2話 「客として迎えられる一杯」

茶処 円相

夕暮れ時の茶処「円相」は、昼とも夜ともつかない。

買い物帰りの婆さんが、最後の羊羹をつついている。

学校帰りの高校生が二人、季節限定の抹茶パフェを挟んで写真を撮っている。

犬を連れた夫婦が店先で立ち話をしている。

少し離れたバス停では、仕事帰りの男が時刻表を眺めていた。

どこにでもある町の夕方だった。

店の奥では、古い茶釜が湯を沸かしている。

しゅう。

白い湯気が立つ。

それは天井へ昇り、梁に触れ、ゆっくりと店先へ流れていった。

人間の目には、ただの湯気にしか見えない。

けれど、人ならざるものには違って見えた。

白い筋は暖簾を越え、軒下を這い、犬走をなぞる。

そこから石畳へ降りて、通りの端をゆっくり進んでいく。

古い街灯。

植木鉢。

バス停の錆びた支柱。

それらを一つずつ結ぶように、薄い湯気が夕暮れの町へ広がっていった。

山から下りてきた老人が、それを見つけて足を止めた。

人の姿をしている。

だが、首筋の皮膚には樹皮のような筋があり、杖を突くたび、乾いた葉の匂いがした。

「おや。」

老人は目を細める。

「今夜も席が開いたか。」

暖簾をくぐった。

誰も驚かなかった。

「いらっしゃい。」

婆さんが言った。

「いつもの?」

「いや。今日は少し軽いのを頼む。」

「山、暑かったかね。」

「暑かった。」

それだけの会話だった。

少し遅れて、若い女がやってきた。

白いブラウスに長いスカート。

髪を後ろでまとめ、どこから見ても普通の人間に見える。

ただし、暖簾の手前で一度立ち止まった。

背後から、ふわりと一本の尾が現れる。

「あ。」

女は慌てて振り返った。

尾を押さえる。

周囲を見る。

誰も見ていない。

いや。

山の老人だけが見ていた。

老人は茶をすすりながら、何も言わなかった。

女は咳払いを一つして、尾を隠す。

それから暖簾へ向き直った。

「お邪魔します。」

「はいよ。」

婆さんが答える。

席へ着くと、すぐに茶が出た。

女は茶碗を両手で包んだ。

一口。

肩の力が抜ける。

もう一口。

背筋から余計な緊張が消えていく。

人の姿を保つことをやめたわけではない。

狐へ戻ったわけでもない。

ただ、尾が出ないように必死で力を込める必要がなくなった。

ここでは、人間であるふりを完璧にする必要がない。

かといって、

「狐なら狐らしくしろ」

と言われることもない。

女は小さく息を吐いた。

「おいしい。」

奥で。

……カン。

古い茶釜の蓋が鳴った。

その頃、店先では高校生たちがまだパフェを食べていた。

「抹茶濃っ。」

「そこがいいんじゃん。」

「写真より緑じゃない?」

「加工したら一緒。」

二人が笑う。

そのすぐ横を、川霧をまとった女が通った。

高校生には見えない。

女は店へ入ろうとして――

白い湯気の筋の前で止まった。

線を跨ぐことはできる。

結界ではない。

触れても焼けない。

押し返されることもない。

それでも女は、そのまま入らなかった。

乱れていた襟を整える。

濡れた髪を手で払う。

それから一礼した。

「お邪魔いたします。」

白い線を越える。

山の老人が少しだけ席を詰めた。

川の女はその隣へ座った。

「円ちゃん。」

店の奥から婆さんの声がした。

「はい。」

真壁円が盆を持って出てくる。

「外の二人にもお茶持ってって。」

「パフェの二人ですか。」

「そう。甘いのばっかりじゃ喉乾くだろ。」

「分かりました。」

円は小さな湯呑みを二つ盆へ載せた。

高校生たちのところへ持っていく。

「よかったら、どうぞ。」

「え、いいんですか?」

「お店からです。」

「ありがとうございます。」

二人が受け取る。

一人がすぐに口をつけた。

「渋っ。」

もう一人も飲む。

「あ、でもパフェ食べたあとだと美味しい。」

「ほんとだ。」

二人はまた笑った。

その瞬間。

狐の女がちらりと外を見た。

山の老人も見る。

川の女も見る。

先ほどまで彼らにとって高校生たちは、ただそこにいる人間だった。

今は少し違う。

同じ席にいる客だった。

「不思議ですね。」

円が呟いた。

隣にいた婆さんが振り返る。

「何が?」

「いえ。」

円は空になった盆を抱え直した。

「何でもないです。」

婆さんは気にせず、羊羹の残りを口へ放り込んだ。

日が沈む。

人間の客が少しずつ減っていく。

その代わり、別の客が増え始めた。

古い帽子をかぶった狸。

袖口から細い蔓を覗かせた男。

影だけが妙に長い子ども。

皆、白い湯気の線を越えてやってくる。

名乗る者はいない。

婆さんたちも尋ねない。

山の何者なのか。

川の何者なのか。

何年生きているのか。

何をしてきたのか。

そんなことは、茶を出すのに必要なかった。

一人の若い怪異が、通りの向こうからやってきた。

まだこの辺りに慣れていないらしい。

白い湯気を見る。

首をかしげる。

そのまま近道をするように、店先を斜めに横切ろうとした。

「坊。」

声をかけたのは、古い帽子の狸だった。

「そこは席の中じゃ。」

若い怪異が止まる。

「席?」

「そうじゃ。」

「道だろ。」

「昼はな。」

狸は茶を一口飲んだ。

「今は席じゃ。」

若い怪異は辺りを見回した。

高校生がいる。

犬を連れた夫婦がいる。

バスを待つ会社員がいる。

狐がいる。

川の女がいる。

山の老人がいる。

畳など、どこにもない。

床の間もない。

茶室らしいものは何一つない。

「どこまで?」

若い怪異が尋ねる。

狸は白い湯気を指した。

「見えるじゃろ。」

若い怪異はしばらく考えた。

それから一度、来た道を戻った。

湯気の外へ出る。

今度は店の正面まで歩き、暖簾の前で軽く頭を下げた。

「邪魔する。」

「はいよ。」

婆さんが答えた。

誰も褒めなかった。

誰も教訓を言わなかった。

それで済んだ。

完全に夜になった頃。

最後の人間客が帰っていった。

婆さんたちも店じまいを始める。

「円ちゃん、あとは頼んだよ。」

「はい。」

「店主さんもね。」

奥の茶釜へ声をかける。

……カン。

「はいはい。」

婆さんたちは笑いながら帰っていった。

円は暖簾を片づけた。

けれど、店は閉まらなかった。

むしろ、ここからがもう一つの時間だった。

白い湯気の中に、山のものも、川のものも、町の隅に住むものも座っている。

狐の女はもう尾を隠していなかった。

一本の尾を椅子の横へ垂らし、のんびり茶を飲んでいる。

誰も気にしない。

円も何も言わない。

そのときだった。

通りの奥から、重い足音が聞こえた。

ずるり。

ずるり。

笑い声が消えた。

山の老人が茶碗を置く。

狐の耳が立つ。

狸が帽子の下から目を細めた。

白い湯気の向こうに、大きな影が現れた。

人の形に近い。

だが大きすぎる。

肩は戸口より広く、長い腕が地面近くまで垂れている。

腹がひどく痩せていた。

影が一歩近づくたび、

腹の奥から、

ぐう。

と低い音がした。

「腹が減った。」

誰に向けるでもなく、怪異が言った。

「ひどく、腹が減った。」

狐の女が立ち上がりかけた。

山の老人も杖へ手を置く。

円は動かなかった。

奥の茶釜を見る。

湯が鳴っている。

いつもと同じ音だった。

怪異が白い湯気の前まで来た。

止まる。

向こう側には、大勢のものがいる。

人ではないもの。

人だったもの。

人に見えるもの。

どれも食える。

少なくとも、その怪異にとってはそうだった。

長い指が動く。

一歩、踏み出しかける。

そのとき。

……カン。

店の奥で、茶釜の蓋が鳴った。

円が一つの茶碗を用意した。

茶葉を入れる。

湯を注ぐ。

しばらく待つ。

それから怪異の前へ置いた。

「どうぞ。」

怪異は茶碗を見る。

円を見る。

「わしにか。」

「はい。」

「わしが何か、分かっているのか。」

「分かりません。」

「なら、なぜ出す。」

円は少し考えた。

「来られたので。」

それだけ答えた。

怪異は動かない。

誰も押さえつけない。

誰も、

飲め、

とは言わない。

白い湯気の線は、怪異の足元にある。

後ろへ下がれば、そのまま夜の町へ戻れる。

茶碗を取る必要はない。

席へ入る必要もない。

長い沈黙のあと。

怪異は地面へ腰を下ろした。

大きな指で、小さな茶碗を持つ。

一口飲んだ。

ぐう。

また腹が鳴った。

何も変わらない。

腹は減ったままだった。

牙も消えない。

爪も短くならない。

怪異が怪異でなくなったわけではない。

二口目を飲む。

肩が少し下がった。

三口目。

長い腕が膝の上へ置かれた。

腹の底にあった飢えが消えたわけではない。

ただ。

その飢えが、ひとまず席へ腰を下ろした。

狸が何事もなかったように茶をすすった。

狐の女も座り直す。

山の老人は杖から手を離した。

円は次の客の茶を用意した。

誰も怪異を見張らない。

怪異も誰にも手を伸ばさなかった。

しばらくして。

大きな怪異が空になった茶碗を置いた。

「……馳走になった。」

円が頭を下げる。

「お粗末さまでした。」

怪異は立ち上がった。

白い湯気のところまで歩く。

そこで一度止まった。

振り返る。

店の奥。

煤けた古い茶釜へ向かって、ぎこちなく頭を下げた。

それから夜の闇へ消えていった。

円はしばらくその背中を見送った。

「店主さん。」

……カン。

「おとなしくさせたわけじゃないんですね。」

返事はない。

炉の火が赤く揺れている。

円は先ほどの茶碗を手に取った。

まだ少し温かい。

「客として迎えただけですか。」

しゅう、と。

茶釜から白い湯気が立った。

店先では、若い怪異が狸の真似をして茶碗を両手で持っている。

川の女が静かに笑っている。

狐は尾を揺らしている。

山の老人は目を閉じている。

誰が人で。

誰が怪異で。

誰が山から来て。

誰が川から来たのか。

その違いは消えていない。

消す必要もなかった。

今ここにいる間だけは、皆、同じだった。

客だった。

円は新しい茶碗を一つ出した。

「次の方、どうぞ。」

奥で。

……カン。

茶釜の蓋が、小さく鳴った。

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました