映画「ハンナ」を初めて観たとき、少し戸惑いました。
予告編やパッケージの印象からは、典型的なスパイアクションを
期待していました。
しかし実際に観てみると、そこにあるのは「派手な戦闘」でも
「敵とのスリル」でもなく、どこか奇妙で、内面的で、そして、
どこまでも母と娘の関係に似た何かでした。
この映画は、アクションの体裁をとりながらも、
実は非常にプライベートで、痛みをはらんだ物語です。
鉄砲を持った母、矢を放つ娘
劇中でハンナを執拗に追うのは、CIAのエージェントである
マリッサという女性です。
彼女は徹底的に冷たく、完璧に整えられた見た目で、まるで
教育ママのようにも見えます。
一方、ハンナは小さい頃から訓練を受け、身体能力的にも
知識にも優れている少女です。
それなのに、なぜか彼女はマリッサを倒すのではなく、ひたすら
逃げ続けます。
この対比が、すでに象徴的です。
マリッサが握るのは銃(権力、制度、親の正しさ)
ハンナが使うのは矢(感情、自然、自分の選択)
この構図は、まさに家庭内の戦いを表しているように感じました。
表面的には冷静で理性的に見える母親が、実は非常に支配的で
攻撃的です。
それに対して娘は、黙って逃げながら、自分の矢を携えています。
このような状況は、現実の家庭にもよくあるのではないでしょうか。
ハンナの封印された強さに込められた意味
映画の前半で、ハンナは非常に強く描かれます。
どんな敵も瞬時に倒すことができ、冷静に状況を判断し、見事に
脱出していきます。
しかし、物語が進むにつれて、ハンナはどんどん「普通の少女」
になっていきます。
迷い、動揺し、自分が誰なのかに戸惑い、感情を露わにしていくのです。
アクション映画として見ると、これは失速に感じるかもしれません。
これは、母親に与えられた強さを、ハンナ自身が拒否している描写
かも知れません。
ただ強くなるのではなく、「誰のために、何のために強くなったのか」を
問い直しているのです。
それができたときに初めて、彼女は自分の手で、母の物語を終わらせる
ことができます。
タロットの視点で読む「ハンナ」
この映画にはいくつかの象徴的なカードが浮かび上がります。
タロットカード | 象徴される存在やテーマ |
---|---|
女教皇(影の側) | マリッサ=知性による支配、冷たい母性 |
月 | ハンナ=混乱、自我の曖昧さ、無意識の支配 |
塔 | 最後の矢=母との関係の崩壊、神話の終焉 |
恋人(逆位置) | 子どもとしての未熟さ、選べない立場 |
特に「月」と「塔」の組み合わせは、母から逃げながら、自分自身を再定義していく
ハンナの内面の旅を象徴しているように思います。
この映画を観るべき人たちへ
この映画は、母親に支配されて育ったすべての人に捧げられているように思います。
母の期待、母の価値観、母のルール、そういったものが、「愛の名のもと」に、
知らず知らずのうちにあなたの中に入り込んでいると感じたことはありませんか?
「ハンナ」は、そんな人に向けてこう語りかけてきます。
「逃げてもいいんだよ」
「戦わなくてもいいんだよ」
「でも、自分の矢で、自分の物語を終わらせていいんだよ」
支配から自由へ、沈黙から言葉へ
マリッサは矢で撃たれてもすぐには倒れません。
ハンナも撃たれても歩き続けます。
これは肉体の戦いではなく、魂の戦いだからです。
彼女たちは、母娘として直接名指しされることはありませんが、
映画のすべてが「親子関係」「継承」「断絶」というテーマに貫かれています。
「ハンナ」という映画を、スパイ映画ではなく「母と娘の寓話」として観たとき、
そこには多くの人にとっての逃げられなかった家庭の記憶が立ち上がるのです。
娘はなぜ、誰にも守られなかったのか──「ハンナ」に見る支配的な母と脆すぎる父性
映画「ハンナ」は、強い少女と冷酷な女性エージェントの戦いを描いた作品です。
しかしその背景には、極端な父性の崩壊が静かに描かれているように感じました。
印象的なのは、男性キャラクターがみな驚くほど簡単に死ぬということです。
それは偶然ではなく、この映画が描くもう一つのテーマ、「支配的な母」と
「崩壊した父性」を強調するための演出だと思っています。
マリッサの手先たちの死は、ハンナと比較すると不自然なほど呆気なくやられてしまいます。
マリッサに仕える部下によっては、不気味な雰囲気をまとって登場します。
一見すると有能で恐ろしげに描かれ、油断のないプロのように見えます。
しかし、いざとなるとあっけなく倒され、死んでいきます。
たとえばドイツのクラブでハンナを追う手下は、異様な風貌やサディスティックな
態度で登場するものの、最後にはなんの貢献もできず、あっという間に排除されます。
このあたりの描写は、表面的な脅威を示しながらも、実は「支配する女性に従うだけの
男たちの無力さ」を浮き彫りにしているように思います。
知人の家に住むグリム童話的な父性も、結局は役に立ちません
物語の後半でハンナは、童話のような雰囲気を漂わせる森の家を訪れます。
そこには、過去を知る人物として配置された知人男性が登場します。
彼はどこか神秘的で、知恵や真実を語る導き手のように見える設定です。
しかしその実、彼もまた、ほとんど何もできないままに命を落とします。
彼の死は、妙に演出されており、象徴的にすら見えます。
「娘を導くような父性は幻想であり、何の助けにもならない」
そんな暗いメッセージを漂わせながら、彼は物語から消えていきます。
父親代わりのエリックも、父性の仮面をかぶっただけの存在です
ハンナを育てた養父エリックは、物語序盤では、頼れる父のように描かれます。
彼はハンナに戦う術を与え、逃げ方を教え、旅の起点となる役割を果たします。
しかし、実際には彼もハンナを守ることができません。
マリッサにあっさりと打ち倒され、彼が伝えようとしていた真実も、
結局はハンナ自身が自力で回収することになります。
この構図もまた、「父親らしき存在」が、何一つ機能していないことを
強く印象づけます。
この映画は、「父性なき世界」の物語なのです。
「ハンナ」という映画の中には、頼れる父も、支えてくれる年上の男性も、
守ってくれる手下も登場しません。
どの男性も、敵味方問わず、驚くほど簡単に命を落としていきます。
その一方で、支配する女性(マリッサ)と逃げる女性(ハンナ)だけが生き残る。
この構図は、母性だけが圧倒的な力を持ち、父性は完全に崩壊しているという
家庭や社会のメタファーとして受け取ることができます。
タロット的視点:欠落する「皇帝」のカード
タロットカードの観点から見ると、この映画は非常に偏った構造をしています。
タロット的視点:欠落する「皇帝」のカード
タロットカードの観点から見ると、この映画は非常に偏った構造をしています。
カード | 象徴される存在/欠落 |
---|---|
女教皇(逆位置) | マリッサ=支配する母性、冷たさ、計算 |
皇帝(欠落) | 不在の父性、守る力を持たない男性原理 |
戦車 | ハンナ=止まれない成長、強さの強要 |
隠者(影) | グリム童話的な知人=知恵はあるが現実を動かせない |
特に「皇帝」の欠落は、この映画の主題そのものです。
守るべき存在がいない世界で、少女だけが武器を手に走る――
それは、「父性なき時代の寓話」として、非常に示唆に富んでいます。
だからこそ、ハンナは矢を放ったのです。
支配的な母親に追われ、父的な存在は皆、何もできずに倒れていく。
誰にも守られず、誰からも本当の意味で導かれず、
それでも前に進まなければならなかったハンナは、
最後に矢を放ち、自分で物語に終止符を打ちました。
彼女が放った矢は、ただの武器ではありません。
それは、守られなかった娘が、自分自身を取り戻すための矢だったのです。