与え過ぎた女

モダンホラー

父が死んだ夜、女は泣かなかった。

古い港町の家。
線香の煙が低い天井に絡みつくなか、彼女は親族たちの泣き声を背に、黙って通帳の残高を
見ていた。

その目だけが、生きていた。

数か月後、彼女は故郷を捨てる。

湿った潮風の町から、ネオンと排気ガスの都市へ。
頼れる人間はいなかった。

あるのは、人を安心させる妙に柔らかな笑顔と、相手の欲望を瞬時に嗅ぎ分ける感覚だけだった。

彼女は小さな店を始めた。

最初は客の愚痴を聞き、煙草に火をつけ、酒を注ぐだけの仕事だった。
だが彼女は、人間が「何に金を払うか」を理解する才能だけは異様だった。

誰が孤独か。
誰が見栄を張っているか。
誰が支配されることに快感を覚えるか。

それを、本能で知っていた。

十数年後。

彼女は、都会の一角にまったく同じ家を二軒並べて建てた。

白い外壁。
大きなガラス窓。
高級ホテルのような静かな照明。

一軒は、自分のため。
もう一軒は、一人娘のため。

ローンはなかった。

銀行員が笑顔を崩せなくなるほどの現金を、彼女は当然のように積み上げた。

妹夫婦が困窮すれば数百万を振り込み、
病気になれば病院を手配し、
借金取りが現れる前に話を潰した。

「お金なんて、人に使えば増えるものよ」

それが彼女の信仰だった。

実際、彼女の金は減らなかった。

むしろ、与えた後の方が増えているように見えた。

街では妙な噂が囁かれていた。

「あの人の財布の金、繁殖してるらしい」

誰かが冗談めかして言ったその言葉を、
彼女自身、半分は本気で信じていた。

だから彼女は止まらなかった。

家族にも。
従業員にも。
愛した男にも。

街で生き抜くために身につけた圧を、そのまま愛情として使ってしまった。

娘が熱を出した夜は、深夜三時に病院長を叩き起こした。
妹の夫が転職を迷えば、怒鳴りながら履歴書を書き直させた。
恋人が弱音を吐けば、煙草を押し付けて笑った。

「それで死ぬわけじゃないでしょ?」

彼女は、本気で愛していた。

だがその愛情は、重機のようだった。

守るには、強すぎた。

夫はある日、荷物をまとめて消えた。

置き手紙には、一行だけ残されていた。

お前といると、自分が食われていく気がする

娘も成長すると、隣の家へほとんど寄りつかなくなった。

母が用意した完璧な家。
完璧な未来。
完璧な保護。

それら全部が、ゆっくり首を絞める檻に見えてしまったのだ。

それでも彼女は笑っていた。

「家族なんて、困ったら戻ってくるものよ」

だが深夜になると、彼女は誰もいない娘の家へ行く。

灯りもつけず、
冷えたリビングに座り込み、
暗闇の中で、誰かと話している。

近所の人間は何度もそれを見ていた。

彼女の言葉には独特の熱があった。

上品で、美しく、
なのにどこか腐臭が混じる。

高価な香水の奥に、
乾いた血の匂いが潜んでいるような違和感。

彼女は、“人を動かす”ことに長けすぎていた。

そしてその才能は、
愛情と結びついた瞬間、
支配と見分けがつかなくなる。

街で成功した女。
家族を救い続けた女。
誰よりも与え、
誰よりも奪ってしまった女。

閉店後の店で、
彼女は時々、鏡越しに娘を見る。

白いワンピース姿の娘が、
背後に立っている。

もちろん振り返れば誰もいない。

だが最近、
妙な噂が増え始めた。

深夜、空っぽのはずの隣の家に灯りがついている。

カーテンの奥を、
若い女が歩いている。

二階の窓から、
誰かがじっと外を見ている。

そして時々、
インターホンが鳴る。

録画映像には、
誰も映っていない。

ただ、
ドアの向こうから、

娘の声だけがする。

「お母さん、まだいるの?」

彼女はそのたび、
少しだけ震える指で鍵を握りしめる。

娘の家の鍵。

もう何年も、
誰も住んでいないはずの家の鍵を。

孫は、誰にも似ていなかった。
女にも。
娘にも。
まるで別の家系の子供みたいに、
ひどく優しかった。
だから、何度の標的にされた。
孫をいじめた子供は、
なぜか順番に消えていった。

引っ越した家もあれば、
父親が突然失職した家もある。

女は何も言わなかった。
そんな天使も結婚した。
嫁ぎ先の家は、
油の火で焼けた。

天ぷら鍋だった、と聞かされた。

女は消防署へ怒鳴り込んだ。

「どうして助けられなかったの」

誰も答えなかった。

その夜から、
女は酒を飲み始めた。

孫が、自分の代わりに燃えた気がした。

女は、それを誰にも言わなかった。
朝まで、隣の家の灯りは消えなかった。

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