ホラー映画の皮をかぶった資本主義批判
「ドント・ブリーズ」は一見、盲目の老人と若者たちの
息詰まる死闘を描いたスリラー作品に見えます。
しかし、その奥には、もっと根深い問いが潜んでいます。
「命は、金で償えるのか?」
「償われた命は、そのまま商品として、次の誰かに奪われるのか?」
そうした問いのすべてが、静かに、しかし確実に描かれていました。
命は示談金に変わり、管理されます。
この物語の出発点は、「命」が「金」に置き換えられた瞬間にあります。
盲目の老人ノーマンは、娘を交通事故で失います。
加害者は罪を問われず、示談金を払って自由の身になってしまいました。
そのお金は、ノーマンの家に保管されています。
ここで既に、命の価値が司法と金によって管理されてしまっています。
「正義」は果たされなかったが、「価格」はついたのです。
そして命の代償が、新たな奪いの対象となります。
ロッキーたちが盗みに入る理由は、そのような、お金があるからでした。
ロッキーは、妹とともに貧困と虐待から逃れるために金が必要だったのです。
ノーマンは、その金を使って、命を作り直す儀式を始めていました。
つまり、どちらも「生きるために」その金を求めています。
一方は、生き残るために。
一方は、命を再生させるために。
だがその金は、元々「死の代償」であり、もしかしたら、
「奪い返されるための宿命」を背負っているとも言えます。
ノーマンのお金を盗んだロッキーに訪れる静かな違和感。
ロッキーは最後、奪ったお金を持って、妹と共にカリフォルニアへ向かいます。
だが、その自由には祝福がありません。
仲間を失いましたし、様々な犠牲の上に得た金だからです。
何よりも奪った金が、今度は奪われる不安を生みます。
この構造は、現代の資本主義そのものです。
命や時間を売って得た金を、今度は「奪われないように」守らねばなりません。
自由のための手段が、逆に「恐怖の源」になります。
命が金に変わった世界に、救済はあるのでしょうか?
「ドント・ブリーズ」には、癒しも赦しもありません。
ただ、「命が貨幣になった結果、人が互いを喰らう」構造だけが残されます。
これは、まさに資本主義の核心かも知れません。
労働が命を削ることだとすれば、貨幣とは、命の切れ端を固めた結晶かも知れません。
命が金に変わったとき、その金をめぐる闘争に巻き込まれない人間はいないのです。
もちろん、強盗では、ありませんが、知らず知らずのうちに利益の奪い合いに
参加することになります。
上がり続ける税金や社会保険料も例外では、ありません。
では、私たちはこの構造を終わらせられるでしょうか?
答えは、まだ出ていません。
救済の方法は、容易には見つからないのです。
だが、問いを立てることはできます。
命の価値を、数字で測ることに慣れすぎているのかもしれません。
様々な種類の貧しさや喪失が、奪い合いにしか繋がるような構造を放置し続けた結果
かも知れません。
「ドント・ブリーズ」は、サスペンス映画の形を借りて、資本主義の深層に警鐘を
鳴らす作品に思えました。
ロッキーはその問いを、カリフォルニアの陽射しの中に持ち込みました。
「命を奪い合わずに生きる方法はあるのか?」
「貨幣が命の代用品になったとき、何が失われたのか?
これらの問いには、答えずにおきます。
彼らが悪人かどうかではなく、彼らの選択した内容が、重く沈殿しています。
「命が金になった」
「資本主義の構造がむき出しになった」
そんなふうに整理することは、ある意味で可能かも知れません。
それではあまりに美しく終わりすぎてしまうようにも思えます。
この映画の本質は、「救われなかった者たちが、互いを傷つけ合いながら、
生き延びるしかなかった」という、どうしようもない痛みであるかも知れません。
最後に残るのは、「倫理の線引き」だけです。
この一線を、どんなに哀しみの中でも、どんなに自分の正義を信じていても、
越えてはならない何かがあるかも知れません。
なぜなら、それを越えた瞬間、すべての命が奪い合いの部品になってしまうからです。
