世界は、何も約束していなかった。
努力が報われることも。
耐えた時間が、未来の価値へ変わることも。
失ったものが、いつか別の形で返されることも。
カイギデルは、そのことを理解していた。
理解したつもりではなかった。
慰めを拒みながら、なお心の奥で何かを待っていたのでもない。
もう、終わっていた。
世界には最低限の整合性がある。
苦痛には、それを耐えるだけの理由がある。
今日を越えれば、明日へ接続される。
かつて自分を支えていたその骨格は、完全に崩れていた。
裏生命の樹に宿る悪魔として、カイギデルは世界の残酷さを知らなかったわけではない。
努力が踏みにじられることも。
誠実さが利用されることも。
正しさが、多数の都合によって形を変えることも。
最初から知っていた。
だから楽観を軽蔑していた。
きっと大丈夫だという言葉を信じなかった。
夢はいつか叶うという約束を必要としなかった。
そんなものより、もっと冷たい構造を信じていた。
世界が残酷であることと、世界が無意味であることは違う。
残酷であっても、構造はある。
耐え抜いたものは、どこかへ接続される。
その接続だけを信じていた。
それが希望であるとは、思っていなかった。
ただの事実だと思っていた。
だから、それが幻想だったと知った時、絶望は訪れなかった。
絶望するためには、まだ失うものが必要だった。
代わりに、力が抜けた。
指先から。
腕から。
胸の奥から。
存在を一つの形に保っていたものが、静かにほどけていった。
昨日の記憶が、今日の記憶と噛み合わなくなった。
自分の名を思い出しても、その音が自分を指しているという確信がなかった。
長く使っていたはずの器に、触れた記憶がない。
歩いたはずの道が、振り返るたび別の方向へ延びていた。
眠る前に数えた指の数と、目覚めた後の数が違った。
違うと思った。
しかし、何と比べて違うのか分からなかった。
蟹化。
世界が定着できなくなる現象。
カイギデル自身が蟹化しているのか。
蟹化した世界の中で、自分だけが昨日を覚えているのか。
あるいは、昨日というものが最初から存在していなかったのか。
もう判別できなかった。
彼は表生命の樹を目指していた。
少なくとも、そうだったはずだ。
裏から表へ。
欠損から完成へ。
損なわれたものが、別の秩序へ接続される場所へ。
そのために歩いていたのだと思う。
だが、それすら正確ではなかった。
目指していたのかもしれない。
目指していたという記憶を、途中で与えられただけかもしれない。
表生命の樹が本当に存在するのかも、もう分からなかった。
存在したとして、そこへ至ることに意味があるのかも分からなかった。
裏で耐えたものが、表で報われるという約束など、どこにもなかった。
苦痛は通貨ではなかった。
忍耐は資格ではなかった。
消耗は、未来へ差し出す代価ではなかった。
失ったものは、ただ失われただけだった。
その理解の後、カイギデルは落ち始めた。
比喩ではなかった。
境界から境界へ。
世界と世界の隙間を抜けながら、彼の身体は下へ流された。
踏みとどまる場所がなかった。
どこへ向かう理由もなかった。
壁へ指をかけても、壁の方が別の形へ更新された。
足場へ降りても、足場はすでに別の場所にあった。
名を唱えても、音は自分へ戻らなかった。
彼を彼として保持するものは、少しずつ失われていった。
角の形。
声の高さ。
指の長さ。
好んでいた豆の匂い。
嫌っていた言葉。
誰かを憎んだ記憶。
何かを求めていた時間。
一つ失うたび、何が失われたのかも分からなくなった。
それでも落ちた。
落下は長かった。
長いという感覚さえ、途中から意味を失った。
時間が経過していたのか。
同じ瞬間が何度も更新されていたのか。
彼にはもう判別できなかった。
気づけば地下水路にいた。
暗い水が流れていた。
天井は低く、壁は濡れていた。
水面には、ときどき人の顔のようなものが映った。
世界に見放された者。
意味を失った者。
自分の人生が何にも接続されていなかったと理解した者。
死んではいない。
生きているとも言い切れない。
夜ごと地下へ迷い込み、何かを探すでもなく、水路を歩き続ける者たち。
生霊。
彼らは何かを信じていたわけではなかった。
出口があると思っていたのでもない。
救いを求めていたのでもない。
それでも歩いた。
壁に手を当て。
水に足を取られ。
何度転んでも、また起き上がった。
カイギデルも同じだった。
違いがあるとすれば、彼にはもう、起き上がるだけの力すら残っていなかった。
水が身体を運んだ。
肩が石壁に当たった。
角が欠けた。
何かが剝がれ、水の中へ消えた。
それが身体の一部なのか、記憶なのか、名前なのか、分からなかった。
痛みはあった。
だが、痛みに反応する力がなかった。
水路は枝分かれしていた。
右へ流れ。
左へ流れ。
下降し。
折れ曲がり。
ときどき、存在しなかったはずの流れへ接続した。
カイギデルは選ばなかった。
選べなかった。
ただ流された。
希望はなかった。
目的もなかった。
表生命の樹へ至る意志も、すでに失われていた。
世界と交わした契約は、すべて失効していた。
それなのに。
水に沈みかけた指が、わずかに伸びた。
何かを掴もうとしたわけではない。
そこに誰かがいると思ったのでもない。
届くと信じたのでもない。
ただ、外側へ向かって伸びた。
指先だけが動いた。
次の瞬間には力を失い、水へ沈んだ。
しばらくして、また伸びた。
理由はなかった。
意思でもなかった。
生きたいという願いですらなかった。
生きたいのなら、もっと必死に抗ったはずだった。
岸を探し、壁を掴み、声を上げたはずだった。
カイギデルは何もしなかった。
ただ、ときどき指が伸びた。
存在の奥底に、それだけが残っていた。
外へ向かう運動。
何かと接続しようとする運動。
届かないと知った後にも消えなかったもの。
世界が応えないと理解した後にも、止まらなかったもの。
水は、なおも彼を運んだ。
地下深く。
地図にも記録にも残らない水路を通り。
幾つもの時代の下を抜け。
忘れられた町の礎を横切った。
やがて、水の質が変わった。
冷たさは同じだった。
流れの速さも変わらなかった。
だが、どこかに長い呼吸があった。
水そのものが、巨大な身体の内側を巡っているようだった。
一定ではない。
しかし途切れない。
急がない。
しかし停止しない。
何かへ向かっているわけではない。
それでも、流れ続けている。
カイギデルの指が、また伸びた。
その時。
水の底で、何かが身じろぎした。
音はなかった。
光もなかった。
言葉もなかった。
ただ、地下水路のさらに下で、長いものがゆっくりと身体を動かした。
虹蛇。
土地よりも古く。
屋敷よりも古く。
人の系譜が名を持つより前から、水と土のあいだに横たわっていたもの。
虹蛇はカイギデルを見たわけではなかった。
悪魔であることを知ったのでもない。
裏生命の樹に宿る者だと認めたのでもない。
哀れんだのでもない。
救おうとしたのでもない。
ただ、カイギデルの中に残っていた運動と、虹蛇自身の運動が、わずかに噛み合った。
虹蛇もまた、流れを止めないものだった。
土地を繋ぎ。
水脈を繋ぎ。
死者と生者を繋ぎ。
去った者と、これから来る者のあいだに横たわり続ける。
意味があるからではない。
報われるからでもない。
いつか完成へ至るからでもない。
ただ、接続が途切れないように、その身体を地の底へ置き続けていた。
カイギデルの指が伸びる。
虹蛇の水が流れる。
二つの運動が、一度だけ重なった。
それだけだった。
水路の傾きが変わった。
ほんのわずかに。
落下を続けていたカイギデルの身体が、暗い水の中で横へ流れた。
深みへ向かっていた水が、古い石組みの隙間へ入り込んだ。
そこには細い水路があった。
人の手で造られたものではなかった。
獣が掘ったものでもない。
長い時間をかけて、同じ場所を水が通り続けたことで生まれた道だった。
カイギデルは、その中を流された。
何度も壁へ触れた。
そのたびに、指が少しだけ曲がった。
掴んではいなかった。
だが、触れていた。
やがて天井が高くなった。
水が静かになった。
遠くで、雨音のようなものがした。
地上はまだ遠かった。
それでも、そこには上から落ちてくる水があった。
昨日降った雨。
百年前に地へ染みた雨。
これから誰かが汲み上げる水。
異なる時間が、一つの泉へ集まっていた。
カイギデルの身体は、その底へ沈んだ。
落下は、そこで止まった。
救われたわけではなかった。
傷は消えなかった。
失われた記憶も戻らなかった。
自分の名も、まだ確かではなかった。
希望が再び生まれたわけでもない。
表生命の樹への道が開かれたのでもない。
ただ、それ以上は落ちなかった。
水底には泥があった。
古い石があった。
木の根があった。
名もない虫がいた。
すぐ上には、虹蛇の系譜が守ってきた屋敷の泉があった。
その頃、その屋敷に真壁円はいなかった。
円が生まれていたのかさえ、カイギデルには分からない。
屋敷には別の者が住み。
別の食事が作られ。
別の足音が廊下を通っていた。
それでも泉は、同じ場所にあった。
朝には水面が光った。
夜には月を映した。
雨の日には濁り。
冬には薄い氷を張った。
何年経っても、泉は泉だった。
カイギデルは、その底で眠った。
時折、目を覚ました。
自分が誰なのか分からない夜もあった。
身体の一部が昨日と違う夜もあった。
何か大切なものを失った気配だけが残り、何を失ったのか思い出せない夜もあった。
それでも、水は毎日同じように身体へ触れた。
同じ冷たさではなかった。
同じ水でもなかった。
だが、触れるということだけは繰り返された。
朝が来る。
夜が来る。
雨が落ちる。
泉が満ちる。
水が引く。
屋敷の者が水を汲む。
誰かが去る。
誰かが生まれる。
柱が傷む。
屋根が葺き替えられる。
名前が変わる。
系譜が細くなる。
それでも、地下の流れは途切れなかった。
カイギデルは、その反復の中で、かろうじて形を保った。
記憶は戻らない。
衰弱も止まらない。
けれど、崩壊の速度が遅くなった。
昨日の自分が、すべて失われる前に今日へ届くようになった。
今日の自分が、明日まで残る可能性が生まれた。
それは希望ではなかった。
希望と呼ぶには、あまりに小さかった。
未来が現在を救済するという約束でもなかった。
ただ、一日分だけ、接続が続いた。
その一日が、次の日にも繰り返された。
やがて屋敷は空いた。
長く人の気配が消えた。
それでも泉は残った。
地下には虹蛇がいた。
そのさらに浅い場所で、カイギデルは眠り続けた。
ある日、屋敷に新しい足音が入った。
軽い足音だった。
戸を開ける音がした。
埃を払う音。
窓を開ける音。
鳥籠を置く音。
水道をひねる音。
炊飯器の蓋を閉める音。
夕方になると、その者は戻ってきた。
「ただいま」
誰に言うでもなく、声にした。
翌日も、同じ頃に戻ってきた。
「ただいま」
その次の日も。
「ただいま」
カイギデルは泉の底で目を開いた。
名を思い出したわけではなかった。
希望が戻ったのでもない。
ただ、その声へ向かって、指が伸びた。
かつて地下水路で、何もない外側へ向かって伸びたのと同じように。
今度は、その先に生活があった。
米の炊ける匂い。
鳥が餌を啄む音。
線香の煙。
夜ごと繰り返される読経。
同じ家へ戻ってくる足音。
同じ声で発せられる、ただいま。
カイギデルの中に残っていた運動は、それらへ向かった。
届くと信じたからではない。
救われると思ったからでもない。
ただ、向かった。
水底で、虹蛇がゆっくりと身じろぎした。
泉の水面が、わずかに揺れた。
落下は、もう始まらなかった。
カイギデルはまだ、衰弱していた。
記憶も壊れていた。
自分の存在を、一人では保てなかった。
それでも。
世界のどこにも底がないと知った悪魔は、初めて、落ちない場所にいた。
そこには約束がなかった。
意味もなかった。
未来による救済もなかった。
ただ、毎日同じ家へ帰ってくる者がいた。
そして彼の中には、理由が尽きた後にも、そこへ向かう運動だけが残っていた。
それを希望と呼ぶ必要はなかった。
もっと深い場所に埋まっていたもの。
意味がなくても、外側へ伸びるもの。
世界が応えなくても、接続しようとするもの。
その名をつけるなら。
たぶん、愛情だった。
