鏡から珈琲の香り

モダンホラー

腹いっぱいになったボタンインコたちが、依代の肩の上で小さくあくびをした。
羽毛の隙間から漏れる温い息が、夕暮れの湿った空気に溶けていく。
その背後で、Chaigidelが蛇の影を指先でほどいていた。
床に落ちた影は黒い帯のように揺れ、ゆっくりと畳の目に沈んでいく。
依代は十七時きっかりに仕事場を抜け出し、古びた一軒家へ帰ってきた。
商店街の明かりはまだ半端に灯り始めたばかりで、空には藍と橙が曖昧に混ざっている。
玄関を開ける。
靴を脱ぎ、台所へ続く扉を開いた瞬間、待ちかねていたボタンインコたちがぱたぱたと飛び立ち、
左右の肩へ着地した。軽い爪がシャツ越しに引っかかる。

「ただいま」

依代が言うと、インコたちは甲高い声で返事をする。

留守番の報酬として、小皿に蕎麦の実を出す。夢中になって啄む音が、静かな家の中に細かく散った。

ベランダの物干しには、黒いカラスが一羽留まっていた。
妙に人馴れした目をしている。
インコたちと親しげにさえずり合っていて、鳥同士の会話は依代には理解できないのに、不思議と笑い声みたいに聞こえた。
依代はカーテンで窓を覆い、ボタンインコが外へ飛び出さないようにしてから、そっと窓を開けた。

「今日は煮干し」

出汁を取った後の煮干しをひとつかみ差し出すと、カラスは器用に嘴で咥え、満足そうに喉を鳴らした。
この家は、虹の蛇を祀る家系の家主から借り受けたものだった。
古い木造の平屋で、雨の日には床下で水の這う音がする。
そして、この家にはもう一つ部屋がある。

Chaigidelの部屋だ。

鏡の向こう側にだけ存在する部屋。
依代は台所で湯を沸かし、仏壇の前へ座った。線香に火を点け、鈴を鳴らす。
低い読経の声が部屋を満たしていく。
外では遠く車が走る音がしたが、それもやがて消え、家の中は静寂だけになる。
その静けさの中で、洗面所の鏡だけがゆっくりと藍色へ沈んでいった。
水に絵具を落としたみたいに、銀色の鏡面が深い青へ変わる。
鏡の奥には薄暗い部屋が見えていた。
窓のない空間。
熱帯魚の水槽みたいな青い光だけがゆらゆら揺れている。
床には脱ぎ散らかされた蛇皮。
ベッドにはパステルカラーの毛布。
Chaigidelはそこへ突っ伏したまま眠っていた。
長い黒髪が毛布へ流れ、肩甲骨のあたりだけが呼吸に合わせて上下している。
人間とは違う生き物だからなのか、Chaigidelは短い周期で眠り、短い周期で目を覚ます。
そして起きるたびに、壺からコーヒー豆を取り出しては、ショリ、ショリ、と噛み砕くみたいに挽いている。
鏡越しに、その音が聞こえる。
やがて湯の落ちる音。
静かなドリップの気配。
深く焦げたコーヒーの香りが、藍色の鏡を抜けて依代のいる現実へ漂ってきた。
読経を終えた依代は、ふっと息を吐く。
急に自分もコーヒーが飲みたくなった。
台所へ戻り、安物のインスタントコーヒーをマグカップへ入れる。電気ケトルの湯を注ぐと、黒い液面から白い湯気が立ちのぼった。
鏡の向こうでは、Chaigidelがまだ眠たげな顔でコーヒーを啜っている。
こちら側では、依代がインスタントを混ぜている。
別々の部屋で、同じ匂いを吸っていた。

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