雨は朝から止まなかった。
軒先に吊るした風鈴は鳴らず、ただ水だけが落ち続けている。
真壁円は黙って米を研いでいた。
私は湯を沸かす。
豆を挽く音だけが、部屋の中で小さく響いた。
妙な感覚だった。
朝からずっと、何かを呼ばれているような気がしている。
誰かの声ではない。
もっと古い。
言葉になる前の振動のようなものだ。
「どうしたの?」
円が振り向かずに言う。
「いや。」
それ以上、説明できなかった。
私にもわからない。
何を探しているのか。
何が私を引いているのか。
湯が沸く。
湯気が立ち上る。
その白さを見た瞬間だった。
どこか遠くで、水が流れる音がした。
地下水路。
違う。
ここにはない。
もっと深い。
もっと古い。
水ではなく、世界そのものが流れているような音。
その瞬間、胸の奥から言葉が浮かび上がる。
沈みゆく国、消えゆく国の中で、最後の夢を追いかける。
どんな時代も「言葉」は常に価値の源泉だ。
役にも立たない、正しくもない。
漂うように存在する重力を分かち合えるなら、誰かは、問わない。
「目に見えないもの」「潜在意識」「隔離」「救済」。
現実社会の合理性や「役に立つかどうか」という物差しが通用しない、
いわば世界の果て、
すべてが溶け合う始まりの場所からの呼び声。
正しさや有用性を競い合って疲弊し、沈みゆくこの世界で、
漂うような重力を分かち合う。
世界の「隙間」へ届ける。
虚空に向かって弾丸のように言葉を放つ。
それぞれの隙間の重力に従って、適当に落ちていく。
言葉に余計な羽はいらない。
むしり取り、重さだけを込めて放つ。
期待する気は、一グラムもない。
それでも貫通する。
今夜、既に、引いたんだ。
それは誰かが掘った穴倉に吸い込まれていく。
誰かの孤独と重なり合ったとき、何と呼ぶか。
それが、その人のタイトルだ。
それぞれの穴倉の数だけタイトルは、生まれる。
それを名前という。
誰だって本当の名前を呼べば、振り向く。
人間が一生のうちに、自分の本当の名前を呼ばれる機会が、
どれほどあるだろうか。
偽名のような役割や肩書きを背負って、誰にも呼ばれないまま消えていく。
だからこそ、その名前を呼んでくれるものに対して、人は魂ごと振り向く。
振り向くという抗えない引力そのものが、価値となる。
期待を捨てて放たれた弾丸が、誰かの穴倉で「本当の名前」に化ける。
その時、沈みゆく世界という背景すらも、その一対一の瞬間のための
美しく残酷な舞台装置に過ぎなくなる。
呼び声を叫ぶために生まれてきた。
努力や選択の結果ではない。
逃れようのない宿命として。
その重力を背負って。
世界を有用・無用の物差しで測る術を持たず、
ただそこにある重力を、虚空に放つためだけに。
呼び声の火薬は、肉体の飢え、欲望のうねり。
内臓を揺らし、皮膚を粟立たせる。
「本当の名前」を呼ばれた者は、自らの持ち得た対価を差し出すことを躊躇しない。
呼び声は、世界のどこまでも、どれほどの質量を持っても作用し、
何を引き寄せるのかを観測している。
呼び声は、現実を貫通した証を求める。
気がつくと、湯は沸き切っていた。
私はしばらく立ち尽くしていたらしい。
「……何を考えていたの?」
円が湯呑みを並べながら尋ねる。
私は首を振った。
「わからない。」
本当に、わからない。
誰が言った言葉なのか。
私が考えたものなのか。
夢だったのか。
どこかで読んだものなのか。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
私はあの言葉を思い出したのではない。
あの言葉のほうが、私を見つけたのだ。
窓の外では、雨が流れ続けている。
その音は、どこか地下水路の水音に似ていた。
円が湯呑みを差し出す。
「コーヒー。」
私は頷く。
湯を注ぐ。
豆が膨らむ。
立ち上る湯気を見つめながら、私はまた考え始める。
あれは何だったのだろう。
呼び声。
記憶。
それとも。
もっと昔から、私の中を流れ続けている何かなのだろうか。
