真壁円は、恋愛相談が嫌いではない。
人の話を聞く仕事をしている以上、恋愛は避けて通れない。
ただし、得意ではない。
好きになる理由は、人それぞれだ。
嫌いになる理由も、人それぞれだ。
その間にあるものだけが、たいてい本人にも説明できない。
「父親みたいな人を好きになるんです」
向かいに座る女はそう言ってから、小さく首を振った。
「違うんです。そういう言い方をすると、少し違うんです」
真壁円は返事を急がなかった。
インスタントコーヒーを一口飲む。
安い苦味が舌に残る。
鏡の向こうからは、もっと深く焙煎された香りが微かに漂ってきていた。
部屋のどこにも鏡は見えない。
それでも夜になると、ときどき向こう側の匂いだけが境界を越えてくる。
相談者は、笹原美緒という。
二十九歳。
事務職。
これまで交際した男性の写真を、封筒から静かに取り出して畳へ並べ始めた。
教師。
美容師。
ライブハウスで働く男。
宗教団体の青年。
夜勤専門の警備員。
誰一人として似ていない。
顔も違う。
年齢も違う。
服装も違う。
円は順番に眺めた。
「付き合い始めは、ちゃんと別の人なんです」
美緒が言う。
「でも、一緒に暮らしたり、何度も会ったりすると、急に同じ人に見えてくるんです」
「同じ人?」
「ええ」
美緒は一枚の写真を指で押さえた。
「煙草を吸う仕草とか」
別の写真へ指が移る。
「靴の脱ぎ方とか」
さらに別の写真。
「コーヒーを飲む前に冷ます癖とか」
円は何も書かなかった。
相談者の言葉を遮らない。
「そういうのを見つけると、この人だ、って思うんです」
少し笑う。
乾いた笑いだった。
「でも近づくと違うんです」
沈黙。
「違うから、また探してしまう」
部屋のどこかで、
ショリ。
小さな音がした。
コーヒー豆を挽く音。
美緒は気づかない。
円だけが、耳の奥でその音を聞いていた。
『恋愛ではない』
カイギデルが言う。
円は答えない。
『何かを照合している』
「……」
『探しているのは人じゃない』
円は視線だけ動かした。
「静かに」
独り言ほどの声だった。
美緒は少し肩をすくめる。
「すみません。話しすぎました」
「いえ」
円は首を振る。
「続きを聞かせてください」
美緒は少しだけ安心したようだった。
両手を膝の上で組み直す。
「父とは、小さい頃に別れました」
円は黙って聞く。
「母が私を連れて家を出たので、それから一度も会っていません」
「連絡も?」
「ありません」
少し考え、
「……たぶん」と言い直した。
その「たぶん」が部屋に残る。
円はその言葉だけを拾った。
「たぶん?」
美緒は視線を落とした。
「先月、警察から連絡が来ました」
間が空く。
「父が亡くなっていたそうです」
円は息を止めなかった。
驚く仕事ではない。
「部屋で」
美緒は続ける。
「白骨化していました」
その瞬間だった。
胸の奥に、何かが引っかかった。
言葉ではない。
映像でもない。
ただ、二回。
円は眉をひそめた。
何が二回なのか分からない。
何も見えていない。
ただ、その断片だけが脳の奥へ落ちてきた。
『拾ったな』
カイギデルが静かに言う。
円は答えない。
『私じゃない』
その一言だけだった。
「どうしました?」
美緒が訊く。
「いえ」
円は首を振る。
「続けてください」
「……遺品整理をお願いされました」
「一人では入れなくて」
「だから?」
「紹介されました」
「あなたなら、何か分かるかもしれないって」
円は少しだけ考える。
分かる、とは思わない。
ただ、境界が柔らかい場所では、ときどき情報が流れる。
意味を持たないまま。
それを繋ぐのは、いつも自分だった。
「行きましょう」
円は静かに立ち上がる。
「今からですか」
「はい」
美緒は驚いたようだったが、やがて小さく頷いた。
外へ出る。
夕方の空気はまだ熱を残していた。
商店街を抜ける。
クリーニング店の前を通る。
八百屋の店じまい。
信号待ち。
古い団地へ続く坂道。
歩きながら、円はずっと考えていた。
二回。
それだけが、まだ消えない。
意味はない。
けれど、
境界が何かを運ぶときは、いつもこんなふうだった。
最初に届くのは、
答えではない。
断片だけだった。
木造アパートは、坂の途中で夕暮れを抱え込むように建っていた。
二階の廊下はわずかに傾いている。
歩くたび、床板が乾いた音を返した。
「ここです」
笹原美緒は鍵束を握ったまま立ち止まる。
指先に力が入らないのか、鍵が何度も鍵穴を外れた。
「無理なら、今日は帰りましょう」
円はそう言った。
美緒は小さく笑う。
「帰っても、また来ると思うんです」
もう一度鍵を差し込む。
今度は回った。
扉がゆっくり開く。
古い畳。
埃。
洗剤の残り香。
湿気を吸った木材。
円はその場で立ち止まった。
胸の奥が、わずかに軋む。
境界が近い。
怪異がいるのではない。
情報が沈んでいる。
「入ります」
美緒が靴を脱ぐ。
円も続いた。
玄関に並ぶ革靴が目に入る。
その瞬間だった。
左。
円は思わず息を止める。
まただ。
意味がない。
ただ一語だけ落ちてくる。
「どうしました」
「……いや」
円は首を振る。
革靴を見る。
右。
左。
揃えてある。
それだけだ。
何もおかしくない。
それでも胸の奥では、
左という言葉だけが静かに残っていた。
居間は驚くほど普通だった。
低い座卓。
灰皿。
畳まれた洗濯物。
読みかけの文庫本。
誰かが今まで暮らしていた部屋。
死より先に、生活がある。
円はそのことに少し安心した。
「ここで……」
美緒が部屋を見回す。
「父は暮らしてたんですね」
返事はしなかった。
代わりに座卓へ近づく。
灰皿。
吸い殻が二本。
火皿へ深く押し込まれている。
その瞬間、
二回。
円は目を閉じた。
二回。
左。
断片だけが増えていく。
「……」
意味は分からない。
分からないまま灰皿を持ち上げる。
吸い殻を見る。
押し潰された紙。
灰。
円は指先で窪みをなぞった。
「……そうか」
美緒が振り向く。
「何か」
「煙草を消すとき」
円は灰皿を見たまま言う。
「二回押してます」
「え?」
「一回じゃない」
円は自分でも驚いていた。
なぜそんなことが分かるのか。
分からない。
ただ、二回という断片だけが、
灰皿を見た瞬間につながった。
『なるほど』
脳の後ろでカイギデルが呟く。
円は返事をしない。
『境界は意味を運ばない』
静かな声だった。
『形だけ運ぶ』
円は黙っていた。
それ以上説明はなかった。
部屋の奥へ進く。
流し台。
古い電気ケトル。
マグカップが一つ。
縁に小さな欠けがある。
その瞬間、三分。
また落ちてきた。
円は額を押さえる。
三分。
時計を見る。
午後六時十二分。
違う。
湯を沸かす時間でもない。
三分。
何だ?
円はマグカップを手に取る。
鼻を近づける。
かすかにコーヒーの香り。
インスタント。
そのまま飲まない。
冷ます。
「……三分」
気付く。
「この人」
円はゆっくり言う。
「熱いコーヒーが苦手だった」
美緒は息を呑む。
「どうして」
「分かりません」
円は正直に答えた。
「でも」
マグカップを置く。
「たぶん、そうです」
美緒は何も言えなかった。
円も説明できなかった。
当てたのではない。
思い出したのでもない。
情報だけが、
部屋のどこかから流れ込んでくる。
意味を持たないまま。
それを自分が勝手につないでいる。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の中は空だった。
時計も止まっている。
それでも生活だけが、
まだ部屋の形を保っていた。
「不思議ですね」
美緒がぽつりと言う。
「父の顔は思い出せないのに」
部屋を見回す。
「ここは少し懐かしい」
円は答えなかった。
懐かしいのではない。
生活というものは、
人がいなくなっても、
しばらく場所に残る。
境界が柔らかい日は、
その輪郭だけが滲み出す。
円はそう考えていた。
そのときだった。
押し入れの襖が、
ひとりでに、音もなく一寸だけ開いた。
風ではない。
誰かが開けたわけでもない。
部屋が、次の情報を渡そうとしていた。
押し入れの襖は、それ以上開かなかった。
誰かが誘っているわけではない。
ただ、「まだある」
そんな気配だけが部屋に残る。
真壁円は静かに襖へ近づいた。
美緒も後ろからついてくる。
押し入れの中には、段ボール箱が一つだけ置かれていた。
古びたガムテープ。
色褪せた宅配伝票。
円は箱を床へ下ろす。
中には古いノートが数冊。
子ども用の靴下。
包装も開いていない髪留め。
それから、黄ばんだ便箋が一通。
表には、「美緒へ」とだけ書かれていた。
美緒の呼吸が止まる。
「……これ」
封はされていない。
中を開く。
最初の一行だけ文字があった。
美緒へ。
元気ですか。
その下は白紙だった。
書き損じではない。
何度も書こうとして、
何も書けなかった白さだった。
その瞬間、
円の胸へ、また何かが落ちてきた。
六月。
意味は分からない。
続けて、
赤。
円は目を閉じた。
六月。
赤。
二回。
左。
三分。
断片ばかりが増えていく。
「大丈夫ですか」
美緒が心配そうに覗き込む。
「……少し待ってください」
円は便箋を見つめた。
六月。
赤。
視線が自然と部屋を巡る。
壁に掛かった古いカレンダー。
六月で止まっている。
画鋲には、赤い輪ゴムが一本だけ掛けられていた。
「あ……」
円は思わず声を漏らした。
「六月になると」
美緒が顔を上げる。
「毎年、手紙を書こうとしていた」
「え……?」
「でも書けなかった」
便箋を裏返す。
鉛筆で書きかけた跡が何枚も残っている。
光へ透かすと、消された文字だけが浮かび上がった。
何度も。
何年も。
同じ書き出しだけを書いていた。
美緒へ。
元気ですか。
その先だけが、
どうしても続かなかった。
部屋の空気が重くなる。
畳の目がゆっくり揺れた。
冷えたコーヒーカップの底から、
黒い波紋が静かに広がっていく。
円は立ち上がった。
「来ます」
「何が……?」
答える前に、
影が伸びた。
座卓。
玄関。
流し台。
灰皿。
部屋じゅうの影がゆっくり集まり、
人の形になる。
五人。
教師。
美容師。
ライブハウスで働く男。
宗教団体の青年。
夜勤の警備員。
どの顔も見えない。
ただ、煙草を吸う指だけがある。
左へ揃える靴だけがある。
冷めるのを待つコーヒーだけがある。
雨の日の鼻歌だけがある。
美緒は震えた。
「また……」
違う。
円は思った。
これは霊ではない。
境界に残っていた、
生活の断片だ。
誰かが強く思い続けた癖。
習慣。
ためらい。
後悔。
それらが行き場を失い、
似た形を探し続けていた。
だから美緒は、
男たちの中へ父親を探した。
父親そのものではなく、
父親という生活の輪郭を。
『人は忘れる』
脳の奥で、カイギデルが静かに言った。
『境界は忘れない』
円は便箋を美緒へ差し出した。
「続きを書いてください」
美緒は首を振る。
「私には書けません」
「違います」
円は言った。
「お父さんの続きを書くんじゃありません」
便箋をそっと押し返す。
「あなたの返事を書いてください」
長い沈黙があった。
やがて美緒は、
部屋に残されていたボールペンを手に取る。
震える指で、
白紙へ一行だけ書いた。
元気です。
それだけだった。
風もないのに、
部屋の空気がほどける。
影が崩れる。
煙草の匂いが薄くなる。
コーヒーの香りが静かに消える。
最後まで残ったのは、
雨の日の鼻歌だけだった。
それも、誰かが遠くで口ずさむほどの小ささになって、
やがて聞こえなくなった。
『返ったな』
カイギデルが言う。
円は首を横に振る。
「返ったんじゃない」
窓の外を見る。
夕暮れは終わり、
街灯が団地の階段を照らしている。
「届いたんだ」
美緒は便箋を胸へ抱いたまま、
小さく泣いていた。
帰り道、二人は商店街の手前で別れた。
「ありがとうございました」
「いいえ」
「先生」
美緒は少し笑う。
「たぶん、もう探さなくて済みます」
円は頷いた。
「それで十分です」
美緒は駅の方へ歩いていった。
円は反対方向へ向かう。
夜風が少し涼しい。
コンビニへ入り、
缶コーヒーを一本買う。
温かい缶を手に持つ。
開ける。
一口飲もうとして、
止まった。
熱い。
気づけば、
円は街灯の下で、
缶を持ったまま待っていた。
三分ほど。
「あ……」
思わず笑う。
『残っている』
カイギデルが言う。
「少しだけな」
『全部は返らない』
円は缶コーヒーを一口飲んだ。
もう熱くはなかった。
苦い。
安っぽい味だった。
それでも悪くない。
世界は今日も少し柔らかい。
境界は、人でも神でもない。
ただ情報を運ぶ。
そして依代とは、その途中で、
少しだけ預かってしまう人間のことだった。