雨は降っていなかった。
それでも夜の部屋には、濡れた土の匂いがこもっていた。
換気扇の音が、浴室の天井で低く回っている。
湯船に肩まで沈みながら、私はぼんやり窓を見ていた。
曇ったガラス。
結露。
黒い夜。
半身浴は、もう何年も続く習慣だった。
五年前から。
五年前の秋、恋人だった男は死んだ。
正確には、自分で消えた。
山の中で、バイクだけが見つかった。
財布も、靴も、ヘルメットもあったのに、本人だけが消えていた。
警察は事故だと言った。
崖下へ落ちたのかもしれない、と。
でも遺体は出なかった。
最後の電話だけが残った。
『今から行く』
風の音がしていた。
その奥で、水が揺れるみたいな音がした。
それから数日後、部屋に異変が起きた。
最初は、観葉植物だった。
ガジュマル。
彼が勝手に持ち込んだ鉢だ。
『これ置いといて』
そう言って、ある日突然、部屋の隅へ置いた。
やたら大きな鉢だった。
ねじれた幹。
分厚い葉。
土から浮いたような根。
『ガジュマルって、精霊が住むらしいよ』
笑いながら言っていた。
『長生きするんだってさ』
その頃からだった。
彼が、妙にこの部屋へ執着するようになったのは。
帰ってくると、窓を少し開ける。
浴室の換気扇をつけっぱなしにする。
加湿器を勝手につける。
湿った空気を好んでいるみたいだった。
『この部屋、落ち着く』
そう言っていた。
私は、自分のことだと思っていた。
湯から上がる。
鏡が真っ白に曇っていた。
裸足で脱衣所へ出た瞬間、視界の端で、何かが揺れた。
白い。
細い煙みたいなもの。
天井近くを、ゆらゆら漂っている。
「……なに」
目を凝らすと消える。
でも視線を外すと、また現れる。
糸みたいだった。
あるいは、根。
白い揺らぎは、ゆっくりリビングへ向かう。
私は吸い寄せられるように後を追った。
部屋は静かだった。
冷蔵庫のモーター音。
換気扇。
壁紙の湿気。
窓際のガジュマルが、黒い影になって立っている。
その葉の間で、白い煙が揺れた。
ぶつり。
突然、テレビがついた。
砂嵐。
ざあああ、と湿ったノイズ。
その奥で、何かが喋っている。
『――――い』
喉が鳴る。
耳の奥が冷えた。
ノイズが途切れる。
『……れたく、ないよ』
男の声だった。
聞き慣れた声。
胸が熱くなる。
「……っ」
白い揺らぎが、ふらふらと部屋を移動する。
浴室の前で止まる。
濡れたタオルの匂いを探るみたいに漂う。
それから、キッチン。
シンク。
加湿器。
窓際。
ガジュマル。
まるで部屋の中を確認しているみたいだった。
『ただいま』
ノイズ混じりの声。
涙が出そうになる。
来てくれたんだ、と思った。
死んでも。
私に会いに。
「おかえり」
笑いながら言う。
白い煙が揺れた。
ほんの少しだけ、人の肩に見えた。
彼は蠍座だった。
執着質で、嫉妬深くて、寂しがり。
死んでも来るんだ。
そう思うと、少し可笑しかった。
その時だった。
違和感が、胸の奥をかすめた。
白い揺らぎは、一度もこちらを見ていない。
私の声にも反応しない。
ただ、部屋を回っている。
ゆっくり。
確かめるみたいに。
濡れた場所ばかり。
湿った場所ばかり。
換気扇の音が強くなる。
ガジュマルの葉が揺れる。
風なんかなかった。
なのに、葉の隙間から、細い根が垂れている。
昨日まで、あんな長さじゃなかった。
ぽたり。
水滴が落ちる。
土の匂いがした。
『ここ、好きなんだよな』
不意に、彼の声を思い出す。
昔、同じ場所で聞いた言葉。
私はずっと、自分へ向けられた言葉だと思っていた。
でも違う。
違ったのだ。
白い煙は、私の横を素通りした。
テレビのノイズが揺れる。
『……あ……』
声。
でも名前じゃない。
呼びかけじゃない。
帰宅した人間が、無意識に漏らす息みたいな音。
そのまま白い揺らぎは、ガジュマルの鉢へ沈んでいく。
土の中へ、染み込むみたいに。
葉が、ざわりと鳴った。
そこでようやく、気づいてしまった。
あれはもう、彼じゃない。
帰る場所だけ覚えている。
湿度。
匂い。
習慣。
換気扇の音。
そういうものに引かれて戻ってきている。
人格はもう、ほとんど残っていない。
それなのに。
「……また来てね」
私は、そう言ってしまった。
ガジュマルの葉が揺れる。
嬉しそうに見えた。
その夜からだった。
部屋の湿気が、異常に増え始めたのは。
朝になると窓が濡れている。
壁紙が波打つ。
浴室の換気扇を止めると、どこかで息をする音がする。
そしてガジュマルは、急速に育ち始めた。
細い気根が、天井から垂れる。
床へ伸びる。
家具に絡みつく。
まるで、この部屋そのものに根を張るみたいに。
私は毎晩、水をやった。
土はいつも湿っていた。
なのに、乾いている気がした。
もっと欲しがっている気がした。
ある夜、ふと目を覚ます。
暗闇の中。
部屋じゅうに、白い根のようなものが浮かんでいた。
湿った息遣い。
テレビの黒い画面。
そこに、自分が映っている。
その背後。
無数の白い揺らぎが、ガジュマルの葉の奥で揺れていた。
