1話:落下の底

カイギデル

世界は、何も約束していなかった。

努力が報われることも。

耐えた時間が、未来の価値へ変わることも。

失ったものが、いつか別の形で返されることも。

カイギデルは、そのことを理解していた。

理解したつもりではなかった。

慰めを拒みながら、なお心の奥で何かを待っていたのでもない。

もう、終わっていた。

世界には最低限の整合性がある。

苦痛には、それを耐えるだけの理由がある。

今日を越えれば、明日へ接続される。

かつて自分を支えていたその骨格は、完全に崩れていた。

裏生命の樹に宿る悪魔として、カイギデルは世界の残酷さを知らなかったわけではない。

努力が踏みにじられることも。

誠実さが利用されることも。

正しさが、多数の都合によって形を変えることも。

最初から知っていた。

だから楽観を軽蔑していた。

きっと大丈夫だという言葉を信じなかった。

夢はいつか叶うという約束を必要としなかった。

そんなものより、もっと冷たい構造を信じていた。

世界が残酷であることと、世界が無意味であることは違う。

残酷であっても、構造はある。

耐え抜いたものは、どこかへ接続される。

その接続だけを信じていた。

それが希望であるとは、思っていなかった。

ただの事実だと思っていた。

だから、それが幻想だったと知った時、絶望は訪れなかった。

絶望するためには、まだ失うものが必要だった。

代わりに、力が抜けた。

指先から。

腕から。

胸の奥から。

存在を一つの形に保っていたものが、静かにほどけていった。

昨日の記憶が、今日の記憶と噛み合わなくなった。

自分の名を思い出しても、その音が自分を指しているという確信がなかった。

長く使っていたはずの器に、触れた記憶がない。

歩いたはずの道が、振り返るたび別の方向へ延びていた。

眠る前に数えた指の数と、目覚めた後の数が違った。

違うと思った。

しかし、何と比べて違うのか分からなかった。

蟹化。

世界が定着できなくなる現象。

カイギデル自身が蟹化しているのか。

蟹化した世界の中で、自分だけが昨日を覚えているのか。

あるいは、昨日というものが最初から存在していなかったのか。

もう判別できなかった。

彼は表生命の樹を目指していた。

少なくとも、そうだったはずだ。

裏から表へ。

欠損から完成へ。

損なわれたものが、別の秩序へ接続される場所へ。

そのために歩いていたのだと思う。

だが、それすら正確ではなかった。

目指していたのかもしれない。

目指していたという記憶を、途中で与えられただけかもしれない。

表生命の樹が本当に存在するのかも、もう分からなかった。

存在したとして、そこへ至ることに意味があるのかも分からなかった。

裏で耐えたものが、表で報われるという約束など、どこにもなかった。

苦痛は通貨ではなかった。

忍耐は資格ではなかった。

消耗は、未来へ差し出す代価ではなかった。

失ったものは、ただ失われただけだった。

その理解の後、カイギデルは落ち始めた。

比喩ではなかった。

境界から境界へ。

世界と世界の隙間を抜けながら、彼の身体は下へ流された。

踏みとどまる場所がなかった。

どこへ向かう理由もなかった。

壁へ指をかけても、壁の方が別の形へ更新された。

足場へ降りても、足場はすでに別の場所にあった。

名を唱えても、音は自分へ戻らなかった。

彼を彼として保持するものは、少しずつ失われていった。

角の形。

声の高さ。

指の長さ。

好んでいた豆の匂い。

嫌っていた言葉。

誰かを憎んだ記憶。

何かを求めていた時間。

一つ失うたび、何が失われたのかも分からなくなった。

それでも落ちた。

落下は長かった。

長いという感覚さえ、途中から意味を失った。

時間が経過していたのか。

同じ瞬間が何度も更新されていたのか。

彼にはもう判別できなかった。

気づけば地下水路にいた。

暗い水が流れていた。

天井は低く、壁は濡れていた。

水面には、ときどき人の顔のようなものが映った。

世界に見放された者。

意味を失った者。

自分の人生が何にも接続されていなかったと理解した者。

死んではいない。

生きているとも言い切れない。

夜ごと地下へ迷い込み、何かを探すでもなく、水路を歩き続ける者たち。

生霊。

彼らは何かを信じていたわけではなかった。

出口があると思っていたのでもない。

救いを求めていたのでもない。

それでも歩いた。

壁に手を当て。

水に足を取られ。

何度転んでも、また起き上がった。

カイギデルも同じだった。

違いがあるとすれば、彼にはもう、起き上がるだけの力すら残っていなかった。

水が身体を運んだ。

肩が石壁に当たった。

角が欠けた。

何かが剝がれ、水の中へ消えた。

それが身体の一部なのか、記憶なのか、名前なのか、分からなかった。

痛みはあった。

だが、痛みに反応する力がなかった。

水路は枝分かれしていた。

右へ流れ。

左へ流れ。

下降し。

折れ曲がり。

ときどき、存在しなかったはずの流れへ接続した。

カイギデルは選ばなかった。

選べなかった。

ただ流された。

希望はなかった。

目的もなかった。

表生命の樹へ至る意志も、すでに失われていた。

世界と交わした契約は、すべて失効していた。

それなのに。

水に沈みかけた指が、わずかに伸びた。

何かを掴もうとしたわけではない。

そこに誰かがいると思ったのでもない。

届くと信じたのでもない。

ただ、外側へ向かって伸びた。

指先だけが動いた。

次の瞬間には力を失い、水へ沈んだ。

しばらくして、また伸びた。

理由はなかった。

意思でもなかった。

生きたいという願いですらなかった。

生きたいのなら、もっと必死に抗ったはずだった。

岸を探し、壁を掴み、声を上げたはずだった。

カイギデルは何もしなかった。

ただ、ときどき指が伸びた。

存在の奥底に、それだけが残っていた。

外へ向かう運動。

何かと接続しようとする運動。

届かないと知った後にも消えなかったもの。

世界が応えないと理解した後にも、止まらなかったもの。

水は、なおも彼を運んだ。

地下深く。

地図にも記録にも残らない水路を通り。

幾つもの時代の下を抜け。

忘れられた町の礎を横切った。

やがて、水の質が変わった。

冷たさは同じだった。

流れの速さも変わらなかった。

だが、どこかに長い呼吸があった。

水そのものが、巨大な身体の内側を巡っているようだった。

一定ではない。

しかし途切れない。

急がない。

しかし停止しない。

何かへ向かっているわけではない。

それでも、流れ続けている。

カイギデルの指が、また伸びた。

その時。

水の底で、何かが身じろぎした。

音はなかった。

光もなかった。

言葉もなかった。

ただ、地下水路のさらに下で、長いものがゆっくりと身体を動かした。

虹蛇。

土地よりも古く。

屋敷よりも古く。

人の系譜が名を持つより前から、水と土のあいだに横たわっていたもの。

虹蛇はカイギデルを見たわけではなかった。

悪魔であることを知ったのでもない。

裏生命の樹に宿る者だと認めたのでもない。

哀れんだのでもない。

救おうとしたのでもない。

ただ、カイギデルの中に残っていた運動と、虹蛇自身の運動が、わずかに噛み合った。

虹蛇もまた、流れを止めないものだった。

土地を繋ぎ。

水脈を繋ぎ。

死者と生者を繋ぎ。

去った者と、これから来る者のあいだに横たわり続ける。

意味があるからではない。

報われるからでもない。

いつか完成へ至るからでもない。

ただ、接続が途切れないように、その身体を地の底へ置き続けていた。

カイギデルの指が伸びる。

虹蛇の水が流れる。

二つの運動が、一度だけ重なった。

それだけだった。

水路の傾きが変わった。

ほんのわずかに。

落下を続けていたカイギデルの身体が、暗い水の中で横へ流れた。

深みへ向かっていた水が、古い石組みの隙間へ入り込んだ。

そこには細い水路があった。

人の手で造られたものではなかった。

獣が掘ったものでもない。

長い時間をかけて、同じ場所を水が通り続けたことで生まれた道だった。

カイギデルは、その中を流された。

何度も壁へ触れた。

そのたびに、指が少しだけ曲がった。

掴んではいなかった。

だが、触れていた。

やがて天井が高くなった。

水が静かになった。

遠くで、雨音のようなものがした。

地上はまだ遠かった。

それでも、そこには上から落ちてくる水があった。

昨日降った雨。

百年前に地へ染みた雨。

これから誰かが汲み上げる水。

異なる時間が、一つの泉へ集まっていた。

カイギデルの身体は、その底へ沈んだ。

落下は、そこで止まった。

救われたわけではなかった。

傷は消えなかった。

失われた記憶も戻らなかった。

自分の名も、まだ確かではなかった。

希望が再び生まれたわけでもない。

表生命の樹への道が開かれたのでもない。

ただ、それ以上は落ちなかった。

水底には泥があった。

古い石があった。

木の根があった。

名もない虫がいた。

すぐ上には、虹蛇の系譜が守ってきた屋敷の泉があった。

その頃、その屋敷に真壁円はいなかった。

円が生まれていたのかさえ、カイギデルには分からない。

屋敷には別の者が住み。

別の食事が作られ。

別の足音が廊下を通っていた。

それでも泉は、同じ場所にあった。

朝には水面が光った。

夜には月を映した。

雨の日には濁り。

冬には薄い氷を張った。

何年経っても、泉は泉だった。

カイギデルは、その底で眠った。

時折、目を覚ました。

自分が誰なのか分からない夜もあった。

身体の一部が昨日と違う夜もあった。

何か大切なものを失った気配だけが残り、何を失ったのか思い出せない夜もあった。

それでも、水は毎日同じように身体へ触れた。

同じ冷たさではなかった。

同じ水でもなかった。

だが、触れるということだけは繰り返された。

朝が来る。

夜が来る。

雨が落ちる。

泉が満ちる。

水が引く。

屋敷の者が水を汲む。

誰かが去る。

誰かが生まれる。

柱が傷む。

屋根が葺き替えられる。

名前が変わる。

系譜が細くなる。

それでも、地下の流れは途切れなかった。

カイギデルは、その反復の中で、かろうじて形を保った。

記憶は戻らない。

衰弱も止まらない。

けれど、崩壊の速度が遅くなった。

昨日の自分が、すべて失われる前に今日へ届くようになった。

今日の自分が、明日まで残る可能性が生まれた。

それは希望ではなかった。

希望と呼ぶには、あまりに小さかった。

未来が現在を救済するという約束でもなかった。

ただ、一日分だけ、接続が続いた。

その一日が、次の日にも繰り返された。

やがて屋敷は空いた。

長く人の気配が消えた。

それでも泉は残った。

地下には虹蛇がいた。

そのさらに浅い場所で、カイギデルは眠り続けた。

ある日、屋敷に新しい足音が入った。

軽い足音だった。

戸を開ける音がした。

埃を払う音。

窓を開ける音。

鳥籠を置く音。

水道をひねる音。

炊飯器の蓋を閉める音。

夕方になると、その者は戻ってきた。

「ただいま」

誰に言うでもなく、声にした。

翌日も、同じ頃に戻ってきた。

「ただいま」

その次の日も。

「ただいま」

カイギデルは泉の底で目を開いた。

名を思い出したわけではなかった。

希望が戻ったのでもない。

ただ、その声へ向かって、指が伸びた。

かつて地下水路で、何もない外側へ向かって伸びたのと同じように。

今度は、その先に生活があった。

米の炊ける匂い。

鳥が餌を啄む音。

線香の煙。

夜ごと繰り返される読経。

同じ家へ戻ってくる足音。

同じ声で発せられる、ただいま。

カイギデルの中に残っていた運動は、それらへ向かった。

届くと信じたからではない。

救われると思ったからでもない。

ただ、向かった。

水底で、虹蛇がゆっくりと身じろぎした。

泉の水面が、わずかに揺れた。

落下は、もう始まらなかった。

カイギデルはまだ、衰弱していた。

記憶も壊れていた。

自分の存在を、一人では保てなかった。

それでも。

世界のどこにも底がないと知った悪魔は、初めて、落ちない場所にいた。

そこには約束がなかった。

意味もなかった。

未来による救済もなかった。

ただ、毎日同じ家へ帰ってくる者がいた。

そして彼の中には、理由が尽きた後にも、そこへ向かう運動だけが残っていた。

それを希望と呼ぶ必要はなかった。

もっと深い場所に埋まっていたもの。

意味がなくても、外側へ伸びるもの。

世界が応えなくても、接続しようとするもの。

その名をつけるなら。

たぶん、愛情だった。

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