出る。

二人目は郵便配達の男。

「一杯だけ。」

「はいよ。」

三人目は犬を連れた老夫婦。

四人目は買い物帰りの女。

その次は、学校が休みらしい子どもを連れた母親。

客が増えるたび、店の中の声も増えていく。

「この饅頭、誰の?」

「知らん。」

「食べていいの?」

「置いてあるんだからいいんじゃない?」

「雑だねえ。」

「じゃあ半分にする?」

「そういう問題?」

笑い声が上がる。

店の奥で、古い茶釜が湯を沸かしている。

しゅう。

湯気が天井へ昇る。

人の話し声。

茶碗の触れ合う音。

子どもの笑い声。

「ごちそうさま。」

「また来るね。」

「今日は疲れた。」

「このお茶、うまいねえ。」

そんな声の一つ一つを拾うように、白い湯気が店の中をゆっくり巡っていた。

昼前。

……カン。

茶釜の蓋が鳴った。

婆さんの一人が話を止める。

「あら。」

棚を見る。

まだ茶葉は残っている。

缶を持ち上げ、匂いを嗅いだ。

「これ、替えようか。」

若い手伝いが驚いた。

「まだありますよ。」

「あるね。」

「もったいなくないですか?」

「捨てやしないよ。うちらで飲む。」

「じゃあ、どうして。」

婆さんは新しい茶葉を出した。

「替え時なんだよ。」

「何を見て分かるんです?」

「さあ。」

「さあって。」

「昔からそうだから。」

また、それだった。

新しい茶葉で淹れた茶を、山仕事帰りの男が飲んだ。

一杯。

もう一杯。

「今日はよく飲むね。」

婆さんが言う。

「山が乾いとる。」

男が答える。

「風も熱い。」

「じゃあもう一杯飲んでいきな。」

「もらおうか。」

三杯目を飲み終えた頃には、男の顔から疲れが少し消えていた。

午後。

白い湯気が、いつもより低く流れ始めた。

床近くを這い、格子戸の隙間から外へ出ていく。

婆さんの一人がそれを見る。

「今日は外、しまおう。」

若い手伝いが外を見た。

青空だった。

「雨、降りそうにないですよ。」

「雨じゃない。」

「風ですか?」

「さあ。」

「じゃあ、なんで。」

婆さんは外の椅子を持ち上げた。

「今日は中。」

他の二人も手伝い始める。

理由を聞く者はいない。

若い手伝いだけが首をかしげながら、最後の椅子を運び込んだ。

夕方。

山から乾いた風が吹き下ろした。

細かな砂が通りを走る。

軒先の植木鉢が揺れた。

向かいの店が慌てて商品を中へ入れる。

円相の外席は、すでに片づいていた。

「あ。」

若い手伝いが外を見る。

「風。」

婆さんは湯呑みを拭きながら頷いた。

「来たねえ。」

「分かってたんですか?」

「何が?」

「風です。」

「さあねえ。」

「でも椅子を。」

「汚れなくてよかったじゃない。」

それで終わった。

夕方の客が帰り始める。

代わりに、別のものたちが通りへ現れた。

人間には見えないものもいる。

見えても、人間にしか見えないものもいる。

やがて、若い男が一人やってきた。

見慣れない顔だった。

旅装のような上着を着ているが、髪の間から小さな角が二本覗いている。

暖簾の前で少し立ち止まり、中の様子を窺う。

「入っていいか。」

「どうぞ。」

婆さんが答えた。

若い男は軽く頭を下げ、空いている席へ腰を下ろした。

若い手伝いが目を丸くする。

「え。」

声が漏れる。

婆さんが振り返る。

「どうしたの。」

「あの人。」

「お客さん?」

「角が。」

婆さんは若い男を見る。

「ああ。」

それから若い手伝いを見る。

「あるねえ。」

「あるねえって。」

「ぶつけんように気をつけてもらえばいいよ。」

「そこなんですか?」

「ほかに何があるの。」

若い男は聞こえていたらしい。

少し気まずそうに頭を下げた。

「気をつける。」

「はいよ。」

茶が出た。

次に、川の匂いをまとった女が来た。

その次は、小柄な狸。

山の老人も来る。

昼間と同じ席へ座る。

昼間と同じ湯呑みで茶を飲む。

婆さんたちは誰にも名前を尋ねない。

何者かも聞かない。

茶が薄ければ淹れ直す。

腹が減っていれば菓子を出す。

濡れていれば手拭いを渡す。

それだけだった。

若い手伝いは、しばらく黙って見ていた。

「怖くないんですか。」

小声で尋ねる。

「何が。」

「その……。」

角のある客を見る。

婆さんも見る。

「おとなしく茶飲んどるよ。」

「でも。」

「客だろ。」

「そうですけど。」

「ならいいじゃない。」

婆さんは急須を持ち上げた。

「あの子、もう空だよ。」

「あ。」

「ほら、注いできな。」

若い手伝いは急須を受け取った。

恐る恐る近づく。

「お、おかわり、いかがですか。」

角の男が湯呑みを差し出した。

「もらう。」

茶を注ぐ。

「ありがとう。」

「いえ。」

戻ってくる。

婆さんが笑う。

「できたじゃない。」

「……はい。」

「簡単だろ。」

若い手伝いは少し考えた。

「簡単というか。」

「難しくするから難しいんだよ。」

それだけ言って、婆さんは次の客のところへ行った。

夜。

婆さんたちが帰る時間になった。

「じゃあ店主さん、お先に。」

「円ちゃん来るまで頼むよ。」

「明日は暑いかねえ。」

奥の茶釜が、

……カン。

と鳴った。

「暑いって。」

「ほんとかね。」

「知らん。」

笑いながら帰っていく。

若い手伝いも帰り支度をした。

戸口で一度振り返る。

怪異たちはまだ茶を飲んでいる。

古い茶釜から白い湯気が上がっている。

「明日も来ていいですか。」

婆さんの一人が不思議そうに見る。

「仕事なんだから来なさいよ。」

「あ、はい。」

「何言っとるの。」

また笑われた。

夜が深くなった。

真壁円がやってくる頃には、昼間の喧騒はもう残っていなかった。

「こんばんは。」

……カン。

円は奥へ入る。

怪異の客へ茶を出し、空いた器を下げる。

やがて最後の一人も帰った。

店が静かになる。

円が帳場を片づけていると、ふと手を止めた。

「店主さん。」

返事はない。

「今日は賑やかでしたね。」

……カン。

円は笑った。

「外まで聞こえてました。」

昼間の婆さんたちの笑い声。

子どもの声。

魚屋の声。

山仕事の男。

若い手伝いの戸惑った声。

夜になってやってきた怪異たち。

今はもう、誰もいない。

それなのに店の中には、まだ何かが残っていた。

白い湯気が上がる。

いつもより、少しだけ柔らかい。

梁の下を巡り。

棚を撫で。

空になった席の間を抜けていく。

円には、その湯気の中に昼間の笑い声が混じっているように思えた。

「あはは。」

「またきゅうり?」

「渋っ。」

「もう一杯。」

「ありがとう。」

本当に聞こえたわけではない。

ただ、そんな気がした。

円は茶釜の前へ座った。

「店主さんが皆さんを元気にしてるんだと思ってました。」

湯が小さく鳴る。

「でも。」

円は店の中を見る。

「皆さんも、店主さんを元気にしてるんですね。」

しゅう。

茶釜から湯気が立った。

それは否定にも肯定にも見えた。

外の通りでは、黒い影が一つ、店へ近づこうとしていた。

人の形ではない。

獣の形でもない。

何年も湿った穴の底にいたような、重く冷たい気配だった。

影が白い湯気へ触れる。

止まる。

店の中から、かすかな気配が漏れている。

笑い声。

茶碗の音。

誰かの「おいしい」。

誰かの「また来る」。

婆さんたちの、遠慮のない大笑い。

影はしばらくそこにいた。

入れないわけではない。

何かに拒まれているわけでもない。

ただ。

どうにも居心地が悪そうに身を縮めた。

やがて踵を返し、暗い路地の奥へ戻っていった。

円は気づかなかった。

茶釜だけが、静かに湯を沸かしていた。

翌朝。

「おはよう、店主さん。」

最初の婆さんが戸を開ける。

……カン。

「今日は暑いかねえ。」

返事はない。

「昨日は暑いって言ったじゃない。」

二人目の婆さんが入ってくる。

「釜がそんなこと言うわけないだろ。」

「言ったよ。」

「カンって鳴っただけじゃない。」

「じゃあ暑いってことだよ。」

「適当だねえ。」

「昔からこうだよ。」

三人目もやってきた。

また笑い声が始まる。

昨日の若い手伝いが、その後から入ってきた。

婆さんたちはもう茶を淹れている。

「ほら。」

一つの湯呑みが差し出された。

「朝のお茶。」

若い手伝いは受け取った。

昨日より、少しだけ自然に。

「いただきます。」

茶を飲む。

店の奥では、古い茶釜が湯を沸かしている。

誰が最初に誰を支えたのか。

そんなことを知っている者はいない。

茶釜が湯を沸かすから、人が集まる。

人が集まるから、笑い声が生まれる。

笑い声が残るから、店は温かい。

温かい店だから、人も怪異もまたやってくる。

婆さんたちは、そんなことを考えない。

今日も茶を淹れる。

客が来れば迎える。

分からないことがあれば、

「昔からそうだから。」

と笑う。

奥で。

……カン。

古い茶釜の蓋が鳴った。

「はいはい。」

婆さんが答えた。

それで今日も、円相の一日が始まった。

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