蟹化

言の葉たちのモダンホラー

蟹化という言葉が、
最初にどこで使われ始めたのか、
正確には分かっていない。

都市工学者だったとも、
感染症研究者だったとも、
匿名掲示板の俗語だったとも言われる。

ただ今では、誰もがその意味を理解している。

蟹化。

世界が、定着できなくなる現象。

最初期の症状は軽微だった。

誤植。
微妙に違う地図。
昨日と配置が変わった店内。
会話の食い違い。

だが記録を照合すると、それらは単なる記憶違いではなかった。

実際に、変わっている。

しかも、変化に法則性がない。

道路は、拡張されるのではない。

更新される。

昨日まで直線だった高架が、翌朝には螺旋になっている。
地下街は増殖し、閉鎖されたはずの改札が、別の路線へ接続される。
住宅地では、同じ表札の家が三軒並ぶ。
住民は全員、「昔からここにあった」と証言する。
最も深刻なのは、人格蟹化だった。
軽度なら違和感で済む。

口調。
趣味。
癖。
食べ物の好み。

だが進行すると、過去との接続が失われる。
本人は継続しているつもりなのに、周囲から見ると、
別人が段階的に上書きされていく。

国家機関は当初、これを情報災害として扱った。
SNS依存。
認知汚染。
集団幻覚。
だが物理記録まで変質し始めて、対応は崩壊した。

法改正は数週間で陳腐化し、
教育制度は定着せず、
新通貨は発行直後に価値体系を失った。

世界は、新しさを処理できなくなっていた。

神学者たちは、これを終末と呼ばなかった。
終末には、静止があるからだ。

蟹化には静止がない。
むしろ逆だった。
世界は、生成されすぎていた。

海岸部では、蟹化速度が異常に高かった。
埋立地。
物流港。
再開発区域。

特に、数ヶ月単位で景観が更新される都市ほど、進行が速い。

壁面は夜ごと模様を変え、
広告は意味を保持できず、
新築ビルは完成前に改装される。
街そのものが、次を要求し始める。

そこで初めて、脱蟹化という概念が提唱された。
脱蟹化は治療ではない。
遅延だ。
局所的に、世界の更新速度を落とす。

方法は原始的だった。
同じ時間に起きる。
同じ店へ行く。
同じ料理を作る。
決まった挨拶を交わす。

食事。
睡眠。
反復。
会話。
買い物。

人々は気づき始めた。
生活習慣の維持率が高い区域ほど、
蟹化進行が遅い。
特に、共同生活空間は強い抵抗性を示した。
食卓が存在する家では、人格変質率が低下する。
会話頻度が高い住居では、空間変異が安定する。
一定期間、同じ献立を反復した集合住宅では、
構造変化そのものが減少した。

だから炊飯器が売れた。
異常なほど売れた。
保温された白米が、
空間安定性に寄与しているという論文まで出た。
もちろん因果関係は不明だった。
だが人々は、理由より効果を信じた。
都市下層では、定食屋が避難所になった。
特に、毎日ほぼ同じ味を出す店。
古い油。
同じ湯気。
同じ卓上調味料。
変わらない手順。
それらは、局所的な現実固定力を持っていた。

だからカツ丼が重要になる。
カツ丼は、再生産の料理だからだ。
どこで食べても、だいたい同じであること。
それが世界を繋ぎ止める。

ある調査報告には、こう記録されている。

「高蟹化区域において、
単身生活者の変質率は顕著に高い。
反復的共同生活は、
現在確認されている中で、
もっとも有効な脱蟹化手段である」

つまり人類は、世界を救う方法を見つけたわけではない。
ただ、一緒に暮らすことで、
世界の崩壊速度を少しだけ遅らせている。
それだけだったが、それは、進化かもしれなかった。

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