4話:付き合う人が、みんな同じ人に見えてくる

真壁円の物語

真壁円は、恋愛相談が嫌いではない。
人の話を聞く仕事をしている以上、恋愛は避けて通れない。
ただし、得意ではない。
好きになる理由は、人それぞれだ。
嫌いになる理由も、人それぞれだ。
その間にあるものだけが、たいてい本人にも説明できない。
「父親みたいな人を好きになるんです」
向かいに座る女はそう言ってから、小さく首を振った。
「違うんです。そういう言い方をすると、少し違うんです」
真壁円は返事を急がなかった。
インスタントコーヒーを一口飲む。
安い苦味が舌に残る。
鏡の向こうからは、もっと深く焙煎された香りが微かに漂ってきていた。
部屋のどこにも鏡は見えない。
それでも夜になると、ときどき向こう側の匂いだけが境界を越えてくる。
相談者は、笹原美緒という。
二十九歳。
事務職。
これまで交際した男性の写真を、封筒から静かに取り出して畳へ並べ始めた。
教師。
美容師。
ライブハウスで働く男。
宗教団体の青年。
夜勤専門の警備員。
誰一人として似ていない。
顔も違う。
年齢も違う。
服装も違う。
円は順番に眺めた。
「付き合い始めは、ちゃんと別の人なんです」
美緒が言う。
「でも、一緒に暮らしたり、何度も会ったりすると、急に同じ人に見えてくるんです」
「同じ人?」
「ええ」
美緒は一枚の写真を指で押さえた。
「煙草を吸う仕草とか」
別の写真へ指が移る。
「靴の脱ぎ方とか」
さらに別の写真。
「コーヒーを飲む前に冷ます癖とか」
円は何も書かなかった。
相談者の言葉を遮らない。
「そういうのを見つけると、この人だ、って思うんです」
少し笑う。
乾いた笑いだった。
「でも近づくと違うんです」
沈黙。
「違うから、また探してしまう」
部屋のどこかで、
ショリ。
小さな音がした。
コーヒー豆を挽く音。
美緒は気づかない。
円だけが、耳の奥でその音を聞いていた。
『恋愛ではない』
カイギデルが言う。
円は答えない。
『何かを照合している』
「……」
『探しているのは人じゃない』
円は視線だけ動かした。
「静かに」
独り言ほどの声だった。
美緒は少し肩をすくめる。
「すみません。話しすぎました」
「いえ」
円は首を振る。
「続きを聞かせてください」
美緒は少しだけ安心したようだった。
両手を膝の上で組み直す。

「父とは、小さい頃に別れました」
円は黙って聞く。
「母が私を連れて家を出たので、それから一度も会っていません」
「連絡も?」
「ありません」
少し考え、
「……たぶん」と言い直した。
その「たぶん」が部屋に残る。
円はその言葉だけを拾った。
「たぶん?」
美緒は視線を落とした。
「先月、警察から連絡が来ました」
間が空く。
「父が亡くなっていたそうです」
円は息を止めなかった。
驚く仕事ではない。
「部屋で」
美緒は続ける。
「白骨化していました」
その瞬間だった。
胸の奥に、何かが引っかかった。
言葉ではない。
映像でもない。
ただ、二回。
円は眉をひそめた。
何が二回なのか分からない。
何も見えていない。
ただ、その断片だけが脳の奥へ落ちてきた。
『拾ったな』
カイギデルが静かに言う。
円は答えない。
『私じゃない』
その一言だけだった。
「どうしました?」
美緒が訊く。
「いえ」
円は首を振る。
「続けてください」
「……遺品整理をお願いされました」
「一人では入れなくて」
「だから?」
「紹介されました」
「あなたなら、何か分かるかもしれないって」
円は少しだけ考える。
分かる、とは思わない。
ただ、境界が柔らかい場所では、ときどき情報が流れる。
意味を持たないまま。
それを繋ぐのは、いつも自分だった。
「行きましょう」
円は静かに立ち上がる。
「今からですか」
「はい」
美緒は驚いたようだったが、やがて小さく頷いた。
外へ出る。
夕方の空気はまだ熱を残していた。
商店街を抜ける。
クリーニング店の前を通る。
八百屋の店じまい。
信号待ち。
古い団地へ続く坂道。
歩きながら、円はずっと考えていた。
二回。
それだけが、まだ消えない。
意味はない。
けれど、
境界が何かを運ぶときは、いつもこんなふうだった。
最初に届くのは、
答えではない。
断片だけだった。

木造アパートは、坂の途中で夕暮れを抱え込むように建っていた。
二階の廊下はわずかに傾いている。
歩くたび、床板が乾いた音を返した。
「ここです」
笹原美緒は鍵束を握ったまま立ち止まる。
指先に力が入らないのか、鍵が何度も鍵穴を外れた。
「無理なら、今日は帰りましょう」
円はそう言った。
美緒は小さく笑う。
「帰っても、また来ると思うんです」
もう一度鍵を差し込む。
今度は回った。
扉がゆっくり開く。
古い畳。
埃。
洗剤の残り香。
湿気を吸った木材。
円はその場で立ち止まった。
胸の奥が、わずかに軋む。
境界が近い。
怪異がいるのではない。
情報が沈んでいる。
「入ります」
美緒が靴を脱ぐ。
円も続いた。
玄関に並ぶ革靴が目に入る。
その瞬間だった。
左。
円は思わず息を止める。
まただ。
意味がない。
ただ一語だけ落ちてくる。
「どうしました」
「……いや」
円は首を振る。
革靴を見る。
右。
左。
揃えてある。
それだけだ。
何もおかしくない。
それでも胸の奥では、
左という言葉だけが静かに残っていた。
居間は驚くほど普通だった。
低い座卓。
灰皿。
畳まれた洗濯物。
読みかけの文庫本。
誰かが今まで暮らしていた部屋。
死より先に、生活がある。
円はそのことに少し安心した。
「ここで……」
美緒が部屋を見回す。
「父は暮らしてたんですね」
返事はしなかった。
代わりに座卓へ近づく。
灰皿。
吸い殻が二本。
火皿へ深く押し込まれている。
その瞬間、
二回。
円は目を閉じた。
二回。
左。
断片だけが増えていく。
「……」
意味は分からない。
分からないまま灰皿を持ち上げる。
吸い殻を見る。
押し潰された紙。
灰。
円は指先で窪みをなぞった。
「……そうか」
美緒が振り向く。
「何か」
「煙草を消すとき」
円は灰皿を見たまま言う。
「二回押してます」
「え?」
「一回じゃない」
円は自分でも驚いていた。
なぜそんなことが分かるのか。
分からない。
ただ、二回という断片だけが、
灰皿を見た瞬間につながった。
『なるほど』
脳の後ろでカイギデルが呟く。
円は返事をしない。
『境界は意味を運ばない』
静かな声だった。
『形だけ運ぶ』
円は黙っていた。
それ以上説明はなかった。
部屋の奥へ進く。
流し台。
古い電気ケトル。
マグカップが一つ。
縁に小さな欠けがある。
その瞬間、三分。
また落ちてきた。
円は額を押さえる。
三分。
時計を見る。
午後六時十二分。
違う。
湯を沸かす時間でもない。
三分。
何だ?
円はマグカップを手に取る。
鼻を近づける。
かすかにコーヒーの香り。
インスタント。
そのまま飲まない。
冷ます。
「……三分」
気付く。
「この人」
円はゆっくり言う。
「熱いコーヒーが苦手だった」
美緒は息を呑む。
「どうして」
「分かりません」
円は正直に答えた。
「でも」
マグカップを置く。
「たぶん、そうです」
美緒は何も言えなかった。
円も説明できなかった。
当てたのではない。
思い出したのでもない。
情報だけが、
部屋のどこかから流れ込んでくる。
意味を持たないまま。
それを自分が勝手につないでいる。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の中は空だった。
時計も止まっている。
それでも生活だけが、
まだ部屋の形を保っていた。
「不思議ですね」
美緒がぽつりと言う。
「父の顔は思い出せないのに」
部屋を見回す。
「ここは少し懐かしい」
円は答えなかった。
懐かしいのではない。
生活というものは、
人がいなくなっても、
しばらく場所に残る。
境界が柔らかい日は、
その輪郭だけが滲み出す。
円はそう考えていた。
そのときだった。
押し入れの襖が、
ひとりでに、音もなく一寸だけ開いた。
風ではない。
誰かが開けたわけでもない。
部屋が、次の情報を渡そうとしていた。
押し入れの襖は、それ以上開かなかった。
誰かが誘っているわけではない。
ただ、「まだある」
そんな気配だけが部屋に残る。
真壁円は静かに襖へ近づいた。
美緒も後ろからついてくる。
押し入れの中には、段ボール箱が一つだけ置かれていた。
古びたガムテープ。
色褪せた宅配伝票。
円は箱を床へ下ろす。
中には古いノートが数冊。
子ども用の靴下。
包装も開いていない髪留め。
それから、黄ばんだ便箋が一通。
表には、「美緒へ」とだけ書かれていた。
美緒の呼吸が止まる。
「……これ」
封はされていない。
中を開く。
最初の一行だけ文字があった。

美緒へ。

元気ですか。

その下は白紙だった。
書き損じではない。
何度も書こうとして、
何も書けなかった白さだった。
その瞬間、
円の胸へ、また何かが落ちてきた。
六月。
意味は分からない。
続けて、
赤。
円は目を閉じた。
六月。
赤。
二回。
左。
三分。
断片ばかりが増えていく。
「大丈夫ですか」
美緒が心配そうに覗き込む。
「……少し待ってください」
円は便箋を見つめた。
六月。
赤。
視線が自然と部屋を巡る。
壁に掛かった古いカレンダー。
六月で止まっている。
画鋲には、赤い輪ゴムが一本だけ掛けられていた。
「あ……」
円は思わず声を漏らした。
「六月になると」
美緒が顔を上げる。
「毎年、手紙を書こうとしていた」
「え……?」
「でも書けなかった」
便箋を裏返す。
鉛筆で書きかけた跡が何枚も残っている。
光へ透かすと、消された文字だけが浮かび上がった。
何度も。
何年も。
同じ書き出しだけを書いていた。
美緒へ。
元気ですか。
その先だけが、
どうしても続かなかった。
部屋の空気が重くなる。
畳の目がゆっくり揺れた。
冷えたコーヒーカップの底から、
黒い波紋が静かに広がっていく。
円は立ち上がった。
「来ます」
「何が……?」
答える前に、
影が伸びた。
座卓。
玄関。
流し台。
灰皿。
部屋じゅうの影がゆっくり集まり、
人の形になる。
五人。
教師。
美容師。
ライブハウスで働く男。
宗教団体の青年。
夜勤の警備員。
どの顔も見えない。
ただ、煙草を吸う指だけがある。
左へ揃える靴だけがある。
冷めるのを待つコーヒーだけがある。
雨の日の鼻歌だけがある。
美緒は震えた。
「また……」
違う。
円は思った。
これは霊ではない。
境界に残っていた、
生活の断片だ。
誰かが強く思い続けた癖。
習慣。
ためらい。
後悔。
それらが行き場を失い、
似た形を探し続けていた。
だから美緒は、
男たちの中へ父親を探した。
父親そのものではなく、
父親という生活の輪郭を。
『人は忘れる』
脳の奥で、カイギデルが静かに言った。
『境界は忘れない』
円は便箋を美緒へ差し出した。
「続きを書いてください」
美緒は首を振る。
「私には書けません」
「違います」
円は言った。
「お父さんの続きを書くんじゃありません」
便箋をそっと押し返す。
「あなたの返事を書いてください」
長い沈黙があった。
やがて美緒は、
部屋に残されていたボールペンを手に取る。
震える指で、
白紙へ一行だけ書いた。

元気です。

それだけだった。
風もないのに、
部屋の空気がほどける。
影が崩れる。
煙草の匂いが薄くなる。
コーヒーの香りが静かに消える。
最後まで残ったのは、
雨の日の鼻歌だけだった。
それも、誰かが遠くで口ずさむほどの小ささになって、
やがて聞こえなくなった。
『返ったな』
カイギデルが言う。
円は首を横に振る。
「返ったんじゃない」
窓の外を見る。
夕暮れは終わり、
街灯が団地の階段を照らしている。
「届いたんだ」
美緒は便箋を胸へ抱いたまま、
小さく泣いていた。
帰り道、二人は商店街の手前で別れた。
「ありがとうございました」
「いいえ」
「先生」
美緒は少し笑う。
「たぶん、もう探さなくて済みます」
円は頷いた。
「それで十分です」
美緒は駅の方へ歩いていった。
円は反対方向へ向かう。
夜風が少し涼しい。
コンビニへ入り、
缶コーヒーを一本買う。
温かい缶を手に持つ。
開ける。
一口飲もうとして、
止まった。
熱い。
気づけば、
円は街灯の下で、
缶を持ったまま待っていた。
三分ほど。
「あ……」
思わず笑う。
『残っている』
カイギデルが言う。
「少しだけな」
『全部は返らない』
円は缶コーヒーを一口飲んだ。
もう熱くはなかった。
苦い。
安っぽい味だった。
それでも悪くない。
世界は今日も少し柔らかい。
境界は、人でも神でもない。
ただ情報を運ぶ。
そして依代とは、その途中で、
少しだけ預かってしまう人間のことだった。

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました