黙って食べなさい、カイギデル

モダンホラー

真壁円は、最近、ずっと腹が減っている。
普通の空腹ではない。
胃袋より奥――背骨の裏側あたりが、空洞になる。
何を食べても、完全には埋まらない。
原因はわかっていた。
カイギデルだ。
負の領域から流れ着いた悪魔が、円を依代にして以来、空腹は二人分になった。

いや、正確には、人間と“向こう側”のぶんだけ。

だから食費は壊滅した。

普通の一人暮らしは数ヶ月で破綻し、現在、円は「虹蛇の系譜の家」に住んでいる。

地下水脈と境界安定性を抱えた古い家だ。

家賃はほぼ無料。

ただし条件がある。

依代である真壁円が、ここで生活すること。

それによって床下の虹蛇と周辺境界の均衡が安定するらしい。

円は詳しく聞かなかった。

聞いてもたぶん理解できない。

床下には虹蛇がいる。

とはいえ、神々しい感じではない。

晴れた日は庭石の上で長い黒い身体を干しているし、雨の日は配管みたいな音を立てながら床下を移動している。

最初、円は古いホースだと思った。

『失礼だな』

カイギデルは笑っていた。

声は耳ではなく、脳の少し後ろから聞こえる。

夢を見る場所に近い。

カイギデルは、昼間は円の中にいる。

完全に乗っ取っているわけではない。

脳の隅を間借りしている感じだった。

本人いわく、

『境界が薄くなったせいで、単独維持が難しい』

らしい。

最近、世界は少しおかしい。

SNSで見た知らない場所を翌日通りかかる。

深夜のコンビニで、自分と同じ顔の女を見かける。

留守の部屋から生活音がする。

神話と現実の境界が、ゆっくり溶け始めている。

カイギデルは、それを、

『柔らかくなってる』

と呼んだ。

昔はもっと、世界はちゃんと分かれていたらしい。

人間は人間。

神話は神話。

異界は深層。

でも今は違う。

だから、人間と向こう側が同じ家に住める。

もっとも、それが長く続く保証はない。

世界が安定すれば、また分離する。

だが今は、むしろ逆だった。

境界は日ごとに薄くなっている。

だから今日も、円とカイギデルは一緒に夕飯を食べる。

「今日、何食べる」

『重いもの』

「昨日も重かったじゃん」

『最近ちょっと吸う力が強い』

意味はわからない。

円は聞かないことにしている。

台所に立つ。

鍋に出汁を張る。

酒を入れる。

泥抜きしたドジョウを並べる。

ドジョウ鍋。

最近、一部界隈で妙な噂が流れている。

適切な調理条件下では、ドジョウ鍋はごく微量に局所重力へ干渉する、と。

もちろん公表はされていない。

宇宙情報管理局が監視している。

研究データも封鎖されている。

それでも情報は漏れる。

カイギデルは、

『あいつら、自分で喋るからな』

と言った。

ドジョウ自身が、向こう側へ情報を流しているらしい。

鍋が煮立つ。

湯気が低く漂う。

その瞬間、家全体がわずかに沈んだ。

二階の照明が揺れる。

床下で長いものが身じろぎした。

虹蛇だ。

円はもう驚かない。

土鍋を持ち上げる。

重い。

その瞬間、ふっと重量が抜けた。

数秒だけ。

「……やった?」

『火傷されると困る』

IHの表示灯が一瞬だけ反転する。

床下で、長いものがゆっくり擦れる音がした。

「できたよ」

『山椒多め』

居間には古いテレビ。

安いローテーブル。

読みかけのビジネス書。

観葉植物。

積み上がった宅配箱。

世界は終わりかけているのかもしれない。

境界は溶け、重力は呼吸し、名前は少しずつ現実から剥がれている。

それでも生活は続く。

円は鍋をよそう。

その間も、カイギデルは喋っている。

『コクマーが漏れてる』

「ご飯中に変な話しないで」

『神の創造流出だ。まだ世界になる前の発想が、今かなり近い』

断片が流れ込んでくる。

まだ存在しない建築。

人類が思いついていない料理。

未来の宗教。

恒星内部の骨格。

未発見の数式。

言葉になる前の概念。

カイギデルは、ときどき“光の始まり”へ触れる。

神から流れ出る無限の創造力。

原初のアイデア。

世界になる前の光。

だから言葉では勝てない。

議論になると、円はだいたい負ける。

存在論も。

歴史も。

重力も。

宗教も。

全部、途中から話の階層をずらされる。

『お前たちの現実は局所的だぞ』

とか言い始める。

非常に面倒くさい。

しかも空腹になると、もっと面倒だった。

カイギデルは長く負の領域にいた。

だから腹が減ると、すぐ懐疑的になる。

『この出汁、本当に天然か?』

『山椒が妙に多いな』

『そもそもドジョウという生物は――』

「黙って食べなさい、カイギデル」

ぴたりと静かになる。

食卓だけは別だった。

どれほど神の光へ接続できても。

どれほど原初の発想を拾えても。

腹を満たす主導権だけは、真壁円が握っている。

だから食事の時間だけは、人間側の世界だった。

ふと、床下で音がする。

長いものが、ゆっくり動く気配。

虹蛇だ。

虹蛇は食事を必要としない。

地下水脈と境界そのものを循環している。

だが、円は毎日、神棚へ小皿を供える。

今日はドジョウを三匹。

湯気が細く揺れる。

床下で、何かが静かに身じろぎした。

カイギデルが、小さく笑う。

世界は壊れかけている。

でも夕飯の時間は来る。

真壁円の時間だった。

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