夕暮れ時の茶処「円相」は、昼とも夜ともつかない。
買い物帰りの婆さんが、最後の羊羹をつついている。
学校帰りの高校生が二人、季節限定の抹茶パフェを挟んで写真を撮っている。
犬を連れた夫婦が店先で立ち話をしている。
少し離れたバス停では、仕事帰りの男が時刻表を眺めていた。
どこにでもある町の夕方だった。
店の奥では、古い茶釜が湯を沸かしている。
しゅう。
白い湯気が立つ。
それは天井へ昇り、梁に触れ、ゆっくりと店先へ流れていった。
人間の目には、ただの湯気にしか見えない。
けれど、人ならざるものには違って見えた。
白い筋は暖簾を越え、軒下を這い、犬走をなぞる。
そこから石畳へ降りて、通りの端をゆっくり進んでいく。
古い街灯。
植木鉢。
バス停の錆びた支柱。
それらを一つずつ結ぶように、薄い湯気が夕暮れの町へ広がっていった。
山から下りてきた老人が、それを見つけて足を止めた。
人の姿をしている。
だが、首筋の皮膚には樹皮のような筋があり、杖を突くたび、乾いた葉の匂いがした。
「おや。」
老人は目を細める。
「今夜も席が開いたか。」
暖簾をくぐった。
誰も驚かなかった。
「いらっしゃい。」
婆さんが言った。
「いつもの?」
「いや。今日は少し軽いのを頼む。」
「山、暑かったかね。」
「暑かった。」
それだけの会話だった。
少し遅れて、若い女がやってきた。
白いブラウスに長いスカート。
髪を後ろでまとめ、どこから見ても普通の人間に見える。
ただし、暖簾の手前で一度立ち止まった。
背後から、ふわりと一本の尾が現れる。
「あ。」
女は慌てて振り返った。
尾を押さえる。
周囲を見る。
誰も見ていない。
いや。
山の老人だけが見ていた。
老人は茶をすすりながら、何も言わなかった。
女は咳払いを一つして、尾を隠す。
それから暖簾へ向き直った。
「お邪魔します。」
「はいよ。」
婆さんが答える。
席へ着くと、すぐに茶が出た。
女は茶碗を両手で包んだ。
一口。
肩の力が抜ける。
もう一口。
背筋から余計な緊張が消えていく。
人の姿を保つことをやめたわけではない。
狐へ戻ったわけでもない。
ただ、尾が出ないように必死で力を込める必要がなくなった。
ここでは、人間であるふりを完璧にする必要がない。
かといって、
「狐なら狐らしくしろ」
と言われることもない。
女は小さく息を吐いた。
「おいしい。」
奥で。
……カン。
古い茶釜の蓋が鳴った。
その頃、店先では高校生たちがまだパフェを食べていた。
「抹茶濃っ。」
「そこがいいんじゃん。」
「写真より緑じゃない?」
「加工したら一緒。」
二人が笑う。
そのすぐ横を、川霧をまとった女が通った。
高校生には見えない。
女は店へ入ろうとして――
白い湯気の筋の前で止まった。
線を跨ぐことはできる。
結界ではない。
触れても焼けない。
押し返されることもない。
それでも女は、そのまま入らなかった。
乱れていた襟を整える。
濡れた髪を手で払う。
それから一礼した。
「お邪魔いたします。」
白い線を越える。
山の老人が少しだけ席を詰めた。
川の女はその隣へ座った。
「円ちゃん。」
店の奥から婆さんの声がした。
「はい。」
真壁円が盆を持って出てくる。
「外の二人にもお茶持ってって。」
「パフェの二人ですか。」
「そう。甘いのばっかりじゃ喉乾くだろ。」
「分かりました。」
円は小さな湯呑みを二つ盆へ載せた。
高校生たちのところへ持っていく。
「よかったら、どうぞ。」
「え、いいんですか?」
「お店からです。」
「ありがとうございます。」
二人が受け取る。
一人がすぐに口をつけた。
「渋っ。」
もう一人も飲む。
「あ、でもパフェ食べたあとだと美味しい。」
「ほんとだ。」
二人はまた笑った。
その瞬間。
狐の女がちらりと外を見た。
山の老人も見る。
川の女も見る。
先ほどまで彼らにとって高校生たちは、ただそこにいる人間だった。
今は少し違う。
同じ席にいる客だった。
「不思議ですね。」
円が呟いた。
隣にいた婆さんが振り返る。
「何が?」
「いえ。」
円は空になった盆を抱え直した。
「何でもないです。」
婆さんは気にせず、羊羹の残りを口へ放り込んだ。
日が沈む。
人間の客が少しずつ減っていく。
その代わり、別の客が増え始めた。
古い帽子をかぶった狸。
袖口から細い蔓を覗かせた男。
影だけが妙に長い子ども。
皆、白い湯気の線を越えてやってくる。
名乗る者はいない。
婆さんたちも尋ねない。
山の何者なのか。
川の何者なのか。
何年生きているのか。
何をしてきたのか。
そんなことは、茶を出すのに必要なかった。
一人の若い怪異が、通りの向こうからやってきた。
まだこの辺りに慣れていないらしい。
白い湯気を見る。
首をかしげる。
そのまま近道をするように、店先を斜めに横切ろうとした。
「坊。」
声をかけたのは、古い帽子の狸だった。
「そこは席の中じゃ。」
若い怪異が止まる。
「席?」
「そうじゃ。」
「道だろ。」
「昼はな。」
狸は茶を一口飲んだ。
「今は席じゃ。」
若い怪異は辺りを見回した。
高校生がいる。
犬を連れた夫婦がいる。
バスを待つ会社員がいる。
狐がいる。
川の女がいる。
山の老人がいる。
畳など、どこにもない。
床の間もない。
茶室らしいものは何一つない。
「どこまで?」
若い怪異が尋ねる。
狸は白い湯気を指した。
「見えるじゃろ。」
若い怪異はしばらく考えた。
それから一度、来た道を戻った。
湯気の外へ出る。
今度は店の正面まで歩き、暖簾の前で軽く頭を下げた。
「邪魔する。」
「はいよ。」
婆さんが答えた。
誰も褒めなかった。
誰も教訓を言わなかった。
それで済んだ。
完全に夜になった頃。
最後の人間客が帰っていった。
婆さんたちも店じまいを始める。
「円ちゃん、あとは頼んだよ。」
「はい。」
「店主さんもね。」
奥の茶釜へ声をかける。
……カン。
「はいはい。」
婆さんたちは笑いながら帰っていった。
円は暖簾を片づけた。
けれど、店は閉まらなかった。
むしろ、ここからがもう一つの時間だった。
白い湯気の中に、山のものも、川のものも、町の隅に住むものも座っている。
狐の女はもう尾を隠していなかった。
一本の尾を椅子の横へ垂らし、のんびり茶を飲んでいる。
誰も気にしない。
円も何も言わない。
そのときだった。
通りの奥から、重い足音が聞こえた。
ずるり。
ずるり。
笑い声が消えた。
山の老人が茶碗を置く。
狐の耳が立つ。
狸が帽子の下から目を細めた。
白い湯気の向こうに、大きな影が現れた。
人の形に近い。
だが大きすぎる。
肩は戸口より広く、長い腕が地面近くまで垂れている。
腹がひどく痩せていた。
影が一歩近づくたび、
腹の奥から、
ぐう。
と低い音がした。
「腹が減った。」
誰に向けるでもなく、怪異が言った。
「ひどく、腹が減った。」
狐の女が立ち上がりかけた。
山の老人も杖へ手を置く。
円は動かなかった。
奥の茶釜を見る。
湯が鳴っている。
いつもと同じ音だった。
怪異が白い湯気の前まで来た。
止まる。
向こう側には、大勢のものがいる。
人ではないもの。
人だったもの。
人に見えるもの。
どれも食える。
少なくとも、その怪異にとってはそうだった。
長い指が動く。
一歩、踏み出しかける。
そのとき。
……カン。
店の奥で、茶釜の蓋が鳴った。
円が一つの茶碗を用意した。
茶葉を入れる。
湯を注ぐ。
しばらく待つ。
それから怪異の前へ置いた。
「どうぞ。」
怪異は茶碗を見る。
円を見る。
「わしにか。」
「はい。」
「わしが何か、分かっているのか。」
「分かりません。」
「なら、なぜ出す。」
円は少し考えた。
「来られたので。」
それだけ答えた。
怪異は動かない。
誰も押さえつけない。
誰も、
飲め、
とは言わない。
白い湯気の線は、怪異の足元にある。
後ろへ下がれば、そのまま夜の町へ戻れる。
茶碗を取る必要はない。
席へ入る必要もない。
長い沈黙のあと。
怪異は地面へ腰を下ろした。
大きな指で、小さな茶碗を持つ。
一口飲んだ。
ぐう。
また腹が鳴った。
何も変わらない。
腹は減ったままだった。
牙も消えない。
爪も短くならない。
怪異が怪異でなくなったわけではない。
二口目を飲む。
肩が少し下がった。
三口目。
長い腕が膝の上へ置かれた。
腹の底にあった飢えが消えたわけではない。
ただ。
その飢えが、ひとまず席へ腰を下ろした。
狸が何事もなかったように茶をすすった。
狐の女も座り直す。
山の老人は杖から手を離した。
円は次の客の茶を用意した。
誰も怪異を見張らない。
怪異も誰にも手を伸ばさなかった。
しばらくして。
大きな怪異が空になった茶碗を置いた。
「……馳走になった。」
円が頭を下げる。
「お粗末さまでした。」
怪異は立ち上がった。
白い湯気のところまで歩く。
そこで一度止まった。
振り返る。
店の奥。
煤けた古い茶釜へ向かって、ぎこちなく頭を下げた。
それから夜の闇へ消えていった。
円はしばらくその背中を見送った。
「店主さん。」
……カン。
「おとなしくさせたわけじゃないんですね。」
返事はない。
炉の火が赤く揺れている。
円は先ほどの茶碗を手に取った。
まだ少し温かい。
「客として迎えただけですか。」
しゅう、と。
茶釜から白い湯気が立った。
店先では、若い怪異が狸の真似をして茶碗を両手で持っている。
川の女が静かに笑っている。
狐は尾を揺らしている。
山の老人は目を閉じている。
誰が人で。
誰が怪異で。
誰が山から来て。
誰が川から来たのか。
その違いは消えていない。
消す必要もなかった。
今ここにいる間だけは、皆、同じだった。
客だった。
円は新しい茶碗を一つ出した。
「次の方、どうぞ。」
奥で。
……カン。
茶釜の蓋が、小さく鳴った。