雨は降っていなかった。
けれど、夜のアパートには、濡れたような匂いが漂っていた。
浴室の換気扇の音を聞きながら、湯船に肩まで沈んでいた。
熱すぎない温度で長く浸かる半身浴は、もう何年も続く習慣だった。
五年前から。
五年前の秋、恋人は死んだ。
交差点で、信号待ちのトラックに、彼のバイクが突っ込んだ。
事故原因は、最後まで曖昧だった。
居眠りだとか、速度超過だとか、急な飛び出しだとか、警察は色々言った。
そのどれも信じていない。
彼は、死ぬ直前に電話をしてきたのだ。
「今から行く」
それだけだった。
けれど、背後に、風のような音が混じっていた。
まるで、誰かが耳元で、笑っているような。
湯から上がった。
鏡は白く曇り、裸足の裏に、脱衣所の冷たさが貼りつく。
その時だった。
視界の端に、白い煙のようなものが揺れた。
細い。
小さい。
ゆらゆらと、天井近くを漂っている。
「……なに」
コンタクトを外しかけて、手を止める。
視線を向けると消える。
けれど、少し目を逸らすと、また現れる。
白い糸。
煙。
あるいは、人の輪郭のなりそこない。
不思議と怖くなかった。
むしろ、妙に懐かしい感じがした。
その白い揺らぎは、ふらふらと動きながら、部屋の奥へ進む。
吸い寄せられるように後を追った。
リビング。
古い観葉植物。
窓際のガジュマル。
彼が死ぬ一週間前、突然買ってきたものだ。
『こういう木、長生きするらしいよ』
土は半分乾いている。
水をやらなければと思いながら、数日放置していた。
白い煙は、ガジュマルの葉の間で揺れた。
その瞬間。
ぶつり、と。
テレビが勝手についた。
砂嵐のようなノイズ。
その奥で、何かが喋っている。
『――――る』
固まった。
『……い……よ』
男の声だった。
喉が鳴る。
耳の奥が冷える。
ノイズの隙間から、聞き慣れた声が滲む。
『離れたくないよー』
一瞬、笑いそうになった。
あまりにも、彼らしい言い方だったからだ。
重たい話になると、ふざける人だった。
『重い空気やめろって』
『俺まで死にそう』
本当に死んだくせに。
思わず声を出して笑った。
久しぶりに涙が出るまで笑った。
「馬鹿じゃないの」
白い煙が、また揺れる。
その形が、ほんの一瞬だけ、人の肩に見えた。
蠍座だったな、と思う。
執着質で、嫉妬深くて、でも寂しがり。
死んでも来るんだ。
そう考えると、少し可愛かった。
だが次の瞬間、テレビ画面のノイズが止まり、黒い画面に自分が映っていた。
