4話:カイギデルのコーヒー豆

境界の食卓

朝、真壁円は畳の上に黒いものを見つけた。
コーヒー豆だった。
摘まみ上げる。
香りを嗅ぐ。
昨夜、自分はインスタントコーヒーしか飲んでいない。
少し考えてから、机の上へ置いた。

翌朝。
また畳の上に三粒落ちていた。
三日目は四粒。
四日目は三粒。
さすがに偶然ではない。
円は小さな皿を用意し、拾った豆をそこへ入れるようになった。
その夜も、読経を終えるころ、洗面所の鏡がゆっくり藍色へ沈む。
鏡の向こうでは、カイギデルが壺からコーヒー豆を取り出していた。
ショリ、ショリ、と豆を挽く。
円の畳の上で、コーヒー豆が小さく跳ねた。

「また落としたな。」

『落としていない。』

「落ちてきた。」

『境界だ。』

「雑なだけでしょ。」

鏡の向こうで、しばらく沈黙があった。

やがて、『……三粒くらいなら誤差だ。』

円は思わず笑った。
翌朝も三粒。
その翌日は四粒。
拾った豆は、小皿から小さな瓶へ移った。
一週間で二十一粒。
二週間で四十五粒。
瓶の底は、ほんの少しだけ黒くなった。

ある夜、円は鏡の前で立ち止まった。
カイギデルが豆を挽いている。
壺から掬った豆を、ざらり、とコーヒーミルへ入れようとして、二、三粒こぼした。
そのうちの一粒が境界を越え、
カサッ、と畳へ転がる。

「ほら。」

カイギデルは、その豆を見つめたまま動かない。
少ししてから、
『境界が悪い。』と言った。

「雑なだけ。」

『違う。』

それ以上、二人とも何も言わなかった。
瓶の中の豆は少しずつ増えた。
一か月が過ぎるころには、ようやく一杯分になった。

休日の朝。
円は手回しのコーヒーミルを取り出した。

「やっと一杯ぶんだ。」

ゆっくり挽く。
香りが立つ。
毎晩、鏡の向こうから漂ってきた香りだった。
知っている匂いなのに、飲むのは初めてだった。
円は丁寧に湯を落とす。
深く、柔らかな香りが部屋へ広がった。
一口飲む。
しばらく何も言えなかった。

「……うまい。」

鏡の向こうでは、カイギデルも黙ってコーヒーを飲んでいた。
やがて、小さく言う。

『返せ。』

円はカップを置いた。

「境界を越えたんだから、うちの豆だ。」

鏡の向こうで、カイギデルは小さく鼻を鳴らした。
否定もしない。
肯定もしない。
その翌朝も、畳の上には三粒のコーヒー豆が転がっていた。
円は拾って瓶へ入れる。

「また落としたな。」

『境界が悪い。』

円はそれ以上聞かなかった。
毎朝、三粒。
多い日で四粒。
それ以上は飛んでこない。
それが偶然なのか、
カイギデルの加減なのか、
円は考えないことにした。
瓶の蓋を閉める。

「ありがとう。」
その言葉だけは、心の中でつぶやいた。

口にしてしまえば、この豆はもう飛んでこない気がしたからだ。
鏡の向こうでは、今日もショリ、ショリ、とコーヒー豆を挽く音がしていた。

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